第2話 ヘビの死体

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 学生だった彼女は思月という名前だった。顔をきちんと見ると目がぱっちりと大きく見開いており、ほとんど瞬きをしていないかのように乾いている。一週間後に、今度は子供を連れずに博物館に訪れた。前とは違って薄いカーディガンを着た私服姿で彼女は現れた。私を見つけるとすぐに駆け寄って来たが、それはある目的があっての行動だった。

「個人で骨格標本を作れますか?」

 思月は私のネクタイを見ながらそう言った。声がわずかに震えて、緊張している。

「どんな種類の動物?」

「ヘビです。爬虫類なんですけど、先日、訪れたときにここは展示だけではなくて標本の作製もしていると言っていたので、お金はあります。いくら払えばうけたまわってくれるでしょうか?」

 こんなことを言われたのは初めてだったので、少なからず動揺した。私は彼女を保管室へ連れていった。ここは展示するスペースのない骨格標本が仕舞ってある倉庫だった。四列に分かれている棚の内、半分くらいは展示物で埋まっている。残りは正体のわからない雑多なものが置いてある。館長の森内さんにしかわからないものが多数含まれていた。奥に進んでいき、そこにはビルを横に倒したような骨格標本を作るための装置があった。私は初めにその説明を思月にした。

 骨だけにしたい生き物を運んでくる。網目のある容器にそれを詰めて、必要とあれば専用の器具をはめて固定する。水の入った装置の中に容器を沈める。あとはひたすら熱を加えて油が落ちるまでそれを繰り返す。極めて単純な作業だった。

 私は説明を先にしたのを後悔した。彼女は早く結論を欲している。サイズにもよるだろうが、ヘビくらいならば、わざわざこの装置を使わなくても自宅で骨だけにさせるのは可能である。それくらいわかるはずだ。彼女のおかれている状況がそれを可能にはさせないのだろう。だから身近でもない大人を頼っている。思いあがらないことだ。私は学芸員として当然の対応をすればいい。

「どういう目的で使用されますか?」

「逃がれたくて」

 年相応な反応が返ってきて、私は安心した。上に説明する言葉は適当にでっち上げればいいだろう。そういうのは私の役目だ。こんなところで彼女を困らせるのは酷いと思った。

「君は個人的にヘビの骨格標本を欲している」

「はい」

「それがわかれば前に進める」

「いったい何が不足しているのですか?」

 私は上手く答えられなかった。彼女は一向に不満そうな顔をしている。

 ここには君の求めているものはないと説明するべきだった。博物館にもヘビの標本はあるのだから、それを見たいというわけではないのだろう。理由のないものほど、私は気になる。思月の肌は脱毛サロンに行った後のように綺麗だった。事務所に戻ると高橋は新しい観葉植物の手入れを霧吹きを片手に持って行っている。館長の席には誰もいなかった。

「森本さんは?」

「休憩に行きましたよ。何かありましたか?」

「骨格標本を作りたいという人が来たから、装置を使用していいかたずねたくて」

「珍しいですね。どこかの学校ですか?」

「違う。個人的に作りたいそうだ」

 頭がおかしくなりそうになる。私は同じことを何度も説明したが、彼女はそれを決して理解しなかった。デスクにはペットボトルが置いてある。私の側には中身のないコーヒーカップがある。中身がないといっても円形の溝には染みのようにわずかな液体が付着して、ひっくり返すのは躊躇するのだが。私は森本さんがここにやって来るまでのあいだ、何をしていたのか覚えていない。そんなに重大な仕事はしていなかったと思う。木登りをするように顔が引きつっていた。

 秘密を保持するのは得意ではないのだ。私は居てもたってもいられなくなり、トイレに行くふりをして彼を探した。すれ違いになる恐れはもちろんあったが、ある程度の検討はついていた。彼は開けたテラスの二階で本を読んでいる。字の大きい本だ。放送コードを踏まないように、私はそれを跨いで向かっていった。録画されたスポーツ番組を見ている老人が近くにいる。照明が眩しかった。彼に思月について話した。

「わかりました。怪我をさせないようにだけ注意してください」

 すんなりと了承してくれた。意外だった。てっきりやんわりと反対されると思い込んでいた。彼にも似たような経験があって、すでに私の良心が板挟みされるような思いに気がついていたのか。上の許可を取る前に、私は彼女に、もう一度声をかけてもらえればいつでも君の思いどおりに出来ると言っていた。

 次に思月に会ったとき、彼女は約束していたヘビを持ってこなかった。大きめのリュックサックを背負っていたので、そこに保管しているのかと思って、管理室まで案内したらそうではなかった。

「すみません。あの、言い出せなくて」

 彼女は何か言いたそうにしていた。私は話すまで待っていた。すると彼女は私に近づいて小声で囁くように言った。

「実は骨にしたいのはヘビじゃないんです」

 私は思わず距離を空けた。今にも泣きそうな顔を彼女がしたので、すぐに距離を元に戻そうとした。

「それじゃあいったい何ですか?」

「人間」

「え?」と私は思わずきき返した。

「肉のついた人間を骨格標本にしたくて」

 これは面倒なことに巻き込まれた。彼女は人の死体を保有しているのだろうか。興味深いけれど、一度踏み込んだら元には戻れない気がした。私は肩で息をついて思月の顔をしっかりと見た。かわいい。それに何か冗談を言っている感じではない。真剣にやりすぎて体も心を壊しそうな雰囲気だった。

「どうしてそうしたいと思った?」

「動機なんてつまらない」

「確かにそうだ。変な質問をした」

「協力して欲しい」

 私はスマホをポケットから手に取った。思月はそれを止めるように私の腕を掴む。握力が弱いのか、ぜんぜん痛くない力の入り具合だった。まるで私の方が変なことを言って、怯えながらも、彼女は倫理的に行動している風だった。外から見たらきっとそう見えただろう。私は辺りを見回した。幸いにも誰もいなかった。扉はきちんと閉まっているだろうか。もっと用心深く確認したかったが、彼女は結論を待っている。

「わかった。そんなに君の精神が絶望の淵にあって病んでいるようには見えない。そういう精神状態にある人間は、こんなに小綺麗であるはずがないから。なにか特別な事情があるのだろう」

「うん。そうだよ。親とか、学校の先生には言えないこと。一人では抱えきれないこと。前に進まなくちゃいけないから頼った。あなたは見返りとか要求しなさそうだったから」

「ヘビなら山のなかに生息しているけれど、その人間はいったいどこにいる?」

「死体だって山にいる」

「君は死体を発見した?」

「うん」

「だが、それを警察には届けない」

「うん。知り合いだから」

 後ろ姿を見ていると思月が危険だとは思えないのに、私は冷や汗をかいていた。入り口まで案内すると、知らない音楽が流れている。私たちは明日、個人的に会う約束をした。そこには知り合いやあらゆる社会的なものは混ぜないようにと言われた。つまり吹聴は禁止ということだ。明日は博物館の定休日である。そんな日に知り合ったばかりの女の子と待ち合わせするなんて、数週間前の私であったら考えられない。車に乗っていると自分は二重人格なんじゃないかと思ったりもした。自分の狂暴な部分が、無意識に彼女を脅しつけているのではないか、と。小さい頃からあまり人に激しくぶつかった記憶がなかった。そんな人間は本当にいるのだろうか? 現状に不満がないという訳でもないのに。私は車を脇に止めてから、電話をかけた。

「もしもし。お祖母ちゃん。俺なんだけどさ、今日は帰るのが少し遅れるから、夕飯は先に食べてて」

 一方的に用件だけを言って私は電話を切った。まるで詐欺師みたいだった。一度落ちつく必要があると思って、普段ならば絶対にしない寄り道をした。近くの温泉施設に行って憑りつかれたように風呂やサウナに入り、ふと気がついたらお酒がテーブルの上にあった。危ない、一滴でも飲んだら帰れないところだった。私はそれを隣に座っていた家族連れの父親に勧めてから、外に出て、自動販売機で知らない銘柄のアイスコーヒーを買った。馬鹿みたいである。思月という私よりも経験にも知識にも乏しいであろう学生は、こんな風なものを一人で抱えていたのだろうか。それとも彼女にとっては興味や関心の延長線上にあるものを、私が異常に考えているだけなのか。それは結局のところ明日になってみないとわからない。思月はかたくなに詳細を教えてくれない。まともな人間であったら、そんな話は聴き入れないか、公的なものに任せるだろう。どちらにしても、相手を無視しようとするはずだ。私が積極的ではないにしても彼女に直に接しようと思い立ったのは、隠しごとは心の内から消えることがないというのを知っているからだった。もし、彼女が間違った行いをしているようだったら、私はどんな判断を下せるだろうか。ここで逃げてしまえば、大人は無責任だと思って、もっと危険な人物と彼女は接触する可能性が高いのは目に見えている。私は彼女を襲おうとかそういう思いは起きない。とにかく明日は逃げてはダメだ。思月を傷つけることになる。

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