第5話 恩人

「「ごちそうさまでした」」


 失敗した野菜炒めを全て平らげ、手を合わせて食材に感謝を示した。

 美味しいとは言えなかったものの、それでも確かな満足感に微笑を浮かべて立ち上がる。


「それじゃあ俺は片付けするよ。もう夜も遅いし朝比奈は――」

「私も片付けします」


 帰れ、と言おうとしたのだが、恐ろしい程に真剣な声でさえぎられた。

 美しい蒼色の瞳には強い意志が秘められているのが分かる。

 葵の気持ちは理解出来るが、それでも首を横に振った。


「いや、いい。俺の家なんだから俺がやる」

「それじゃあせんぱいの手間を減らす為に家に上がった意味がありません!」

「移動の手間は確かに減ったんだから、それでいいだろ」

「そんなの納得出来る訳がないじゃないですか!」


 何となく予想はしていたが、やはり葵は納得出来ないらしい。

 形の良い眉がむっと寄せられているので、このまま流されるのは相当嫌なのだろう。

 けれど、空には空の思惑がある。


「納得してくれると助かる」

「どうしてですか?」

「俺がやりたいんだよ。悪いな」


 別に、葵を皿洗いが出来ない人だとは思っていない。かなり根が善良だという事も分かっている。

 それでも、詳しく知りもしない人に――あるいは忘れているのかもしれない人に――キッチンを使わせる気にはなれなかった。

 流石にストレートに伝えるつもりはなく、露骨に誤魔化して食器を纏める。

 これ以上踏み込むなという態度から察したのか、葵は不服そうな顔をしつつも渋々と頷いた。


「……分かり、ました」

「ホント助かるよ。それじゃあ朝比奈はもう――」

「でも、このまませんぱいに任せて帰る訳にはいきません。終わるまでここに居ます」

「はぁ……。もう好きにしてくれ」


 何も出来ない手前、残ると言い出したのは殆ど意地のようなものだろう。

 諦めの境地で許可を出し、キッチンに食器を運んでいく。

 先にテーブルを綺麗にすべきかと布巾ふきんを持って戻れば、葵が空へと両腕を伸ばした。


「テーブルを拭くくらいはいいですよね?」

「……仕方ない。ほら」

「ありがとうございます」


 テーブルを拭くだけなのだから、悪さなど出来るはずがない。

 そう判断して布巾を渡すと、葵の顔が安堵に彩られた。

 何だか空が悪い事をしている気がして、逃げるようにキッチンへと戻る。

 さっと洗い物を終えてリビングへと戻ると、葵は真っ直ぐに背を伸ばして座ったままだった。

 申し訳なさそうな、それでいて何かを言いたげな雰囲気なので、取り敢えず向かいに座る。


「本当に、今日はありがとうございました。それと、すみませんでした」

「もう謝らなくていいって言っただろ」

「そうですけど、せんぱいが嫌がってたのに強引にスーパーに着いて来て、その後も私が苦手だと分かってるのに無理矢理晩ご飯を作る約束をして、しかもこんなに迷惑を掛けましたから」

「…………分かってたのかよ」


 なるべく表情や態度に出さないようにしていたつもりだが、空が葵に苦手意識を持っていたのはバレていたらしい。

 もしかすると、食事の際に謝罪した事で察したのかもしれない。

 どんな反応をすればいいか分からず視線を逸らしながら肩を落とせば、葵が泣きそうに顔を歪ませた。

 けれどもそれは一瞬で、空が反応する間もなく目を細めた柔らかい微笑みへと変わる。


「でも、何だかんだで私に付き合ってくれました。せんぱいは優しいですね」

「こんなの優しさじゃないと思うけどな」


 葵とは家が隣なので、出来る限り角が立たないようにと打算で動いていただけだ。

 感謝される事ではないと苦笑を零す。

 すると葵は昔を懐かしむような遠い目をしながら、口元を綻ばせた。


「そういう所、変わりませんね」

「……やっぱり、俺を知ってるのか」


 葵の発言で、頭の片隅で考えていた可能性が確信へと変わる。

 これから隣に住むとはいえ、初対面の男性に女性が絡む事が異常なのだ。

 例え葵がどれほどコミュニケーション能力が高くとも、人付き合いに慣れていても。

 勿論、一目見ただけで気に入られたなどという、楽観的な思考はしていない。

 そうなると、葵とどこかで会った事があるというのが一番可能性としてあり得る。

 一応の答え合わせの為に質問すれば、小さな頷きが返ってきた。


「はい。せんぱいは、私の恩人なんです」

「恩人、か……」


 真っ直ぐで曇りのない瞳を見る限り、葵が嘘を言っているようには思えない。

 そんな彼女に申し訳ないと思いつつ、首を横に振る。


「すまん。覚えてない」

「いえ、いいんです。というか、覚えてくれていたら困ってました」

「どういう事だ?」


 恩人というからには、当時の空と葵の間で余程の事があったのだろう。そして、その事を葵はずっと覚えている。

 ならば覚えていない空にいきどおるのが普通だと思うのだが、彼女は気まずそうな笑みを浮かべているだけだ。


「思い出さないでくれると嬉しいって事ですよ。だから最初に『会った事があるのか』って言われて誤魔化したんです」

「その割にはあっさりバラしたな」

「絶対に隠したい事でも無かったですし、恩人だと伝えないとせんぱいからすれば訳が分からないでしょうから。思い出されると困るのも本当ですけども」

「なら俺とあんまり話さない方が良いと思うぞ?」


 何が切っ掛けで昔の葵を思い出すのか分からない。

 だからこそ距離を取るべきだと提案したのだが、彼女は迷いなく首を振った。


「それとこれとは話が別です。せんぱいには、ずっとお礼をしたかったんですから」

「俺が覚えてないのにか?」

「はい。これは私の我儘のようなものです。まあ、それで散々迷惑を掛けちゃったんですが……」

「何回か言ってるけど、俺は迷惑だと思ってない。もう手打ちにしよう」


 既に葵への苦手意識はほぼ無くなっているし、彼女の謎の積極性も納得出来た。

 料理の失敗に関しては、そもそも怒ってすらいない。

 引きるなと微笑を浮かべて提案すれば、葵がくすりと小さく笑った。


「分かりました。そうします」


 頷きを落として話を纏めた葵が、顔の左右に両手を持ってくる。

 何をするのかと眺めていると、彼女は自らの頬を思い切り叩いた。

 パチン、と乾いた音が響き渡り、驚きに目を見開く空へと澄んだ蒼色の瞳が向けられる。

 そこには、先程までの暗い気持ちは込められていなかった。


「……よし!」

「いや、それ痛いだろ」

「分かった上でやったんです。突っ込みは野暮ですよ」

「さいですか」


 僅かに唇を尖らせる葵に肩を竦めて立ち上がる。

 話も終わった事だし、流石に帰るだろう。

 そう思ったのだが、葵は座ったままにこにこと満面の笑みを見せていた。


「という訳で、せんぱいにお願いがあります」

「……内容による」


 何となく嫌な予感がして頬を引き攣らせると、葵の笑みが深みを増す。


「今回は失敗したので、明日改めて晩ご飯を作らせてください」

「まだお礼は済んでないのかよ」


 空は昔の事も含めて流したつもりだったが、葵は違ったらしい。

 突っ込みを入れると、当然だと言わんばかりの頷きが返ってきた。


「はい。とはいえ、一人でやるとせんぱいの好みが分からないので、また失敗するかもしれません」

「まさか――」

「そのまさかです。……料理を教えてくれませんか?」

「えぇ……」


 葵の好みで作れば失敗は無いはずなのに、彼女は空の好きな味にしないと納得が出来ないようだ。

 嫌だという気持ちが抑えられずに引いた声を漏らすが、葵はそんな空の態度を無視して楽し気な笑みを浮かべている。


「勿論、せんぱいの手はわずらわせるつもりはありません、ただ見てるだけ。どうでしょうか?」

「それは楽ではあるけどなぁ……」


 もうお礼は必要ないのできっぱりと拒否すればいいのに、口から明確な言葉が出て来なかった。

 それが隣に住む人への打算なのか、それとも葵という人物をほんの少しであっても知れたからなのか、空自身でも分からない。

 とはいえ、普通ならば提案を一考するまでもなく断っていたのは確かだ。

 言葉に詰まって視線を逸らせば、葵が体の前で手を合わせ、思い切り頭を下げた。


「私を助けると思って、どうか!」


 葵のペースに乗せられているのは分かっている。彼女が明らかにこの状況を楽しんでいる事も。

 それでも、空へのお願いが本気なのは分かった。


「…………ああもう、分かったよ」

「ありがとうございます!」


 がしがしと頭を掻きながら許可すれば、明るくて真っ直ぐな太陽のような笑顔が返ってきたのだった。

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