第2話

 昔、この地に裕福な商家があった。

 代々手堅い商売を続け地元での信頼も高く、町の寄合いではそれなりの地位を任される、そういう家柄。

 側からは順風満帆に見えた商家だったが、当代には長らく子ができず、とうとう主人は嫁に離縁を言い渡した。ぜひとも後継をとの期待を託し、次は若い嫁を迎えた。念願かなってすぐに嫁は懐妊し待望の第一子が産まれたのだった。が。

「な、なんだこいつは! どうなっている!」

 産婆から生まれたばかりの子供を見せられた当主は驚き、慌て、困惑し、そして怒り狂った。

「男でない上に、こんなかたわを産みおって!」

 産まれた子供には、片方の足の膝から下が備わっていなかった。

「役立たずの嫁め、お前などもういらん! 離縁状を書いてやるからさっさと出て行け!」

 産まれたばかりの我が子の前で激昂する夫の前で、妻は唇を噛み締めて耐える。十月十日大事に育て命がけのお産の末やっと生まれてきた我が子に対してあまりの言い草ではないか。ただ実際に、産まれてきた子は夫の期待に添えるものではなかった。悲しみと屈辱で涙をこぼした時、夫の母である先代の女将が口を挟んだ。

「こう短期間で何度も離縁したとなるとよくない噂も立ち、商売に影響がでるかもしれない。せめて立場はそのままに。お前が気に入らないのなら、この子の面倒は私がみます」

 代替わりしたとはいえ、先代と一緒に店を切り盛りしてきたやり手の女性である。母でもあり仕事の先輩でもある女将にびしりと言われ、当主は離縁を諦め、妻は怒りの矛先を向けられぬよう遠く離れて暮らすことになった。彼女は子供を引き取りたがったが、女手一つで育てるより裕福な家で面倒を見たほうがこの子の為になるとの説得を受け、涙を飲んで別れを受け入れた。

「安心してちょうだい。この子は私が責任を持って育てますから」

 言葉通り、女将はたくさんの愛情を注いで娘を育てた。器量もよく利発に育った娘は屋敷の皆からも可愛がられたが、奥座敷から出ることだけはなかった。

 そんな生活が一変したのは、娘が初潮を迎えしばらくしてからのことだった。可愛がってくれていた女将が亡くなったのだ。娘は葬儀に出ることも許されず、部屋で一人涙をこぼし祖母の死を悼んだ。一方お目付役がいなくなった当主は喜び勇んで妾とその息子を屋敷に迎え入れる。息子はもちろん、当主と妾との間の子である。娘とほとんど年のかわらぬその男子が、後継のいないこの店を将来継ぐであろうことは自明の理であった。そういう理由もあり、来て早々から妾はまるで正妻のような顔で女主人のいない屋敷を仕切るようになっていた。ちょうどその頃である。町をあげて数年前から取り組んでいる、ため池の改修で問題が起こったのは。


「どうにもいかんな」

 こじんまりした建屋の中で、行灯の灯りの元、十人ほどの壮年の男たちが車座になって話し合っている。

「ここまでは順調だったんだが…やはり問題は西の取水口か」

「何度もやり直してはいるが、どうにもうまくいかないらしい」

「職人を変えては?」

「江戸や肥前から腕のいい船大工を呼んでこれだぞ。他にできるものがいるとも思えん」

「しかし改修は皆の悲願。成功させねばまた長雨の際に周辺が犠牲になる」

 全員が口を噤む。しばしの沈黙のあと、最年長の恰幅のいい男が口を開いた。

「…あれ、しかないのか」

 気まずそうに顔を見合わせる男たち。中には首を竦めるものもいた。

「しかし、「あれ」となると、どこからか一人ださにゃならん」

「ちょうどいいやつがおるか?」

「昔は通りがかった旅人や僧侶を捕まえて…なんて話を聞いたことがあるが」

「そんな事をしたらすぐ噂になっちまって、人が寄り付かなくなるんじゃないか」

 色めき立ちはじめた人々を、まあまあと宥めたのは商家の当主だった。

「すぐに決められることじゃない。何か上手い手立てが見つかるかもしれんし、今日はこのへんで」

 問題は解決しないまま家に帰ることになり、どうにも腰が座らないので主人は家で酒を飲むことにした。酌をする妾に、つい顛末を愚痴る。

「まあ」

 妾はそう言うと、主人に酒を注いでから自分の猪口に口をつけた。

「そういうのって、若い生娘が一番いいのでしょう? うちにぴったりなのがいるじゃありませんか」

 あちこちで綺麗だと褒められる顔に不敵な笑みを浮かべる。

「こっちから名乗りを上げて差し出しとけばうちの家名も上がります。どうせあの足じゃ嫁の貰い手も見つからないだろうし、ここで一生穀潰しの邪魔者扱いされるより、水神様の嫁になれる誉、しかも家の為になると思えば、あの子だって嫌とは言わないでしょう」 

 当主はうむむと唸った。

 産まれてすぐ見たきりでほとんど顔を合わせてもいない娘だったが、一応血を分けた子供である。頭の上がらない母と立場上の妻の間の言質とはいえ、一応引き取った責任もある。逡巡を見せる男に妾は囁いた。

「町と池の歴史に、貴方の名前が未来永劫残りますわよ」

 と。





「その男と妾の間の子、というのがお主の数代前じゃ」

「えっ」

「えええっっっ!」

 教授も驚いたが、俺はもっと驚いた。

「先祖返りとでも言うのかのう、お主は顔も背格好も、その父親によう似ておる。眠っておった感情に、血が反応したという面も少なからずあるじゃろうな」 

「そんな…」

 教授にとってみれば完全なとばっちりである。しかし、同情する俺の横で教授はなぜか納得の表情を見せている。

「そうでしたか…。確かに我が家は戦前まで『かつて池の大改修の際に大変な功労があった』として、代々地元の有力者扱いだったと聞いたことがあります」

「先生そんな人ごとみたいに」

「僕の親の頃にはもうそんな時代じゃなかったからね、実感もなにもないよ。しかしこんなところで影響があるとは」

 俺たちが状況を整理している間にも女は数珠を外そうともがいていたが、教授と上人の会話が聞こえたのか、ある単語に反応していた。

「ギョウキ」

「ぎょうき?」

「ぎょうき!」

 ぶつぶつと繰り返す女の声が多重音声のように重なりはじめる。男、女、老人、子供、たくさんの声が混ざっているように聞こえる。女の背後に恨めしそうな人影が幾つも浮かび上がって、それが吸い込まれるように女の中に消えた。端正な顔が歪み、目と口が釣り上がる。瞳は赤く染まり長い髪が逆立ち、額の端が盛り上がって二本の角になる。体もひと回り大きく、強くなった力を誇示するかのように巻きついていた数珠を引きちぎった。

 あまりに現実離れした光景に息を飲むしかない俺と教授。

「集まりおったか」

 上人は数珠を手元に戻し、手早くちぎれた部分を結び直す。短くなった数珠をびんと張り確かめると、落ちた珠を一つづつ俺たちに持たせた。

「持っておれ」

「い、今のは」

 珠を握りしめ、震える声で教授が聞く。

「他所から持ってきたものに憑いていた怨念じゃ。あの娘を容れ物に使い、自分たちの恨みを晴らそうとしておる」

「ということは…もしや、私の集めた資料が…?」

 教授が愕然と呟いた。それはそうだろう。せっかくの研究の成果がこんなことを招いてしまったなんて、今度こそ俺は教授に心底同情した。

 雄叫びを一つ上げて、鬼がこちらの事情などお構い無しに向かってきた。あの鋭い爪で攻撃されたらひとたまりもないだろう。必死で逃げて避けることしかできない俺たちを狙い、ただひたすらに執念で追いかけてくる。

「ギョうキ オまえが」

「オマエガイケをツクったせいで」

「オマエがハシをカケタせイで」

「なんどもナンドモながさレ」

「トマリのフシンではたクさンのギせイが」

「わたしハかンけいないノに」

「たダとおりがカッタだケなのニ」

「つちが」

「ミズガ」

 怨嗟の声が頭の中に響く。どろどろとした黒い感情。苦しみ、悲しみ、痛み、恨み、怒り、そんな負の思いがぐちゃぐちゃに混ざってうねっている。強い感情が鬼を中心に実態を持って渦を巻き、部屋全体に広がっていく。空気が澱みねっとりと体にまとわりついて、足も頭も重くなり俺たちは動けなくなる。

「おマエたちもオナじメに!」

「クルシムがいい!」

 高い嘲弄の笑い。轟音がして、天井が外れた。大量の土砂が降ってくる。

「うわあっ!」

 上人が俺たちを守るように前に出て、数珠を構えた。その時。

「やめて!」

 重い空気を裂く高い声がして、土砂が止まった。恐る恐る顔を上げてみると、何事もなかったかのように天井はそのままだ。

「許して、許しておくれ。あの時お前を引き取っていればと、何度悔やんだか」

 年配の女性が一人、部屋の真ん中にいる鬼に駆け寄って、涙を流しながら縋り付いている。

「あの日、噂を聞いて慌てて向かったけど、間に合わなくて」

 逆立った髪に、怒気に赤黒く変色した頰に触れ、優しく何度も撫でて、狂気に暴れる鬼を愛おしそうに抱きしめる。

「辛かっただろう、苦しかっただろう」

 鬼の動きが一瞬止まった。

「…あの人、もしかして」

 俺の問いに上人は一つ頷いた。

「娘が彷徨いだすようになってから、近くの寺に眠っていた母親の魂も目を覚ましてしまってな。ずっとこの池のあたりで迷っておった。娘が鬼となったことで、この場所を見つけられたんじゃろう」

 女将が生きている間は頻繁に届いていた連絡が途絶えたことを不審に思った母親が、屋敷の様子を伺いにきた時には、すでにことは終わった後だった。娘を助けられなかったことを母親は嘆き悲しみ心から悔い、そのまま出家した。池を眺めることのできる寺で日々娘を弔い、残りの人生を過ごしたのだという。その母親の魂が鬼となった娘のために駆けつけ、それに俺たちは助けられたのだ。

「ハナセ!」

「やめろ!」

「コの体は我ラが」

「こんなオンナひきさいテしマえ」

 我に返ったのか、しがみつく細い身を振りほどこうと鬼が女性に向かって手を振り上げる。

「いかん」

 上人が数珠を繰り、朗々とよく響く声で念仏を唱え始めた。女性もそれに唱和する。歌にも似た抑揚に合わせ鬼の体が光りだす。俺と教授ももらった珠を手に握りこみ必死に祈る。

「ア、あ、あ”」

「口惜しや」

「この恨ミいつか」

「われらハまだ」

 鬼の体から一つ、また一つと靄のような黒い塊が抜け出していく。

 怨念がその身を離れたおかげか、鬼の姿がみるみるうちに変化していった。博物館の制服を着た二十歳くらいの若い女性の姿に戻り、それから高校生くらいになり、中学生くらいになり、そして十歳そこそこの、花柄の着物を着た少女の姿になったところで光が収まった。

「やれやれ、元の姿に戻ったな」

 上人が安堵の表情で数珠を袂にしまう。

 正気を取り戻した少女は目を見開き、呆然と自分を抱く女性を見る。

「かかさま…なの…? わたし、の…」

「そうよ、そうよ。待たせたね。かかさまが来たからもう大丈夫よ」

 女性は大きく何度も頷いて、娘の名前を繰り返す。

「…こわ、かった」

 娘の声が震え、ぎゅっと母親にしがみつく。

「こわかった! 苦しかった! 痛かったよう!!」

 堰を切ったようにわっと泣き始める。

「土がいっぱい、どさってきて、それから水が、いっぱ、いっぱい」

「痛かったね。怖かったね。もう大丈夫だよ」

 しゃくりあげる娘の頭を、頬を、体を、母は何度も優しく撫で摩る。

「よく頑張った。もう我慢しなくていいよ、苦しまなくていいよ。辛いのもしんどいのも、全部かかさまが引き受けるからね」

 かかさま、かかさまと繰り返す娘を抱きしめて、母親はゆっくりと子守唄を歌い始める。体を揺らし、添えた手はリズムを取るように優しく動く。覚えのある優しい感覚に、俺の心まで満たされるようだ。

「ようやく二人を会わせることができたわい」

 上人が柔らかく微笑んだ。俺たちの目の前で抱き合う親子の姿が徐々に薄れていく。

「これで浄土に行けるじゃろう」

 手を合わせる上人の姿が、ひどく印象的だった。子守唄の効果なのだろうか、俺の瞼も下がっていく。甘い誘惑に抗えず意識が揺らいで、ぼんやりとした耳に聞こえてきたどさりという音は、俺が倒れた音だったのか、教授が倒れた音だったのか。

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