第3話 疑いと失敗
スーパーからマンションへ帰ってきた空と葵は、お互いの家の前で別れた。
一緒に買い物に行ったとはいえ、あくまでも家が隣というだけの関係なのだ。
どちらかの家に上がって世間話をするような間柄ではない。
葵は少し名残惜しそうな顔をしていたものの、空の気のせいだろう。
その後は弁当で腹を膨らませ、バイトを終えて家に帰ってきた。
「腹減った……」
ソファに体を預け、ぽつりと呟きを落とす。
時刻は二十一時を超えており、既に空がバイトから帰ってきてから一時間以上が過ぎていた。
葵には空が用事を終えて家に帰ってくる時間を別れ際に伝えていたので、本来ならば今頃はとっくに晩飯を摂り終えているはずだ。
また、当然ながら葵に空の家で作ってもらうつもりなどないし、葵の家に行くつもりもない。
だからこそタッパーで届けてもらうはずだったが、いつまで経っても葵が晩飯を届けに来なかった。
「もしかして、
体の良い言葉と人好きのする態度で擦り寄り、情報を得るだけ得たら用済みとばかりに切り捨てる。
もし最初からそのつもりで空と接触したのなら、大した度胸だ。
これから空と葵は何度も顔を合わせる可能性があるのだから。
それでも、人が態度を変える時は一瞬だと空は良く理解している。
それに、空も友好的な態度とは言えなかったので、自業自得かもしれない。
ズキリと痛んだ胸を抑えていると、空の耳に呼び鈴の音が届いた。
「……良かった」
安堵の溜息を落としたが、空腹が満たされる事にではない。
僅かに弾んだ胸を抑えて玄関の扉を開ける。
そこには、両腕を体の後ろに回して顔を俯けている葵が居た。
「その、すみません……」
「いきなり謝られても訳が分からないんだが」
美しい金髪に隠れて表情は見えないが、声色が沈んでいるので相当落ち込んでいるのだろう。
詳細を教えて欲しいと懇願すれば、葵の顔が僅かに上を向いた。
蒼色の瞳は潤んでおり、今にも泣きだしそうに見える。
「……野菜炒め、失敗しました」
「ま、そういう事もあるだろ。それで、食べられる物なのか? 食べられない物なのか?」
料理を失敗したとの事だが、どんな物になったのかは分からない。
黒焦げの炭になったのか、はたまた人が食べられない暗黒物質になったのか。
野菜炒めの状況を尋ねれば、葵の顔が
「怒らないんですか?」
「朝比奈が失敗する可能も考えた上で頼んだんだ。怒る理由がない」
「こんな時間になったのに、ですか?」
「腹は減ったけど、来てくれたから別にいい。それで、どうなんだ?」
再び尋ねると、葵がおずおずと体の後ろに隠していた手を前に持ってきた。
そこには所々が黒く、野菜の色が見えない程に濃く色づいた物がある。
「一応、持ってきました。何とか、ギリギリ、食べられると思います」
「ならよし。いただくよ」
「えっと、あの、失敗した物ですよ? 本当にいいんですか?」
「俺に作ってくれたんだろ? なら、ちゃんと食べるのが俺の仕事だ」
明らかに食べられそうにない物を見せられたらどうしようかと思ったが、これなら大丈夫だろう。
タッパーへと手を伸ばすと、葵が怯えるかのように距離を取った。
「だ、駄目です。美味しくないですから」
「失敗したんだからそんなの当然だっての。もしかして、受け取って捨てるとか思ってるのか?」
いくら失敗したとはいえ、自分の作った物を捨てられるのは流石に辛い。
そして、空が食べる所を葵は見る事が出来ないのだ。
疑うのも無理はないと思うが、そんな無情な事などしないと眉をしかめる。
すると、葵は長い金髪が
「思ってません! これは料理を見せにきただけで、せんぱいに食べてもらうつもりはなかったんです!」
「でも、それが無いと白米だけなんだが。いくら男でも流石にそれはキツいって」
「それはそう、かもしれません、けど」
「だからその野菜炒めは俺が食べる。ほら」
つべこべ言わずに野菜炒めを渡せと、再び葵へ手を伸ばす。
空の意思を曲げられないと思ったのか、ようやく彼女はタッパーを差し出してきた。
しかし、葵はタッパーから手を離さない。
「えっと?」
「せんぱいにだけ食べさせる訳にはいきません。私も食べます」
「いや、この野菜炒めって一人分だろ? おかずが足りなくなるんだが?」
「…………実は、ですね。まだ野菜炒めの失敗作があるんです」
「まだあったのか。というか、昼間に買ったのって俺の分だけだったよな?」
追加の失敗作があると聞いて思わず頬が引き
どうせ失敗作を食べるのだ。その量が増えても構わない。
とはいえつい疑問を口にすれば、罪悪感が強過ぎるのか葵の顔がくしゃりと歪んだ。
「そう、ですね。えっと――」
「ああ、ちょっと待った。取り敢えず飯にさせてくれ。それで、どうする?」
折角空の質問に答えてくれるのに話を切って申し訳ないが、玄関で立ち話をし過ぎだ。
そろそろ空腹が限界なのもあり、少々強引に話を切る。
すると、葵は訳が分からないとばかりにこてんと首を傾げた。
「どうする、とは?」
「野菜炒めは二人分なんだろ? それを一緒に食べるなら、どっちの家で食べるかって話になるんだが」
この様子だと葵に「無理に食べなくていい」と言っても聞かないと思うので、説得は諦めている。
また、口では否定したものの、空が野菜炒めを捨てないかという不安はあるはずだ。
流石に深読みし過ぎだとは思うが、何にせよ一緒に晩飯を食べるべきだろう。
となると、どちらの家で食べるかは絶対に決めなければならない。
空の一存で決められるものではないので選択を投げると、葵の顔に焦りが浮かんだ。
「せんぱいにこれ以上迷惑は掛けられません! 私の家に来てください!」
「別に迷惑は掛けられてないんだが。まあ、分かった。絶対に足りないだろうし、米だけ持って行くよ」
「あ、そういう手間が発生しちゃいますね……。 ならさっきの話は無しで、私が全部せんぱいの家に持って行きます!」
「お、おう。了解」
普通は夜遅くに男の家に行くか、自分の家に男を上げるかという判断をすべきだ。
しかし、空の手を
おそらくは空への申し訳なさで頭が一杯であり、思考が回っていないのだろう。
葵の剣幕に押されて頷けば、彼女がすぐに身を
「すぐに準備しますので!」
あっという間に葵が隣の家に入っていき、姿が見えなくなった。
彼女の素早い身のこなしに暫く呆けていたが、我に返って空も家の中に入る。
リビングの机に皿を置く等の準備をしつつ、がっくりと肩を落とした。
「どうしてこんな事になったんだ……」
隣に引っ越してきた美少女と、その日に同じ食卓を囲む。
そんな事が起きる確率など相当低いはずだ。
この状況は、他の男からすれば喉から手が出る程に欲しいものだろう。
食べる物が失敗作であっても、美少女とはいえ苦手なタイプであっても。
だが葵が無遠慮に距離を詰めてくるような人ではなく、料理が失敗したと謝れる人物だというのは分かっている。
だからこそ、肩を落としたものの胸の中に葵への悪感情がないのだろう。
「まあいいか。一回だけなんだし、気にしたら負けだ」
思考を打ち切り、手を動かす空だった。
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