第5章 君の願いと紡いだ魔法

 ホリデー初日、僕は朝一番の船に乗り、島を出た。港から列車を乗り継いで、ロンドン・ヒースロー空港へ。飛行機に乗り込む前に、予定通りだと家族にメッセージを送った。羽田空港まで、車で迎えに来てくれるという。久しぶりの帰郷に、胸が弾んだ。

 機内食を食べてやることがなくなると、僕はぼんやり窓の外を眺めた。白い雲の上に、飛行機の影が映っている。ひと眠りしても良いけれど、それほどの眠気はなく、なんとなくスマートフォンを取り出した。

 画面に並ぶメッセージアプリが目に入り、マーリンに挨拶のメッセージを送っていなかったことに気づいた。結局今年も会えなかったなと思いながら、文章を打つ。

「今年も色々とアドバイスありがとう。来年こそマーリンに直接会いたいな」

 すぐに既読になり、メッセージが返ってきた。

「僕の方こそありがとう。来年もよろしく。僕の正体については、まあ君次第かな」

 いつも通りの、のらりくらりとした彼の言葉に、今はなんだかほっとした。

「今年は年末にいろいろあったから、来年は平和だと良いね」

「おや、それで最近あまりメッセージをくれなかったのかな。何があったんだい?」

 僕はグレアム先生の一件を指したつもりだったが、わかりにくかっただろうか。微かな違和感を覚え、返事を打った。

「グレアム先生が亡くなったことだよ。僕もノアも、偶然火事に居合わせたんだ。マーリンはノアから聞かなかった?」

「いや、聞いていないよ。そうか、それは大変だったね」

 そこで、指が止まってしまった。何かがおかしい。でも、その何かの正体を知りたくなかった。

「実は今、東京に向かってフライト中なんだ。眠くなってきたから、ひと眠りするよ。またね」

 送信すると、おやすみと返ってきた。

「君は、本当は――」

 僕はずっと、思い違いをしていたのかもしれない。借りたブランケットを被って眠ろうとしてみたが、結局一睡もできなかった。


 到着ロビーに出ると、母が手を振っていた。隣に父の姿もある。

「セイちゃん、こっちこっち!」

 普段から声の大きい母が声を張ると、恥ずかしいくらいに良く通る。僕は俯いて、ぼそぼそと言った。

「そんなに大声出さなくても見えてるから大丈夫だよ」

「だってあんた、全然目が合わないんだもの」

 母親からちゃん付けで大声で呼ばれたら、十六歳男子は目を逸らしたくもなる。繊細な息子の心を、少しは理解してほしいものだ。

「疲れただろう、飛行機で寝れたか?」

「あんまり」

 父が何も言わず、僕のスーツケースを駐車場まで引いてくれた。母は紙袋を二つほど提げていて、中は空港限定のお菓子のようだった。いつも通りの二人に、ひどく安心した。思えば、セイちゃんと呼ばれるのも半年ぶりだ。

 車に乗り込んだ途端に瞼が重くなり、飛行機の中が嘘のようにあっさりと眠りに落ちた。緊張が解けたからかもしれない。次に目を開いた時には、高速を下りて自宅近くを走っていた。

 時差ボケもあって、その日はふわふわしていた。夕飯は食べきれないほど出たし、日本式のお風呂はやっぱり最高だ。大学が冬休みになったら、姉も帰ってくるという。そして布団乾燥機で温められた布団に包まり、ぬくぬくと眠りに就いた。

 それから数日、僕はのんびりとテレビを見たりお菓子を食べたりして過ごした。普段家にいないからか、ちょっとくらい寝坊しても母は大目に見てくれる。とても居心地が良くて、ずっとこのままでいたいと思った。

 そう、このまま、あの学園で起きたことなんて忘れてしまったらいい。きっと僕はノアたちの足手まといになるし、首を突っ込まない方が僕も彼らも幸せだ。

 そんなことはわかっている。何度考えても、結論は変わらない。それでも、ずっと心に引っかかっているのはなぜだろう。

 次第に、考え込むことが増えた。発端は、アーサーの亡くなった日が書かれたあの魔法陣だったのではないか。誰の仕業だったのかは、まだわかっていない。そして僕らは倉庫に閉じ込められ、足止めされているうちにグレアム先生が殺された。グレアム先生はネクタイピンを握り、僕らに何かを伝えようとしていた。

 一方で、アーサーの父親でグレアム先生とも親しかったフィッツバード氏は、捜査が充分にされていないと学園を批判した。アーサーのために、教師たちに報復することを明言していた。

 それで思い出したのは、偶然聞いてしまった教師たちの会話だ。学園の卒業生たちが、三人も自殺を遂げていた。水場に飛び込むという、同じ方法で。

「そうだ、日本からなら……!」

 島で制限されていた内容も、ネット検索ができる。自分のパソコンを立ち上げ、卒業生たちの死について調べてみることにした。

 最初は学園の名前を入れて自殺のニュースを検索してみたが、学園と関連付けている記事がなく、引っかからなかった。まずはここ一年で、海や湖で亡くなった男性を探してみる。さらに自殺というワードと年齢で絞っていく。正確な年齢はわからないが、若いことは間違いないだろう。

 一時間ほどパソコンに向き合って、気になるニュースが四件見つかった。水場での自殺というだけでなく、奇妙な共通点があった。

 自殺した者たちは、まるで引き寄せられるように水に飛び込んでいたという。大学生だったり社会人だったり、学生ながら起業していたりと状況は違ったが、特に悩んでいる様子はなかった。周囲からの評価は判断が早い、冷静など、優秀さが伺える。賢いゆえに人に相談できない悩みがあったのではとコメントしている知人もいたけれど、トラブルが確認されている例は一つもなかった。

 四件のうち最後に起きた自殺は、今年の十二月初め。つい最近だ。先生たちの話を盗み聞きしたのはまだ十一月だったから、そこから新たにもう一件起きたのかもしれない。しかし、自殺した人物が卒業生かどうか調べる手段は僕にはない。今わかるのはここまでだ。

「青明、何か悩みでもあるのか?」

 テレビを眺めながらも心ここにあらずだった僕に、ソファに座っていた父が言った。ここ数日、自分の部屋にこもることが増えた僕を心配してくれているのだろう。たぶん先に母が気づいて、父に探りを入れるよう指令を出したのだろう。

「大丈夫だよ。友達もいるし、試験はこの前ちょっと失敗したけど、またがんばる。学校で少し気になっていることがあって、僕にできることがないか考えていたんだ」

「……そうか。何か困ったことがあれば父さんや母さんに相談しなさい。人に話すだけでも、見えてくることがあるかもしれない」

「うん、そうする。ありがとう」

 照れくさくてそれだけ言うのが精一杯だったけれど、嬉しかった。すべてを話すのは、心配させてしまうだろうからやっぱり難しい。でも、ただ寄り添ってくれるだけでも充分だ。

 その日の夕食後、自室のベッドでゴロゴロしているとメッセージが入った。学園専用の方ではなく、日本の知り合いを中心に登録しているメッセージアプリだ。

 送り主は、近くに住む香住かすみ咲彩さあやだった。幼稚園からの幼馴染である。

「今日の夜、ヒマ?」

 挨拶も前置きもない。どうしたのかと尋ねると、待ち構えていたように返事が来た。

「星、見に行かない?」

 さては、彼女も母から遠回しに何か言われたのだろう。元気がないから活を入れてほしい、とか。時計はまだ八時を過ぎたばかりだ。

「いいよ。行こう」

「じゃあ自転車で、いつもの交差点ね」

 少し考えて、部屋着のジャージから着替えることにした。上にコートを羽織ればごまかせるが、仮にも女の子と並ぶのだから、ちゃんとしておくことにする。仮にも、と聞けば彼女はわあわあと文句を言うだろうけれど。

一階のリビングにいた両親には、少し出かけてくると声をかけた。何も追及がなかったのは、やっぱり母と咲彩がグルだからだろう。車の脇に止めてある自転車を引っ張り出し、“いつもの交差点”に向けて出発した。

待ち合わせ場所の交差点は、咲彩の家があるマンションからすぐのところにある。角にコンビニがあるが、駐車場が狭く静かな住宅街にあるためか、煌々としているけれど不良が集まるような場所ではなかった。

到着すると、咲彩は閉店した商店のシャッターの脇で自転車にまたがっていた。ネイビーのダッフルコートに黄色いマフラーを巻いている。

「お、来た来た」

「おう、久しぶり」

 最初はお互い少しぎこちなかったが、自転車を漕いで話しているうちに調子が出てきた。

「なんでいきなり星なんだよ」

「なんとなく。曲の歌詞みたいじゃない?」

「午前二時じゃないけどな」

「それは無理! 夜はちゃんと寝ないとお肌に悪いもん」

 咲彩は神社の駐輪場に自転車を止め、身軽に階段を上っていく。確かにこの神社の境内は高台になっていて遮るものがないので、良い感じに星が見えるだろう。

「セイちゃん、また背が伸びた?」

「どうかな、周りに背が高い人が多いから、あんまりわからないけど」

 話しながらのんびりと階段を上り終え、鳥居をくぐる。年が明けたらまた来るかもしれないと言いながら、揃ってお参りをした。

「こっちは松の木がないからよく見えるよ!」

 こちらを振り返った咲彩の口から、白い息が漂っている。砂利道の歩きにくさも、日本に帰ってきた実感があって悪くなかった。

 何気なく見上げた夜空は、東京にしてはなかなかの星の数だ。星座に疎い僕でもわかる、オリオン座。ひときわ輝くシリウス。それから名前も知らない星たち。

「学校で天文部に入ったんだけどさ、全然活動しないんだ。それで休み前に星を見ようって外に出たんだけど、曇って何も見えなくって」

 咲彩がマフラーの下でクスクスと笑った。

「いいなあ、そういうの。みんなで集まるだけでも楽しいんだよね」

「うん、楽しかった。結局写真撮っただけだけど」

 写真を見たいとせがまれたので、スマートフォンに表示させて咲彩に渡した。

「わっ、超カッコいい人たちとお人形みたいにカワイイ子がいる! セイちゃんだけ普通!」

「悪かったな普通で!」

 そんなことは僕が一番わかっている。そんな環境でグレずにいる僕を褒めてほしいくらいだ。

「まあその写真は後で送ってもらうとして、ほら、星見よ!」

 咲彩は笑って上空を指さした。

「あれがオリオン座でしょ、あの明るいのがシリウスだから、たぶんおおいぬ座があって……」

 彼女も特別星に詳しいわけではなく、僕よりややマシくらいのようだ。

「そういえば星座って、動物が多いよな。犬とか熊とか牛とか」

「星占いの星座もそうだよね。おとめ座とかふたご座もあるけど」

 咲彩はスマートフォンのアプリを使って、星座を探し始めた。後ろから見せてもらったが、これならすぐに見つけられそうだ。

「あれがベテルギウスであっちがシリウス、こいぬ座のプロキオンを入れて冬の大三角!」

 星に向かって指をさす仕草を見ていて、僕の中で何かが引っかかった。少し考えて、グレアム先生が空を指さした時と似ているのだと気づいた。クジラのネクタイピンを握ってから、人差し指を空に向けて――。

「なあ咲彩、ひょっとしてクジラ座っていうのもある?」

「クジラ座? ちょっと待って、探してみるから。……あっ、あった!」

 咲彩はスマートフォンをかざす方角を変えながらしばらく頑張っていたが、やがて諦めたように言った。

「うーん、ここだと見られないのかな。ミラっていう星が、一番明るいみたいなんだけど」

「ミラ……?」

まさか、そんなことがあるだろうか。でも、偶然の一致にしてはできすぎている。それに、刻まれていた文字はM to Aだった。M――ミラだ。

「セイちゃん、どうかした?」

「ごめん、ちょっと……」

 誘ってくれた咲彩には申し訳ないが、天体観測どころではなくなってしまった。早く、ノアに伝えなければ。あのネクタイピンをアーサーに送ったのは、ミラ先生だと。

「セイちゃんは、大丈夫だよね」

 はっとして咲彩を見ると、彼女は心配そうに僕を見上げていた。心なしか、目が潤んでいるように見える。

「セイちゃんがイギリスの学校に行ってから、遠い存在になっちゃった気がして……。でも、突然いなくなったりしないよね」

ここで不安にさせるようなことを言ってはいけないと、僕は気を引き締めた。

「大丈夫だよ。大学も就職も、海外を目指すかもしれないけど、それでも帰ってくるのはここだから」

 口に出して、自分でもそうだったのかと気づいた。僕にはちゃんと居場所がある。だからこそ、安心して飛び出すこともできるのだと知った。

「わかった。応援してるから、頑張って。私も高校卒業したらこの町を出るかもしれないけど、休みの時は絶対戻って来る。また待ち合わせしよ」

「“いつもの交差点”で?」

 思わず吹き出すと、背中を強い力で叩かれてしまった。真面目な話をしていたのに、照れくさくてふざけてしまったのは良くなかったかもしれない。でも咲彩は大らかに笑っていて、僕はほっとすると同時に、彼女にはずっと笑っていてほしいと思った。


 咲彩を家に送り届けて帰ってくると、早速ノアに連絡しようとスマートフォンを手に取った。メッセージアプリを立ち上げ、クジラのネクタイピンのことをそのまま入力しようとして、指を止める。このアプリは学園から配布されたものだ。先生たちにやりとりを読まれる可能性もある。相談したいことがあるとだけ、メッセージを送った。

 ノアがロンドンにいるとしたら、今は昼間だ。出かけていたら、しばらく返信がないだろう。焦らず待つつもりだったが、数分で返信が来た。

「何かあった? 電話の方が良いかな」

 ノアも察してくれたのか、電話を提案してくれた。お願いしますと送れば、すぐに電話がかかってきた。

「すみません、お休み中に。気づいたことがあって、どうしても聞いてほしかったんです」

「今は立て込んでないから大丈夫だよ。それで、気づいたことっていうのは?」

 僕はネクタイピンの贈り主がミラ先生ではないかという推測を話した。一通り聞いた後、

「すごいね、アオ。お手柄だよ」

 ノアは僕を褒めてくれたが、明るいトーンではなかった。それは僕も同じだ。グレアム先生が最期にミラ先生を表すメッセージを残したということは、彼女が犯人だということ。喜べるわけがない。

「そうか、やっぱりミラ先生が……」

「彼女が怪しいと思っていたんですか?」

 ネクタイピン以外に、彼女を疑う理由があっただろうか。少なくとも僕は気づかなかった。

「彼女は魔法陣の落書きを、カイと一緒に見に行ったのが最初だと言ったよね。その時、アーサーの死んだ日ともう一つ、四桁の数字が書かれていたとも話していた。でも君からカイが撮った写真を見せてもらったら、掠れていて四桁の数字全部は見えなかった」

「じゃあ、文字が掠れる前に見ていた――あるいは、自分が描いたから知っていたということでしょうか」

「そうだと思う。その数字を知っていたからこそ、実際に読める状態かは気にしていなかったとも考えられる。ちなみに書かれていた四桁の数字1,8,2,0を、ゲマトリアだと彼女は言っていた。調べてみたら、『殺人者』という意味だった」

「殺人者……。自分がということですか?」

 その時点で、彼女はグレアム先生を殺すことを決意していたのだろうか。

「あるいは、アーサーを殺した者がいると信じていて、糾弾したかったのか」

 ノアが独り言のように呟いた。答えはミラ先生にしかわからない。でも、自分から口にしたのだから、知ってほしかったはずだ。

「ネクタイピンがミラ先生からアーサーに送られたものだとしたら、アーサーと付き合っていた教師は彼女で間違いないだろうね」

「そうか、ニーナが言っていましたね!」

 僕はすっかり頭から抜けていたが、さすがにノアはきちんと覚えていたようだ。

「でも二人が恋人同士だったら、どうしてミラ先生はグレアム先生を殺す必要があったんでしょう。彼女だって、アーサーの死の真相を暴きたいと思っているのでは?」

「教師としての立場を優先するなら、暴かれない方が良いに決まってる。一時恋人同士だったからといって、今もアーサーのために行動するとは思えないよ。仲がこじれて、彼女がアーサーを殺した可能性も十分にある」

「そんな……勝手すぎます」

 担任教師としてのミラ先生は好きだったが、ふつふつと怒りが湧いてきた。アーサーはプレゼントを大事にしまい込んでいたし、親しかったノアたちにすら秘密にして彼女と付き合っていた。それをなかったことのように振る舞い、さらに人殺しまでするなんて。

「ミラ先生は今、どこにいるんですか?」

「彼女の自宅はロンドン市内だよ。彼女が怪しいと思い始めてから、少し調べてみたんだ」

 前のめりになっている僕の姿が見えているかのように、ノアは少し笑った。

「今日はもう遅いから、一度冷静になって計画を立てた方が良いよ。俺もそろそろ寝ようと思っていたところだし」

「そうですね。じゃあまた明日――あれ、まだそちらは日中では?」

「ああ、実は今横浜にいるんだ。アオと話していたら日本に行きたくなって、祖母のところに」

 それは驚いた。でも、相談するには都合が良い。

 電話を切った後、しばらくは頭が興奮状態になっているようで眠れなかった。もしかしたら、休みが明けるより前に、日本を発つことになるかもしれない。さすがに年が明けてからじゃないと家族に悪いだろうか。そういえば、マーリンの正体についてノアに聞きたかったのに忘れていた。浮かんでくることを脈絡なく考えていると、いつの間にか眠りに落ちていた。


 翌朝、すっきりと目覚めた僕は、両親がまだ朝食を食べている時間に起きて二人を驚かせた。ノアから電話がかかってきたのは午前九時で、いつもなら寝ていただろう。

「おはよう、アオ。よく眠れた?」

 ノアの第一声は日本語だった。そして同じ調子でもう一言付け加えた。

「ミラ先生を訪ねるとしたら、君も来る?」

 僕の答えはもう決まっていた。

「行きます。いつ出発の予定ですか?」

「エリアスとセディにも聞くから、年明けになると思う。チケットはこっちで手配するから、準備だけしておいて」

 ノアもお正月を日本で過ごし、ロンドンに飛ぶという。いよいよだと思うと、若干迷いが生じた。見知った人だけど、殺人を犯した人に会いに行くのだ。怖くないと言ったら噓になる。やっぱり僕がついて行っても、足手まといになるだけじゃないか。

でも、もう行くと言ってしまったのだ。葛藤は何度も湧きあがって来たが、僕は決めた。真相を、この目で見届ける。自室から出た僕は、階下のリビングにいた両親に声をかけた。

「年が明けてからのことなんだけど――」


 トランクに荷物を詰め終えた僕は、壁にかかった時計を見上げた。家を出る時間まで、まだ一時間ほどある。今日は一月三日。世の中はまだお正月モードだ。例年なら家族で初詣をしていたが、前倒しして昨日に変えてもらった。

「よし、もう一度確認しておこう」

 カイからは何回確認するのだとよく笑われるが、パスポートを忘れでもしたら大変だ。そわそわして落ち着かないので、何か手を動かしていたいという気持ちもある。

 出発までにしばらく時間があったおかげで、いろいろと考えをまとめることができた。能力も境遇も、特別なもののない僕が、彼らと一緒に行動する意味について。

 まず一つは、ミラ先生に警戒心を抱かせないこと。彼女と会うにしても、直接関わりのないノアたちより、僕が連絡をした方が不自然に思わないだろう。

 もう一つは、僕の自己満足かもしれない。

 ノアとエリアス、セドリック。そして会ったことのないアーサー。彼らのいる世界は、僕の想像できない底知れぬ闇と繋がっている。

 ミラ先生が犯人であると証明されたら、彼らは警察に通報するという手段を選ぶだろうか。彼らの世界では、勢力争いの中で暴力を振るうことが日常なのだ。もしかしたら、アーサーの仇を取るためにミラ先生を……ということも考えているかもしれない。

でもその場に僕がいれば、止めることができる。きっと彼らだって“そちら側”にいたいわけじゃないのだ。生まれた瞬間から、他の道が用意されていなかっただけだ。一緒に過ごしたのは数カ月という短い間だったけれど、彼らは僕と同じように痛みを感じる心を持っている。だから彼ら自身のために、残酷な方法を選ばないでいてほしい。僕が居合わせてしまったから、と言い訳にしてもいいから。


 いつも空港に行く時は電車を利用するのだが、今日は父が車で送ってくれるという。姉と母は空港内のショップに行きたいと言い出し、にぎやかに出発した。

そして今、見送られるはずの僕は出発ロビーで一人ポツンと座っている。母と姉は買い物、父は父で、乗り物好きだから飛行機でも眺めているのだろう。

ぼんやりカウンターや保安検査場の人の流れを眺めていると、不意に空気がざわついた気がした。

「アオ、待たせたかな」

 驚いて振り向くと、ノアが立っていた。周囲の人の視線を見るに、ざわめきは彼が原因だ。国際線ターミナルだから欧米人も行き来しているのだが、それでも何かオーラが出ているかのように目を引く。

「いえ、家族が買い物したいと言ったので、早めに来たんです」

 ちょうど母と姉が戻って来たところで、二人は僕の隣にいるノアを見て固まっていた。ノアがにこやかに言う。

「初めまして、青明くんの一年先輩のノア・フラメルと申します」

 呆然としていた母が、ハッとして口を開く。

「あら、私ったらいつの間にか英語がわかるように?」

「しっかりして。どう聞いても日本語だよ、母さん」

 その後は父も登場し、ノアは僕の家族全員をひと時魔法にかけられたような顔にして、僕と共に日本を発ったのだった。


 ノアが手配した席は当然のようにビジネスクラスだった。僕にとっては人生で初めてだ。落ち着かずにそわそわしていたが、ノアはさらりと、ファーストクラスは満席で取れなかったのだと言った。やっぱり住む世界が違い過ぎる。ついて行く決意はしたが、自信がなくなってきた。

「あの様子だと、家族には何も言わなかったんだね」

「言ったら心配されると思ったんです。考え込んでいただけで、悩みがあるんじゃないかと聞かれてしまったので」

「良い家族だね」

 一言だったけれど、その中に色々な思いが滲んでいるように聞こえた。切り替えるように息をつくと、ノアは口を開いた。

「エリアスとセディは、既にロンドンにいる。彼らの話では、ミラ先生は自宅にいるみたいだよ。君が提案してくれたように、ミラ先生に連絡を取ってほしい」

「わかりました。今から連絡してみます」

 僕らの密かな戦いが、いよいよ始まる。その一歩を踏み出すメッセージを、僕はミラ先生に送った。


 ロンドンに到着した僕らは、荷物を置くため一旦宿泊先に寄った。想像通り、高級ホテルだ。しかしこの先のことで頭がいっぱいで、飛行機の時ほどは気にならなかった。

 ホテルを出てすぐに、エリアスとセドリックと合流した。頼もしい半面、緊張が一段高まった。

ミラ先生からは、時間が合うならお茶でもしようとメッセージが来ていた。約束の時間は、今日の十五時だ。その間、ノアたちは近くで待機している。店を出たら僕はミラ先生を近くの公園に誘導し、そこでノアたちと共に事件のことを彼女に尋ねる。

「店はこの道をまっすぐ行けば着く。念のため調べたが、特におかしな噂はなかった」

 セドリックがスマートフォンの画面に地図を表示させ、場所を教えてくれた。

「まあ公園に誘導できなくてもいいさ。話を聞き出す場所も方法も、いくらでもある」

 エリアスが励ましてくれたが、表現が不穏に聞こえて引っかかる。

「さあ、そろそろ時間だ。いってらっしゃい」

 ノアに背中を押され、僕は待ち合わせ場所のカフェに向かった。

 ミラ先生が犯人で、すぐにすべてを話してくれればそれで終わりだ。大丈夫、彼女だって罪悪感があるはずで、案外向こうから告白してくれるかもしれない。希望的観測を目いっぱい思い浮かべながら、足を動かした。

 緊張で早足になっていたせいか、予定より十分早く店の前に着いた。たぶん今頃、ノアたちもゆっくり歩いているだろう。

 ミラ先生がどちらからやって来るのかわからず、僕は時折左右を見て彼女の姿を探した。十五時になったが、まだ現れない。スマートフォンにも、メッセージはなかった。十分が経過してさすがに心配になった。まさか、僕らの目的に気づいたのだろうか。ノアたちに相談を扇ごうとした時、ミラ先生からメッセージが送られてきた。

「え……?」

 メッセージの内容はどこかの住所だけだ。言葉は何もない。僕はその内容をコピーして、そのままノアに送った。すると、ノアから電話がかかってきた。

「その住所は、ミラ先生の自宅だ。その場所に来てほしいということだろうけど……」

 予想していなかった展開に、ノアも戸惑っている様子だった。とりあえず合流し、意見を出し合う。

「グレアム先生の一件を考えると、罠かもしれない。危険だよ」

 いつもは威勢のいいエリアスも、さすがに慎重だった。

「しかし、行かないことには状況が動かないぞ。彼女の行き先に関しては、まったく手がかりがない」

 セドリックの意見ももっともだ。そこで、二手に分かれることにした。僕とノアがミラ先生の家を訪ね、エリアスとセドリックはすぐ近くで監視する。電話を繋いだ状態にしておけば、僕らが不測の事態に陥ってもすぐに駆け付けられる。

 ミラ先生の家は、待ち合わせ場所のカフェからすぐだった。急げば二、三分で着くだろう。僕らはほとんど駆け足で、十五時半には彼女のアパートの前に到着した。

 アパートの前でエリアスたちと別れ、僕とノアはアパートに足を踏み入れた。階段で三階まで上り、廊下を進む。四つ目のドアが、ミラ先生の部屋だ。

「行きますよ」

 僕はノアに合図し、インターホンのボタンを押す。ドアの向こうで、チャイムが鳴っているのが聞こえた。

「……反応がないですね」

 一分ほど待ってみたが、ミラ先生は出てこない。ノアがドアに耳を当て、首を傾げた。何気ない様子でドアノブを握った彼が、低く呟いた。

「鍵がかかってない」

 ノアは僕に下がるよう言ってから、ドアを勢いよく開けた。廊下がまっすぐに伸び、左右にドアが見える。部屋の中は静まり返っていて、人の気配は感じられなかった。

「正面のドアに、何か貼ってある」

 ノアは躊躇なく部屋に入り、貼られている紙に近づいた。僕も続き、ノアの後ろから覗き込む。ロンドン市内の地図をプリントアウトしたもののようだ。そしてその下にもう一枚、メモ用紙が貼られている。落書きのようなそれには、見覚えがあった。

「魔法陣ですね」

 しかしかなり簡易的に描かれていて、学園内で見つかったものとは違った。丸い二重の円に、文字の代わりなのか波線のようなものが引かれている。その上に、三角形が描かれていた。線が全て赤いので、おどろおどろしい感じがする。

「これは、君に向けた暗号かもしれないね」

「それで僕に住所を?」

 つまりこれを解けばミラ先生の居場所がわかるのだろうか。僕はもう一度、地図をじっくり見た。全体に、赤い線で丸や三角、四角が描かれている。

「星座のように結ぶとか? いやでも、結んで星座になったところで、どこを示すのかわからないし」

 魔法陣が描かれた意味もなくなってしまう。魔法陣が手がかりのような気がするのだが、僕の知識では何も思いつかなかった。

「……三角の結界」

 僕の隣で魔法陣を眺めていたノアがぽつりと言った。

「ねえアオ、ミラ先生は、半年くらい休養していたんだよね」

「はい、最初の挨拶の時にそう言っていました」

 なぜ今、その情報が必要なのだろう。疑問符を浮かべていると、ノアが地図の一か所を指さした。

「ここに、三角形が描かれている。丸や四角はたくさんあるけど、三角は一つしかない。たぶん一か所だけ描くとバレるから、カモフラージュでいくつも描いたんだ。魔法陣の中で、三角形は結界を意味する。例えば悪魔を召喚しても、この中は結界だから安全なんだ。彼女の守りたいものは、ここにあるということじゃないかな」

「守りたいものって、まさか……」

 三角形が描かれた場所は、一つの建物だった。地図には、「託児所」とある。

「半年間の休養中、秘密裏に子供を産んでいたとしたら、ここに縁があってもおかしくない」

「ここにミラ先生もいるんでしょうか」

「それはわからないけど、今はこれしか手がかりがない。行ってみよう」

 アパートの外に出ると、エリアスたちがタクシーを止めて待っていてくれた。

「俺は引き続き、アパートを見張る。気をつけろよ」

 セドリックを残し、タクシーは出発した。運転手によれば、託児所までは五分もあれば着くという。学生がなぜ託児所にと不思議そうな顔をしていたが、説明するほどの余裕はなかった。

 タクシーを降りて、託児所の門から敷地内に入った。途中、ベビーカーを押している女性とすれ違う。前輪が窪みにはまっていたので手伝うと、早口でお礼を言われた。一人用のベビーカーだがサンシェードの下に可愛らしい足が四本見えていて、幼い双子かもしれないと微笑ましくなった。

 門のセキュリティは甘かったが、建物のドアは暗証番号がなければ開かない仕組みのようだ。話を聞いてもらえるかわからないが、案内に従って、ドアの脇のインターホンを押してみた。

「はい、どちらさまでしょう?」

 女性の柔らかい声が聞こえ、エリアスが答えようとしている時だった。インターホン越しに、女性の悲鳴が響いた。

「何があったんだ?」

 それきり、対応してくれた人の声も途切れてしまった。中に入れない僕らには、確かめようがない。

 少し経って、ドアの前に人影が見えた。体をぶつけるような勢いで、外に出てくる。

「ミラ先生?」

 普段は綺麗に整えられていた髪を振り乱し、表情はどこか虚だったが、ミラ先生だった。彼女は僕と目が合うと、唇を振るわせ何かを呟いた。

「ルイ、私のルイが……」

 今にも倒れ込みそうなミラ先生を、咄嗟に支えた。彼女の目だけが、何かを探すように懸命に動いている。

「まさか、子供が誘拐されたんですか?」

 エリアスに聞かれて、ミラ先生は力なく頷いた。

「普段は世話ができないから、母の家に預けていたの。でもそこに泥棒が入って、私の家も知られているから危ないと思って、ここに預けたのに……」

「じゃあ、犯人に心当たりがあるんですね?」

 今度はしっかり頷いて、ミラ先生が言った。

「学園の理事長よ。たぶん自分は動かず、誰かを雇ったんだわ」

「でもどうして理事長が、ミラ先生の子を攫うんですか?」

 僕の疑問に、ミラ先生は目を伏せて言い淀んだ。そこで今まで口を開かなかったノアが、僕の前に進み出た。

「その子供の父親が、アーサーだからですね。理事長はその事実を隠蔽しようとして、子供を攫った」

「なんだって!」

 エリアスが口を開けたまま固まっている。二人が付き合っていたらしいことは予想していたが、まさか子供がいたとは。僕も驚きで言葉を失ったまま、ミラ先生を見た。

彼女もまた沈黙していた。しかしその沈黙は雄弁で、ノアの言葉を肯定したも同じだった。

「僕らはあなたに聞きたいことがあって来ました。でも、今は誘拐された子を捜すことを優先します。何か、手がかりはありますか?」

 ノアの言葉に、ミラ先生は泣きそうに顔を歪め、首を振った。

「わからないわ。だって、建物に入れるのは職員と子供を預けている親だけなのよ。たとえ忍び込んでも、赤ん坊を抱えていたら気づかれるに決まってる」

 様子を窺っていた保育士らしき年配の女性が、おずおずと口を挟んだ。

「今日出勤している者は、二人だけです。不審者も、特に見かけていません」

 もう一人現れたエプロン姿の女性も、困惑した顔で付け加える。

「今確認してきましたが、入口のセキュリティも、おかしなところはありませんでした。今日は元々、預かっている子が少ないんです。一歳未満の子はいなくなったルイだけで」

「あれ、そうなんですか? さっき門の近くですれ違った人は、ベビーカーに二人乗せていましたけど」

「さっきって、バーバラのことかしら。彼女には一歳半の女の子しかいないわよ。それに、一人用のベビーカーに二人乗せるなんてあり得ないわ。危ないもの」

 しかし覆いの下には、確かに違う色の靴下を履いた足がもう二本見えた。たった今の記憶なのだから、間違いない。

「アオ、その子は何色の服を着ていたかしら。ブルー?」

「足元しか見えませんでしたけれど、水色でした。靴下は白で――」

 ミラ先生は痛いくらいの力で僕の両肩を掴み、叫んだ。

「ルイだわ! その女に連れて行かれたのよ!」

 子供を預けている利用者だから、セキュリティ上は怪しまれなかったのだ。保育士の目が離れた隙にルイをベビーカーに押し込み、サンシェードで隠したのだろう。

「ベビーカーで移動しているなら、まだそんなに遠くには行っていないはずだ。追いかけよう!」

 エリアスが言い、門の方に駆け出す。スマートフォンを手にしているのは、セドリックに連絡しているからだろう。ノアも電話で誰かと話していて、状況を説明していた。電話を終えた彼に、ミラ先生は弱々しく声をかけた。

「ノア、ごめんなさい。私はアーサーを――」

「アーサーが死んだのは、あなたのせいではありません」

 ノアは彼女の言葉を遮り、きっぱりと言い切った。

「あなたが後悔すべきことは、他にあるんじゃないですか?」

 突き放すような冷たい言い方だった。少し怒っているようにも聞こえた。

「ルイの親は、もうあなたしかいないのに」

 ミラ先生はびくりと肩を揺らし、項垂れた。すすり泣きが聞こえたが、ノアはミラ先生を振り返ることなく、僕と共に外に出た。

 託児所前の道路に出ると、既にエリアスの背中は遠くなっていた。ベビーカーを押す女性は、ここからは見えない。

「どこか、細い裏道に入ってしまったんでしょうか」

 僕の懸念を、ノアはすぐに否定した。

「少なくとも、車が入れないような狭い道は使わないと思う。理事長がバーバラを雇ったのだとしたら、彼女はどこかで理事長と接触し、ルイを渡すはず」

「そうか、赤ちゃんを車に乗せてしまえば、逃げるのも楽だし、泣き出しても周りから注目されないですね」

 つまり、車に乗せられてしまったらそれまでということだ。僕らもエリアスを追って走り出そうとしたが、その前に本人から連絡があった。

「セドリックがそれらしい人を見つけた! 場所を言うから、君たちも向かってくれ」

 エリアスが告げた場所は、ここから二ブロック先で交差する大通りに面していた。ノアの言ったように、車を待っているのかもしれない。急がなければ。

「バーバラを見つけたら、どうしますか。逆上して、ルイを人質にしなければいいんですけど」

 走りながらノアに聞くと、彼はまったく別のことを考えていた。

「とりあえず理事長が現れるまで待って、証拠の写真を撮る。写真を見せて突撃すれば、彼も観念すると思うよ。もし逃げるようなら、車の方を動けなくする」

 さらりと言ってのけたが、車に関しては何をするつもりなのか、怖くてちょっと尋ねづらい。

 そうこうしているうちに、エリアスが教えてくれた場所が見えてきた。書店の前で、昔ながらの電話ボックスが立っている。その陰に、見覚えのあるベビーカーが確認できた。

「……あの車、怪しいな」

 ノアが道路わきに停車している黒のSUV車に目を止めて言った。店の前でもないのに、ウインカーを点滅させたまま停車している。

「回り込んで、運転手の顔を見てみましょうか」

「待って、降りてくる」

 ドアが開き、革靴を履いた足が見えた。スーツ姿の男性が、車から降り立つ。そこで僕は、はたと気づいた。

「あの人、理事長だったんですね。僕らが先生たちの話を盗み聞きした時にいた……」

 ノアは吹き出して、そうだと頷いた。

「まあ式典くらいにしか現れないし、壇上だと遠いから、わからなくても無理はないけど」

 僕らが話している間に、理事長はバーバラに近づいていった。ノアがスマートフォンを出し、決定的な瞬間を撮ろうと構える。

 理事長はバーバラに、封筒を渡した。たぶん中身はお金だろう。そこでまず一枚。頷いたバーバラが、ベビーカーを指さす。理事長が屈んで手を伸ばし、ルイを持ち上げた。パシャリ、とシャッター音が鳴った次の瞬間、轟音が響いた。

なんと、理事長がついさっきまで乗っていたSUVが炎を上げていた。悲鳴を上げる人、車の様子を見ようと近づく人、遠巻きに眺める人……。瞬く間に、人の視線が集中する。

「ずいぶん手が早いな、ノア」

「さすがにあれは違うよ。でも、“同じ匂い”がするね」

 どこかから現れたセドリックが軽口を叩き、ノアが応じた。

「さて、理事長殿はどうするかな……」

 ノアの言葉を耳にして理事長に視線を移せば、彼はルイを抱いたままぽかんと口を開けていた。それからはっとした顔で周囲を見回す。ルイを諦めてくれれば良かったが、そのまま走り出した。

「どこかでタクシーにでも乗られたら面倒だ。捕まえよう」

 セドリックの一言を合図に、僕らは集まり始めた野次馬の間を縫って理事長を追いかけた。

 彼が逃げ込んだのは、ビルの間の狭い隙間だった。人ひとり通るのがやっとだ。抜けた先は古びた建物がひしめき合う路地裏で、人影はなくしんとしている。左右に分かれるべきだろうか。焦りながら考えを巡らせていると、微かに人の声が聞こえた気がした。

「こっちだ」

 ノアが言い、ある建物に視線を向けた。そこは店仕舞いした元雑貨屋だった。入り口の上に掲げられた看板の文字は掠れて、錆が浮いている。ドアは元からなかったのか、壊れて取り外したのか、ぽっかりと暗闇が口を開けていた。

 近づいて中を覗くと、革靴の底が見えた。人が倒れている。そして奥にもう一人、男性が立っていた。右手から延びる長いシルエットには見覚えがある。フィッツバード氏だった。

「やあ、顔を合わせるのは息子の葬儀以来だね」

 場違いに陽気な声で、ノアとセドリックに笑みを見せる。彼の視線は僕に向かい、意外そうに軽く目を開いた。

「君とはつい最近会ったね。普通の子だと思っていたが」

「普通ですよ。でも、ついてきました」

 普通で結構。堂々と宣言すると、ノアたちが笑った。一時だけ空気が緩んだが、聞こえた呻き声が現実に引き戻した。フィッツバード氏の足元に倒れているのは、理事長だった。命に別状はなさそうだが、立ち上がることはできないようだった。

 そしてフィッツバード氏の腕の中に、ルイがいた。これだけ大変なことになっていても、スヤスヤと眠っている。

「君のおかげでこの子の存在を知ることができたよ。あのネクタイピンのことを教えてくれなければ、辿りつけなかった」

 フィッツバード氏はネクタイピンだけを手がかりに、クジラ座のミラに気づいたのだ。不用意なことを言ってしまったと後悔した。

「その子をどうするつもりですか?」

 ノアが堅い声で尋ねた。対するフィッツバード氏は、余裕の笑みを浮かべて答える。

「決まっているさ。この子を私の後継者にする。成長するまでにまだ時間はかかるが、そのぶん色々なことを教えてやれるだろう」

 アーサーの子供は、確かにその権利を持っている。でも、それは違うと直感した。アーサーは、きっとそんなことを望まない。

「その子は母親の元に返します。こちらに渡してください」

 隣を見て、ハッと息を呑んだ。ノアの手に握られているのは、拳銃だ。

「はは、物騒だな」

 ルイを抱えているから撃てないと思っているのか、銃口を向けられてもフィッツバード氏は平然としている。膠着状態に、なんでもいいから打開できる方法がないか必死で頭を働かせた。棚にはいくつも商品が残っているが、投げればルイに当たってしまう。こうなるとわかっていたら、手分けして店の裏側に回り込んでおくべきだった。

 悔しさに歯噛みしながら店の奥の窓に目をやる。すると、ひらひらと何かが動くのが見えた。女の子のように白くほっそりした指が、人差し指を立てて合図する。エリアスの手だ。

 どうやら、彼は突入の機会を窺っているようだ。ノアは銃を構えているし、セドリックは警戒するように少し下がって店の入り口近くにいる。すぐに動けるのは僕だけだ。

 しかし僕の視線で、フィッツバード氏が背後の窓の存在に気づいてしまった。ルイを抱えて、窓からも入り口からも距離のある場所にすり足で移動する。ノアは彼を追い詰めるように一歩近づき、彼は一歩離れた。

「エリアス、今だ!」

 ノアが叫んだ瞬間、天井板の一部がフィッツバード氏の顔を直撃した。ちょうど彼の真上に、屋根裏の入り口のハッチがあったらしい。フィッツバード氏は痛い上に視界を塞がれてふらついており、僕はとっさに駆け出した。夢中だったので細かな記憶はないが、気づけばルイは僕の腕の中にいて、バランスを崩したフィッツバード氏は尻もちをついていた。

「よくやった、アオ」

 セドリックが僕の背中をポンと叩く。エリアスは身軽に、屋根裏から飛び降りた。

 ほっと息をついた時を見計らったように、ルイがぐずり始める。閉じられていた目が開き、左右に瞳を動かすと、本格的に泣き出してしまった。

「あたしの出番みたいね」

 聞こえた声に振り向くと、ニーナが立っていた。彼女はおろおろする僕からルイを抱き上げ、慣れた様子であやしている。

「ベビーシッターの仕事もしていたから、任せてちょうだい」

「ちょっと待って、じゃあさっき窓の外で見えた手はニーナ?」

 それ以外何があるのかというように、彼女はにっこりと頷いた。

「ノアに頼まれて、あたしも捜索に加わったの。ちゃんと合図したでしょ、上に行ったわよって」

「そういうことか……!」

 ノアやセドリックは平然としているから、気づいていなかったのは僕だけのようだ。

「可愛いわね。目の形が、アーサーによく似てる」

 懐かしむように、ニーナはルイの顔を見て呟いた。自分ではない女性と好きな人の子供。僕には想像しきれないけれど、きっと胸中は複雑なはずで、それでも愛おしそうにルイを見つめていた。

 エリアスがミラ先生に連絡すると、電話の向こうで数人の歓声が上がった。ミラ先生はすぐにこちらに来るという。

「じゃあ、お母さんの到着までこの子は私が見ているわ」

 ルイをあやしながら、ニーナが店の外に出て行く。フィッツバード氏はその様子を見送り、テーブルを支えに立ち上がって息をついた。

「やれやれ、足の不自由な老人にこんな仕打ちをするなんてね」

「まだ老人ではないでしょう。まあ、本気でルイを連れ去ろうとしたらこんなものではすみませんけどね」

「私も、本気だったら一人でなんて来ないさ。ただ――」

 フィッツバード氏は気絶している理事長を一瞥し、言った。

「この男はアーサーの子を殺そうと企んでいた。それだけは許せなかったんだよ。今さら後継者を育てるような気力は、残念ながらもうない」

 つまり彼も、ルイを守ろうとしただけだったのだ。もし本気でルイを奪う気なら、ミラ先生の家に押し入ることだってできただろうし、チャンスはいくらでもあった。それをしなかったということは、本音なのだろう。

「さて、私はもう行くよ。これ以上ここにいる意味もないし、私には他にやることがある」

 ルイの母親であるミラ先生に会うつもりはないのだ。しかしフィッツバード氏を阻むように、ノアは彼の前に立った。

「つまらない論文でも書くつもりですか? 人を自殺させる方法について」

 フィッツバード氏は口を開けて笑ったが、目は冴え冴えとしていた。報復を語った時と同じ目だった。

「そうか、君は気づいたか。しかしたとえ公表しても、君たちが通う学校を貶めることになるぞ」

「それも一つの報復になる、とあなたは考えているんですね」

「その通りだよ。間違った教育が優秀だった生徒を潰した。私はただそれを証明しようとしているだけだ」

 二人の間に、静かな火花が散っていた。ノアが言ったのは、学園の卒業生数人が自殺したことだろう。フィッツバード氏の今の口ぶりだと、それを仕組んだのは彼のようだ。しかしそれがどうして学園への報復に繋がるのか、僕にはちんぷんかんぷんだった。フィッツバード氏はそんな僕を見てか、大学で講義をする時のような口調で言った。

「私は長年、生物を操る微生物を研究している。例えば、トキソプラズマという原虫は、ネズミに感染することで猫への恐怖を薄れさせ、猫に捕食されやすくする。それによって、トキソプラズマが猫に移動できるわけだ。トキソプラズマはさらに猫から人間に感染し、人格に影響を及ぼすという報告もある。聞いたことがあるかね?」

 僕は困惑しながらいいえと答えた。一体、なんの話が始まるのだろう。

「ある時、私の研究室に学園の卒業生が見学に来た。彼には菌の培養を体験してもらったが、その翌日、何の前触れもなく彼は自殺した。近くの湖に飛び込んだんだ」

「なるほど、それが一件目ですね」

「そうだ。おそらく彼は無菌操作を誤り、感染したのだろうと考えた。その後少人数の教室で菌をばら撒いたが、同じことは起こらなかった。私は自分の仮説が間違っていたのだろうと結論づけようとしたが、学会会場で検証した時、再び自殺した者がいた。彼も、卒業生だった。そして私は、アーサーの通う学園を訪れた」

 フィッツバード氏は、今度はそちらの番だと言うように、ノアに視線を向けた。ノアが口を開く。

「時系列としてはその少し前、学園ではホームシックや人間関係の問題が浮上していました。相談窓口を設けても改善されず、考え出されたのが、エルダー制度という先輩がサポートする仕組みです。最上級生には、卒業生がつきました。ただしやりとりは、メッセージアプリのみで、実際に会うことはできなかった。なぜなら、その先輩はAIだったからです」

「……なるほど、そういうことか」

 フィッツバード氏は納得している様子だが、僕はなるほどなんて穏やかに呟いていられなかった。マーリンは、実在していなかった。そしてみんなにも、僕にとってのマーリンがいたのだ。絶句する僕を、ノアが気遣うように見ていた。

「先輩が相手だと思えば、生徒たちも気軽に本音を明かします。運用を始めて、すぐに効果が現れました。精神状態が安定したことで成績も伸び、有名大学への入学者数も増えた。メッセージアプリでのやりとりを教員が見られるようにして、早く問題を把握することもできるようになりました」

 その部分だけを聞けば、悪いことはないように思えた。もちろん、やりとりを覗き見することには問題があると思うけれど。

「アーサーは早いうちから、AIが使われていることに気づいていました。そして興味本位で、そのシステムに侵入したんです。美しいプログラムだったと、珍しく興奮していました。そのプログラムを書いたのが、ミラ先生でした」

 それでアーサーはミラ先生にも興味を持ったのだろうか。二人がなぜ接近したのかと疑問だったが、そんな繋がりがあったとは。

「でも、しばらくしてアーサーが言ったんです。この方法には重大な欠陥がある、やめさせなければと」

「さすが私の息子だ。そんなに早く見抜いていたとは」

 フィッツバード氏は誇らしげに自分の息子を褒めた。

「あの学園の生徒たちは、優等生ばかりだ。常に“間違いたくない”と思っていて、AIはその期待に完璧に答える。彼らは徐々にAIに依存していき、最終的には全ての判断を委ねてしまう。進学先もファッションも人間関係も、どんなことだって最適解を教えてくれる。そして、迷い、選択するというプロセスが消え、脳の一部の機能が衰えていく」

「衰えると、どうなるんですか?」

 フィッツバード氏はにやりとして答えた。

「“選ぶ”という行為は、過去の記憶を掘り起こし、計算して予測し、考え得る最良の判断を下すということだ。しかし最初から答えが決まっているのなら、全てが不要になる。状況を認識し、最適解を返す。AIに操られた、ただの人形の出来上がりだ。面白いことに、彼らは主がAIでなくても操られる。私が研究する菌も、その一つということだね」

「自分の意識が、乗っ取られるということ?」

 エリアスの質問に、フィッツバード氏が頷く。

「本人は気づかないうちにね。こうしろと囁く声があれば、それに従う。隷属することに慣れた脳は、抵抗できない。そして宿主は寄生したエイリアンが望むように、水の中に飛び込む。そこで菌は繁殖し、新たな宿主を探す」

 突拍子もない話で、にわかには信じがたかった。しかし現に、もう四人も自殺している。検証と、証明。フィッツバード氏が言っていたのは、このことだったのだ。AIが普及したそう遠くない未来、同じことが起こるかもしれない。もしこの件が公表されたら、大騒ぎになるだろう。

「君たちには悪いが、あの学園の教員たちを懲らしめるために、私はこの事実をまとめることにする。私も批判され、罪を問われるだろうが、そんなのはどうでも良いことだ」

「その行為がアーサーの遺した功績を台無しにするとしても、ですか?」

 薄笑いを浮かべ淡々と話していたフィッツバード氏が、初めて言葉に詰まった。

「どういう意味だ?」

「そのままの意味ですよ。先ほどの話の続きです。今学園に通っている生徒は、あなたが殺した卒業生たちのように操られることはない。実際にこの前ご覧になったのなら、変化に気づいたはずです」

「ああ、私も同じ見解だよ。欠陥に気づき、AIの利用をやめたということだろう?」

 ノアは首を振り、フィッツバード氏の言葉を否定した。

「違いますよ。学園側は欠陥があったことに気づいていません。今も同じシステムが稼働し、生徒たちの役に立っていると思い込んでいるんです」

 予想外の答えに戸惑っていたフィッツバード氏は、ハッと息を呑んだ。

「まさか、アーサーが?」

「その通り。彼は学園側に無断で、AIのプログラムを書き換えたんです。ただ答えを教えるのではなく、友人のように会話し、思考を促すようなプログラムに。その時、彼は自分の周りにいた友人たちを元にAIの性格を設定し、名前をつけました」

 ノアはそこで、エリアスとセドリックに目を移した。

「陽気で、リーダーシップのある『キング』、冷静沈着で揺るがない『ルーク』、それからつかみどころのない『ビショップ』。それぞれ、自分の理想が詰まっているのだと、アーサーは言っていました」

 僕らはずっと、アーサーに守られていたのだ。最初のAIのままだったら、操られ、意思を失っていたかもしれない。争わず、相手を利用して鮮やかに状況をひっくり返す。まるで魔法使いだ。そしてその魔法は、まだ解けていない。

「……降参だ。あの子は私なんかよりずっと上を行っていた。私がしようとしていることなんて、あまりにちっぽけだ」

 フィッツバード氏は力の抜けた顔で笑った。降参だと言いつつ、清々しい顔をしている。

「来たかな」

 ノアが店の外に目をやって言う。駆け足の靴音が、段々近づいてきた。

「ルイ!」

 ミラ先生は息を荒げながらも、しっかりとルイを抱きしめた。その光景を見ながら、フィッツバード氏が呟く。

「これが、あの子が望んだ未来ということか」

 そして、彼は杖を手にゆっくりと立ち上がった。

「さあ、帰るとするか。君たちも、この辺りで幕を下ろすといい。一年間、ご苦労だったね」

 謎の言葉を残して、フィッツバード氏はどこかに去っていった。しかしその目にはもう、以前のような狂気は宿っていなかった。

「幕を下ろす、というのは?」

 振り返ると、エリアスが言った。

「僕らが作り上げた、アーサーはノアに殺されたかもしれない、という空想の物語さ。本当は、みんな知っていた。アーサーは僕らを置いて行ってしまった。僕らはアーサーの支えになれなかった。でも、その事実をすぐには受け入れられなかった。だから、物語の中に逃げ込んだんだ」

「じゃあ、アーサーは――」

「自殺したんだ」

 口に出すことができなかった僕の代わりに、ノアが言った。

「アーサーは死の直前、俺たちにメッセージを送っていた。エリアス、セディ、それにたくさんの友人が、彼を探し回った。でも見つけた時には、彼はもう冷たくなっていた。間に合わなかったんだ」

「僕らはたぶん、ちょっとおかしくなっていたんだ。喪失感と、後悔で。だから、勝手に真実を書き換えようとした。アーサーは何者かに殺されてしまった。何者とは誰か。ノアなら、事故に見せかけて殺すことができる……。そんな風にシナリオを作って、噂にして流した」

 セドリックが少し笑って、付け加えた。

「アーサーをよく知らない者や下級生たちの中には、その噂を信じてしまう者もいたな。理事長もその一人で、慌てて事故死として処理した。自殺者が出たとするより、聞こえが良かったからだ」

「ずっと、考えていた。アーサーは何に絶望して、死を選んだのか。でも、今日ようやくわかったよ。彼は死の瞬間、絶望ではなく希望を抱えていたんだ」

 ルイとミラ先生の、笑い声が聞こえた。ニーナもルイをあやしながら、楽しそうに笑っている。

「アーサーはルイに、争いとは無縁の、日の当たる場所で生きてほしかったんだ。自分との関りを断つことで」

「それが、希望だったなんて……」

 アーサーがその後どんな人生を歩むはずだったのか、僕にはわからない。でも、本当にそこまでしなければならないほど、救いのない場所だったのだろうか。

「馬鹿だよ、アーサーは……!」

 エリアスは声を震わせ、絞り出すように言った。

「僕らなら、世界を変えられる。変えるんだって、約束したのに。死んだら終わりじゃないか!」

 薄暗く埃っぽい店の中に、エリアスの悲痛な声が響いた。

 みんな、アーサーが大好きで、だから生きていてほしかったのだ。境遇もしがらみもなく、ただの友人として。でも、その想いは届かなかった。

「アオ、これがアーサーの最後のメッセージだよ」

 ノアがスマートフォンの画面を僕に見せてくれた。そこにはこう書かれていた。

「今までありがとう。僕はいつまでも、君の幸せを祈っているよ」

 もしかしたらアーサーが死を選んだもう一つの理由は、ノアと争わずに済むからだったのかもしれない。でもノアは、そんな言葉を聞いても喜びはしないだろう。

 僕は何も言わず、ノアの背に手を置いた。彼はきっと、泣かない。でも、心は涙で滲んでいるかもしれない。だから、伝えたかったのだ。アーサーの代わりにはなれないけれど、僕はここにいる。簡単に、いなくなったりしないと。

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