骨無し館

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第1話 博物館に来た子供たち

 国家資格を取ったからといって人生はさほど豊かにはならない。私は退屈を持て余している。地方にある小さな博物館で学芸員の仕事をしている。忙しいと感じたことは殆どなかった。土地の近くに生息している動物や植物を展示している、十八年前の六月二十九日に建設された国立博物館だった。そのため、当然のことではあるのだが、目新しい展示物はない。その土地の名前のついた動物などはいたけれど、それは見た目ではたいして希少性があるとも思えなかった。訪れるのは主に暇を持て余している近隣の住民だった。博物館のすぐ近くに老人向けの施設があるせいなのか、館内には座れるスペースが多数用意されている。次に多いのは小学生の子供たちで、自主的に来るというよりも、ある時期になると学校の先生と一緒にここへやって来るのだった。その時がもっとも騒がしくて活気に満ち溢れたときであるように思う。走らないように努めている子供たちがいる。みんな帽子を被っておらず、外に出るときには防寒着を着ている。

 今日はそんな特別な日ではなかった。私が館内を巡回していると、そこには見知った顔の人たちがいる。数人の老婆たちが茶色いソファに座って談笑をしている。閉館の二時間前になると、四人の小学生くらいの子供を連れた制服姿の女の子がやって来た。その様子は新鮮でありながら懐かしくもある。彼女の着ていた制服は私の通っていた高校と同じものだった。ポロシャツのようにも見える襟とボタンが大きめのワイシャツに、無地の紺のスカートを履いている。この博物館からあの高校へはかなり距離が離れているはずだった。彼女が連れていた子供たちは「涼しい」と言いながら散開している。「走ったら危ない」とそれを咎めている。みんな顔が真っ赤で日に焼けている。不健康そうな子は一人もいなくて、どれも活発そうだった。汗をかいているのか、頻繁に鼻をこすっていた。私はいつもの退屈な事務作業をやるのに事務所の中へと入っていった。無邪気な質問をされたりするのは得意ではないのだ。

 館内にはエアコンがついているのに、事務所には窓が開いており扇風機が一台だけ回っている。この博物館の館長である森本さんは、エアコンの風を好まなかった。どうも体調が悪くなってしまうらしかった。彼は他の館員に気を遣って、気温や湿度の高いときはエアコンをつけていた。オンとオフを繰り返すドライの設定にしてはいたが。電化製品は基本的に起動するときがもっとも電力を消費するので、私は自宅に居るときはこういうやり方はしなかった。仕事場では色々なものを無暗に消費してもさほど罪悪感は抱かない。大学などで夏であろうが冬であろうがまったく換気をしようとしないのに、私はうんざりしていたので、無理に窓を開けると、その授業からも周りの学生たちからも孤立をした。そのためなのか、森本さんの少し変わったやり方にそこまで抵抗したいとは思えなかった。

 私のデスクの真向いには高橋実里という館員が熱心に書類の整理をしていた。何をしているのか、あんまりわからないがパソコンの画面を見比べながら、仕事をしている感じを醸し出している。彼女はもちろん悪い人間ではないのだが、たとえば私が掃除の担当のときに「仕事がはやく終わったので、事務所の掃除は私がやっておきますよ」と言ってくれるのはありがたいが、それは明らかに館内に入っている人のなかに苦手な部類の子供たちがいるときだった。外から見ている分にはそんなに変な対応をしている風には見えないが、それは彼女の背丈が小さいからそんな風に見えるのだろう。

 私は一時間ほどで通常業務を済ませて、またもや館内に通じる扉を開いた。古い木製の扉で、丸い銀のドアノブがやけに冷たかった。さっきの子達はもう居ないだろうと思って、入口のすぐ側にある水槽を見ると、彼らは五人揃ってそこに集合している。この博物館のなかで子供が見ても楽しいと思えるのはあの水槽ぐらいじゃないか。あそこにだけ生きている魚が泳いでいる。主に川に生息する淡水魚であるから、見た目は地味ではあるが。

「この音楽って誰なんですか?」と女の子がきいてきた。

「いま流れているのはチェット・ベイカーですね」

「知らない。知らない」

 子供たちは口を揃えて言っている。

「私たちが生まれる前に亡くなった人ですよね」

 彼女のシャツの胸ポケットには青いスマホケースが透けて見えている。私は何もおかしなことはないはずなのに、わずかに動揺していた。

「うん。確かそうだと思います。詳しいですね」

「家族にジャズが好きな人がいて、この人の歌声もなんとなく覚えている」

「そうですか、ここの館内にも私よりもずっと音楽に詳しい人がいるんですよ」

 私がそう言ったちょうどそのとき、レコードを持っている高橋実里がやって来た。が、彼女はこちらを見た途端に、慌てて向きを変えてしまった。

「ここの水槽はあなたが管理しているのですか?」

「一人でやっている訳ではない。いわゆるアクアリウムについて、もっと詳しい人はいます。今日はお休みですけど」

 とくに指摘された訳ではなかったが、「あなたは何なら詳しいの?」と思われたような気がした。

「動物の骨の知識なら、私は他の学芸員よりも豊富な知識があります。例えば骨を提示されて、それがどこの部位で、どんな動物であるのかとか。ここの博物館では直接に標本を作っているから、働くだけで特技は身につきます」

「そうなんですね」

 何歳も年の離れた人に気を遣わせたのに、私は情けなくなった。ここの博物館にはオーディオ機器が設置されており、それを提案したのは高橋実里だった。あまり自発的に何かを発言するのが少ないので、それは意外だった。

「本当はイエスとかエマーソン・レイク・アンド・パーマーとかを流したいんですけどね。やっぱりそれは館内の雰囲気に合わないのかな、と思って比較的ポップなものを選曲している」

 彼女はかなりの音楽オタクだった。私がそれに興味を示すと、現実で趣味の合うものに出会った経験がなかったのか、驚くほど流暢にバンドの変遷などを教えてくれた。おすすめの曲を焼いたCDをくれたときもあった。

 ウサギの骨格標本の側に高橋はいた。新しいレコードをまた家から持ってきたようだ。肩幅と同じくらいの大きさのレコードを大事にそうに抱えている。

「いつも寄贈してくれてありがとう」

「ここに置いてるだけですから、寄贈じゃないですよ」

「お金とか大丈夫なんですか?」

「中古のレコードだから、そんなに高くない。新品で買ったらそれなりの値段はするけど、中古であるなら夕食のデザートを我慢するくらいの値段で買える」

 私はそれならストリーミングサービスや動画サイトなどでいくらでも聴けるじゃないかと思っていた。人の趣味に口を突っこみたいわけではない。彼女と話している内に、私はある異変に気がついた。

「あれ、ウサギの耳が欠けている」

「え?」と言って高橋はそれをじっと見つめた。「そうなんですか。元々こんな感じだったような気がしますが」

 私は辺りを見回した。しかし、違和感を証明する骨のようなものは見つからなかった。報告書にはその趣旨を一応書いておいたが、もとの写真からはその違いを見分けるのは難しかった。目的の対象に写真がクローズアップされていないのもあるが、その変化は本当にわずかであるのも原因の内の一つだった。遠くから小さな黒子を見つけるようなものだった。

 仕事が終わると車を走らせて祖父母の家に帰った。道中では広野のような何にも使われていない柵に覆われた土地がある。私は祖父の食事の介護をしながら温かい夕食を食べていた。夕食にかけての時間帯は私が年老いた祖父の介護をして、その他の時間は祖母が介護をしている。母親はいわゆる自由人であり、今はアメリカで知らない男と付き合っている。元々は作家とか映画監督になりたかったようだが、そちらの才能はなくて、主に子育てが一段落して暇を持て余している主婦層に向けたエッセイ本の著者であると世間では思われている。そんなに広くは知られていない。息子である私は自立を目指している母親にとって邪魔だったのだと思う。意志疎通を上手くとれなかった。そのため母親が居ないところで、私は母親の書いた本を読んでいた。そこには一貫性というものはまるでなく、不気味なくらいの自己肯定だけが漂っている。「わたしは○○(父親の名前)に腹を立てたことがないんです」といった、いわば読者に裏の顔を想像させるような手法を巧みに使っていた。実情を知っている息子の私はそのテクニックを恨んでいた。それを容認している女性誌の読者は表面的にしか物事を捉えられない人々であると思っていた。

 私は母親とは違う生き方をしたいと考えた。それを理解しようと努めると、社会性が著しく損なわれている自覚があった。母親が作っていたのは単なるガス抜きであって、歴史に残るようなものではなく、そんなにたいしたものではないのを、成長するにつれて理解したが、どうにも私は実の母親というので過大評価している。本人もそれに薄々気がついて、私を産んだのではないのかとさえ思える。こういう些細なものをすべて気にならないような特別な才能が私にはなかった。そのためできるだけ慎ましく手の届く範囲を地味でもいいから支援したかった。老人介護になんの喜びも見いだせないが、一人の人間が四六時中同じ人間の支援をすると必ず誰も望まなかった歪みが生れるのを知っていた。運よく仕事場も祖父母の家の近くになった。私の思いと今の生活とは確実とはいえなくとも、それなりに一致はしているはずだった。たまに逃げ出したくなるような退屈さだけが、私の気持ちを煩わせていた。

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