池にいるもの 改訂版
望月遥
第1話
「夏休み中の指定の日、丸一日手伝えば単位を保証する」という甘い言葉に乗せられて、教授と共にやってきたのはとある地方の博物館だった。土木工学の中でも治水とその歴史を専門としている教授は、眼鏡だけはいつも通りだったが今日は動きやすいカジュアルな服装をしていた。年は四十半ばで中肉中背。ぱっと見はごく普通のサラリーマンにしか見えないが、その年齢で教授になっている事実が示す通り、実はその道では名の知れた新進気鋭の実力派研究者である。授業を取っている生徒の数は多かったが、前期最後の授業中に齎された突然の提案に乗ったのは俺だけだったようだ。大学の隣の県にある博物館までは教授が運転する車に乗せてもらい、高速と一般道を走ること数時間、昼前にようやく到着した。
平日ということもあってか、駐車場はかなり空いている。その一角に車を止め降りた途端に夏の日差しに襲われた。冷房の効いた快適な車内との温度差が激しく、あっというまに腕がじりじりと焼けていく。
「いやあ、今日も暑い暑い」
教授が眩い光線に目を眇めながら、ばたんと音を立てて車の扉を閉める。
「駐車場から結構離れてるんですね」
池を挟んだ反対側に白っぽい建物が見える。あれが目的の博物館のようだ。
「そうだね。博物館に用事のない人の方が多いから、これでいいみたいだよ」
教授は苦笑する。確かに博物館なんてよほどの目玉になる展示物でもない限り、大勢の人で賑わう施設ではない。
「それにしてもでかいなあ。これが人口池だなんて…」
来る途中に車窓から見えた大きな大きな池。博物館はこの池のほとりにあった。俺の出身県ではため池をほとんど見なかったため、あまりの大きさに湖かと思ったと伝えると、教授はそうか、そうだろうと嬉しそうに笑った。地元出身の彼にとってこの池は自慢らしい。幼い頃からこの池を見て育ち、土木に興味を持ってこの道に進んだのだと道中で聞かされていた。もっと大きなため池は他に幾つも存在するが、ここは風土記やらなんやらの古い文献にもその名前の記述があり、一説によると日本最古だと言われているということも。
周辺ぐるりは公園として整備されている。駐車場に車を停めるメイン層は公園目的なのだろう。春には桜目当ての花見客で満員になるそうだが、この時期のしかもこの時間帯である。ほとんど人影を見かけなかった。それでも朝はジョギングやウォーキング、夕方になると犬の散歩をする人がたくさん来るんだよとの説明を聞きながら整備された土手の遊歩道を進み、広く刻まれた階段を降りると博物館の正面に出た。入り口に向かう石畳の両側には刈り込まれた生垣が涼しげな葉を茂らせていて、真四角にくり抜かれたエントランスをくぐると水庭が視界にとびこんできた。
有名な建築家の手による設計のこの建物は、見渡す限り打ちっ放しのコンクリートで作られている。ややもすると単調になりがちな素材をベースにしていながら、なだらかな曲線やクロスする階段、壁面を流れ落ちる水などが見事に調和して全体に動きと彩りを与え、無骨さを感じさせない洗練された空間を生み出していた。
開館しているはずなのに入り口はしんと静かだった。自動ドアを抜けると受付があり、揃いの制服を着た女性が二人座っている。一人は年配でもう一人は若く、俺と同じくらいに見えた。教授に気づいた年配の女性がカウンターの向こう側から会釈してくれる。
教授が愛想よく頭を下げたので、俺もやっておく。
「こんにちは。今日はお連れさんお一人なんですね」
「ゼミの子たちが全然都合つかなくて」
「先生の展示、結構評判いいみたいですよ。冊子もけっこう売れてます」
「それは嬉しいなあ」
顔なじみらしい受付さんと話していると、こちらもまた年配の男性が通りがかった。
「おや、先生」
やはり教授の知り合いらしく、声をかけてくれる。
「ああこんにちは。ご無沙汰してます」
「今日は様子見ですか?」
「いえ、会期が今日までなんで、早めに撤去の準備をしておこうかと」
「そうでしたか。なら裏開けときますんで、必要なら車回してくださいよ」
「ありがとうございます」
にこにこと優しそうな男性は、ここで長く学芸員だと教授が教えてくれた。定年退職したあと、警備や細々とした雑務、手伝いをするのに再雇用してもらい、週に何度か勤務しているらしい。
「ここができた時からずっと勤務されてる、貴重な学芸員さんだよ」
博物館だけでなく美術館、図書館でもそうであるように、なんであれ公立施設の館長という職は他所からやってくる人がなることが多く、数年で入れ替わってしまうことも多々ある。一箇所でずっと勤務を続けていて、昔からのことを一番よく知っているのは現場の人間、なんてことは珍しくない。
学芸員さんと教授が会話に花を咲かせている間、俺の興味は一つの展示物に向けられていた。外観と同じく内部まで総コンクリート造りで、高い吹き抜けの構造になっている館内。その壁の一面を大きな土壁のようなものが占めている。目の前に聳える重厚な構造物は、圧巻の迫力で俺に迫っている。大きな金属板に書かれた解説文によると、この巨大な土の塊は実際に長年この池を守ってきた堤防をそのまま切り取って持ってきたのだという。十メートルを超える高さの、しかもほとんどが木と土でできているものを、こんな建物の中に丸々運んできたというスケールの大きさに、思わずあんぐりと口を開けてしまう。
「びっくりしたかい」
話し終えた教授が俺の様子に気づいて笑っている。
「すごいっすね。これ、実物なんですよね」
「うん。改修の際に取り壊されることになった堤をわざわざここに移築したんだ。すごいよね」
この博物館は昔から地域に残る池の歴史を伝え、改修に伴って発掘された貴重な遺構を保存、展示することを目的として建てられたのだという。
「せっかく来たんだし、作業の前に一周してみようか」
教授の顔パスで入館料を免除してもらった上に専門的な解説付きという贅沢コースである。優等生とは言い難い俺でもさすがにその有り難さはわかるので、ふむふむと耳を傾けながらついて回る。さまざまな資料が見やすく展示されていて、なかなかの見応えだ。旧家に伝わる古文書。池の歴史を伝える資料。工事に携わった人足を管理する為の書付。昔の道具も並んでいる。樋に使われていたという大きな石は、なんと古墳から出てきたものをくり抜いて使ったらしい。その近くには実物大であろうお坊さんの像が周囲を見渡すように台座の上に座っていた。近隣の小学生がよく社会見学に来るらしく、直接触ることのできる展示も幾つか置いてある。それに、建物の二階くらいの高さのコンクリート製の取水塔がこれもまた移設展示されている一角もあった。建物の外からは全く予想もつかない巨大な展示物に、池の大きさを改めて思い知る。
「さて、今日の目的地はここだよ」
それらに比べるとあまりにあっけなくさりげない片隅に、教授が協力した企画展のコーナーはあった。
「なんか…あっさりとしてるというか、こじんまりとしてるというか…」
「ははは、他の展示が迫力満点だからね。それに比べたらちっぽけかな。それでも展示物の数は結構多いんだ。早速始めていこう」
今日一日拘束の理由、それは会期が終わった展示物の撤収作業である。期間限定の企画展示は、全国あちこちの研究者の協力の元教授が中心となって発表されたもので、期間内には講演会も催されていたらしい。本来ならば休館日を利用して展示の入れ替えをするものなのだが、借りている資料の返却の都合や教授の日程の都合などで、今日の閉館後に作業することになった。展示物そのものを片付ける前にやることもたくさんあるということで、早めに乗り込んで来たというわけだ。
教授は俺の失礼な物言いにも怒ることなく、てきぱきと作業を開始する。コーナー入り口に置かれているフライヤーが目に止まったので手に取ってみた。日本中にある歴史的な土木遺構を時代を追って比較するというのがメインテーマの展示らしかった。
「今回の展示のためにあちこちから資料を借りてるから、これをまた送り返すのが大変でねえ」
資料のほとんどはここの収蔵物と同じように、全国各地の土木遺産で改修や発掘の際に発見された本物の構造物の一部だ。俺からみればただの石や大きな木の破片にしか見えないようなものでも、それ自身が歴史を刻む貴重な一次資料。貼られたラベルや手元のリストと照らしあわせ、これとこれはここ、あっちは別のところと教授の指示のもとチェックしていく。箱や緩衝材などの梱包用品をバックヤードで準備したり展示室で展示品の大きさを確認したり、俺たちはしばし作業に没頭した。いつのまにか時間が経っていたようで、閉館の自動アナウンスが流れる。
「ああ、もうこんな時間か」
ほとんど入館者がいなかったので、作業はわりと捗った。とはいえ展示室から運び出すのはこれからだ。
「少し休憩しようか。あっちにスペースがあるから、そこでお茶でも飲もう」
教授について休憩スペースに向かっていると、無人の館内をふらりと歩いている女性を見かけた。さきほど受付にいた若い方の職員さんだ。閉館後の館内に、誰も残っていないか確認に回っているのだろう。結構美人だななどと思っていると、こちらに気づいた彼女と目が合ったので、ぺこりと会釈をするとにこりと笑って返してくれた。そんなことをしているうちに教授の姿を見失いそうになって、慌てて追いかけた。
休憩所に置いてある自販機にお札を入れた教授は缶コーヒーのボタンを押し、俺の方を見た。遠慮して首と手を振ると手伝ってくれたから遠慮しないでと言ってくれる。早く飲みたいこともあり、お言葉に甘えて炭酸飲料のボタンを押す。重たい音を立てて落ちてきた冷たいペットボトルを手に、並んでベンチに座る。
「若い職員さんもいるんですね」
「え? ここにいるのはベテランの人ばかりだよ」
「でも俺、さっきあっちで会いましたよ。ほら、さっき受付に座ってた女の人。ここの制服を着てて、髪の長い」
コーヒーの缶を口にしながら教授は首を傾げる。
「そんな人いたかな…。ああでも、もしかしたら実習生かもしれない。夏休みだし」
学芸員の資格をとるには、大学で講義を受けることに加えて博物館での実習が必須になっている。二週間ほどかかるそれを受ける時期を、長期休暇に設定する学生は多い。
飲み物を飲みながら二人でしばらく雑談をした。思っていたよりも教授は話しやすく会話も面白かった。授業を受けているだけではわからなかった人となりに、少し触れることができた気がする。
空になった教授のコーヒー缶を俺が受け取って、それを合図に教授が立ち上がる。
「ちょっとお手洗いに行ってから戻るよ。君はもう少し休憩してから戻ってきてくれたらいいから」
「ありがとうございます」
教授が去ってからおもむろにスマホを取り出し、SNSと連絡アプリをチェックする。さすがに目上の人と一対一で対話している時にスマホを触る度胸はない。
いくつかのメッセージに返事を書き込んで、俺も立ち上がった。空になったペットボトルとスチール缶をゴミ箱に放り込むと、がらんがらんと結構大きな音がした。
展示室に戻ってみると教授がいなかった。まだなのかとしばらく待ってみるが、一向に戻ってこない。指示をもらえないと作業ができないので、様子を見に部屋を出る。奥に取水塔が鎮座する一番広い展示室を通りかかった時、靴裏が滑りかけた。床の一部が濡れている。
「水?」
図書館でも博物館でも美術館でも、資料を扱う建物で水や湿気は厳禁のはずだ。疑問に思って上げた視線、その先に教授はいた。こちらに背を向けているが、どこか違和感がある。
教授の足元に大きな水たまりができていた。その上に、教授が「浮いていた」。床からつま先が二十センチほど空いている。目の前にあるありえない光景を否定したくて、冷静なつもりで背中に声をかけた。
「先生ー、なにやっ…」
その瞬間、俺の口から出たのは悲鳴だった。
教授の首に黒い縄のようなものが何重にも巻きついている。黒いものは長い髪の毛であり、持ち主はさっき見かけた若い女の職員だった。教授の背側にいる俺から彼女の顔は見えないが、その足はしっかりと地面について両腕はだらんとぶら下がっていることから、教授を髪の毛だけで持ち上げていることがわかる。教授は頭から水をかぶったように全身がずぶ濡れになっていて、そこから垂れる雫が作る水たまりを作っていた。
「う、ぐっ…」
両手で黒髪を掴み、引き剥がそうと踠く教授。努力は無駄だとでもいうように、黒い髪がさらに伸びて、大の男の体を軽々と高く吊るし上げていく。
「う、あ、あ」
あまりの恐怖に後ずさった俺に女が気付いた。
やばい!本能が反応し走り出そうとした瞬間、俺の右足首に髪が巻きついた。ぐんと引っ張られて肩から勢い良く床に叩きつけられる。
女が俺を見た。目が合った。彼女がニヤリと笑うと、轟音と共に大量の水が取水塔の上部の窓から溢れ出し、あっという間に部屋を水で満たしていく。
教授が濡れているのはこれか、と思った時には俺も水中に沈んでいた。ゲームや漫画だとこういう展開の場合は大概が敵による幻覚によるものだが、これがもし幻覚だとしても実際問題として俺は水に沈んでいるし、息はできないし、しかも水はどんどん増えている。懸命に腕を動かし水面に上がろうと試みるが、足首を引っ張られたままなので浮かび上がることができない。口を手で塞いで、せめてもの抵抗をしてみる。ゆらゆらと動く水中に教授の体も沈んでいるのが見えるが、全く動いている様子がない。最悪の可能性を打ち消したくて、泳いで確認しようとしたが無理だった。そうこうしているうちに息を止めるのも限界が近づいてきた。頭がきんと痛くなり、視界が狭まってくる。ああもう駄目かもしれない、と思った時、低い音が聞こえてきた。
水中を伝わって一定のリズムで刻まれる音は、子どもの頃寺で聞いた年配の住職の読経を連想させた。
(あー俺、こんなとこで死ぬ…のか…)
ぼんやりとそんな事を考えたが、覚悟とは反対にその時はやってこなかった。
突然水が消え、俺と教授は床の上にどさりと落ちた。巻きついていた髪もいつの間にか解けている。いきなり戻った空気を求めて喉と肺が急激に動き出す。
「げほっ、が、はっ、ぐえ」
鼻から口から水を吐き出して、なんとか呼吸を確保する。大量にあった水は跡形もなく、ただ俺の体と足元だけがずぶ濡れになっていた。
(一体何が)
周囲を見回すと、さっきはいなかった一人の男が女と対峙しているのが見えた。格好からして坊さんぽいが、こんなところにお坊さんがいるとも思えない。しかし実際に彼の手から黒い珠を繋げた数珠が伸びて、女の体に巻きついている。長い髪を振り乱して女は抵抗するが、戒めはびくともせず、あれで動きを封じてくれたから俺たちは助かったらしいと気づく。
「先生、大丈夫ですか! 先生!」
今のうちだと慌てて教授に駆け寄り、俺と同じくずぶ濡れになっている体を起こして声をかける。意識を失ったのが先だったのか、幸い水はほとんど飲んでいなかったようで、ううんと声をあげて目を開けてくれた。
「助かった、のかな…」
「はい。あのお坊さんが助けてくれたみたいで」
俺の背中ごしに対峙する二人を見た教授が、信じられないという顔で目を開く。
「行基上人!? まさかそんな、いや、でも、あの姿は…」
そういえば館内を回った時に見かけた僧侶の像、その台座にそんな銘板がついていた気がする。行基上人とは確か昔のお坊さんで、仏教を広めるだけでなく日本全国で寺を作ったり温泉を見つけたり灌漑や治水工事にも関わったスーパー偉い人のはずだ。ここの池も元は彼が開いたのだとさっき教授から聞いたばかりだ。
上人は何か呪文のようなものを唱え続けている。水中で聞こえてきたのはこの声だったのか。驚く俺たちを認めた上人が、数珠を持つ手を緩めずこちらへ近づいてきた。
「大事ないか」
「は、はい」
俺たちの、いや、教授の顔を覗き込んだ上人の顔色が変わった。
「おぬし…」
「私、ですか?」
「よう似ておる。これは無理もなかろうて」
上人が頭を振った。俺たちは意味がわからず顔を見合わせるしかない。上人は女に向かって声をあげる。
「この男は違う、似てはおるが別人ぞ!」
女は一瞬鼻白んだように見えたが、すぐに呻くような返事が返ってきた。
「わかってる…わかっている、そんなこと」
「あいつはもう死んだ。私とかかさまを苦しめておいて、のうのうと長生きして死んだ!」
「それでいい、それでいいと思っていたのに」
「そいつの顔を見た途端思い出した。私はまだあいつを許してなんていない」
「この男はあいつに似ている。だから、だから」
「殺してやらねば気がすまない、今度こそこの手で」
「私の受けた痛みと苦しみをお前にも味わわせてやる」
教授を睨みつけ何度も呪詛の言葉を呟き続ける女。
「行基上人…でいらっしゃいますよね?」
教授はまず確認してから、上人に質問した。
「私は彼女を知りません。でも、目があった途端にものすごい形相になり、いきなり襲われました。誰かに似ているということですが、私と関係があるのですか」
上人は頷き、過去の出来事を語り出した。
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