第3章 魔女の涙と花の水盆

 恋煩いというものを、僕は今までおとぎ話や都市伝説と同列に考えていた。初恋の子のことを考えてふわふわした気分になったことはあるけれど、何も手につかないなんてことはなかった。僕の姉も、彼氏と付き合い始めてから喧嘩して別れるまで、常にパワフルで食欲はむしろいつも以上だった。

 だからカイが熱っぽい目で食欲がないとこぼすのを見た時は、これが恋煩いかとこっそり感動していた。

 カイの恋の相手は、この島にある女子校、ニーグベルン校の生徒だった。カフェで見かけて、一目惚れしたらしい。

「隣のテーブルでさ、三人でおしゃべりしていたんだ。綺麗なブロンドだなと思って見ていたら、オレを見てニコッて笑ってくれたんだよ。まったく望みがないわけじゃないと思うんだよなあ」

「そうだねえ」

 うっとりと話すカイにつられて、僕も間延びした答えになる。

「じゃあ、今度会った時は声をかけてみるの?」

「いや、さすがにそれは……。今の関係を壊すのが怖いし」

 今の関係も何も、まだ知り合いにすらなっていないじゃないか。出かけた言葉を慌てて飲み込む。

「得意の情報収集をしてみたら? その子が好きなものとか、せめて名前くらいは」

「オレの手に入る情報は、この学園限定なんだよ。……そうだ、君が様子を見に行ってくれよ。会話から好みのタイプとか聞けるかも」

「僕が? でも、その子の顔もわからないし」

 その言葉を聞いて、カイがにやりとした。もしかすると、策略にはまってしまったかもしれない。彼はスマートフォンを出し、僕に画面を向けた。一枚の写真が表示されており、ブロンドを三つ編みにした女の子が隣の席の女の子に無邪気な笑みを浮かべて話しかけているところだった。

「隠し撮りじゃないか」

「違うよ。友達を撮ったら偶然後ろに彼女が写っていたんだ」

「ピントまで彼女に合うなんて、奇跡的な偶然だ」

「意地悪言うなって。今度『カフェ・ヘーゼル』のケーキセットおごるからさ」

 まあそれなら、と渋々頷いてしまった。カフェ・ヘーゼルは島の中ではちょっとお高い小洒落た店だ。そのぶん値段は高いが、ケーキもコーヒーも美味しい。僕はカフェオレしか飲んだことがないけれど。

 カイの意中の相手がいたのは、ヘーゼルより庶民的な「キッチンウィッチ」という店だ。とはいえ、一人でカフェに行くのは僕にとってハードルが高い。誰を誘おうかと考えて、思い浮かんだのは一人だった。


 天文部にはノアとエリアス、そしてセドリックの姿があった。たぶん僕が加わるまでは、この三人で過ごしていたのだろう。……いや、もしかするとアーサーもいたのだろうか。ノアは一人の時でもソファの真ん中には座らない。エリアスもセドリックも、定位置があるようだ。僕が勘繰りすぎているだけかもしれないが、彼らが時折何もない場所を眺めてぼんやりしているのは、きっと理由があるはずだ。

「どうしたんだい、アオ。いつにも増してぼんやりしているよ」

 考え込んでいたはずが、端から見るとぼんやりしていたらしい。それにしても、いつにも増しては余計だ。

「そうだ、皆さんこの子のこと知りませんか? キッチンウィッチにいた子なんですけど」

 本来の用事を思い出して、カイが撮った写真を見せる。カイにも言ったが、まずは情報収集だ。

「お、一目惚れでもしたのかい?」

「いえ、僕じゃなくてカイが」

 エリアスが嬉々として画面を覗き込む。しかし次の瞬間、眉を上げてなんとも微妙な顔になった。

「ううん、彼女はその、どうかなあ……」

 ズバズバ言う彼にしては珍しく、言葉を濁す。

「何か悪い噂でもあるんですか?」

「いや、いい子だと思うよ。ただ、ちょっと変わっているというか……」

「えっ、エリアスより?」

 ポロっとこぼれ出た本音に、セドリックとノアが弾けるような笑い声を上げた。エリアスはムッと口を尖らせ、僕を睨む。

「僕のどこが変わっているんだい?」

 ずいと顔を近づけられてたじろぐ僕の横で、ノアは笑い過ぎて滲んだらしい涙を拭った。

「それで、エリアスよりも変わっている子というのは?」

ノアは僕の手からスマートフォンを奪い、写真を見た。

「ああ、この間セディに告白してきた子だ」

「ええっ?」

 僕が驚いただけでノアがまた笑い出す。スマートフォンを返してもらいセドリックに見せると、彼は肯定するように頷いた。

「結局なんて答えたんだっけ?」

「俺は何も。直後に彼女が友人数人に引きずられていって、そのままだ」

 あまり関心がないのか、セドリックは淡々と答えた。

「引きずられていったというのは、どういう……?」

「セディのファンクラブというか親衛隊みたいなのがあるらしくて、彼女を連れて行ったのはそのメンバーだと思うよ」

「だ、大丈夫だったんですか?」

 僕の脳裏に、暴力的な言葉が浮かんだ。ファンクラブが結成されるセドリックの人気ぶりも大いに気になるが、穏やかじゃない。

「気にすることないよ。だってその子、最近もカフェに来ていたんだろう?」

 言われてみればそうだ。知り合いでもないカイに微笑みかけるくらいだから、別に落ち込んだりはしていないのだろう。

「彼女はファンクラブの暗黙の協定を破り、思いを直接伝えてしまった。それなのにケロリとしている。とても図太い性格に違いないよ」

 エリアスが毒舌で締めくくった。ようやく調子が出てきたようだ。彼は一つ手を叩き、ソファから立ち上がった。

「話してたらあそこのロイヤルミルクティーが飲みたくなってきたな。今から『キッチンウィッチ』に行かないか?」

「そうだね、久しぶりだし」

 ノアが応じて、セドリックを見る。

「俺はいいよ。少し気になるエラーがある」

「おや、手伝った方が良いかい?」

「いや、大丈夫だ。何かあれば連絡する」

 会話の内容は理解できなかったが、ノアが気にする素振りを見せなかったので、僕も何も言わなかった。二人で進めている研究でもあるのだろうか。天文部にいない日は、その作業をしているのかもしれない。

 ともかく、カイからの宿題はクリアできそうで安堵した。ただ、カイの一目惚れの相手はクセが強そうだ。彼の望む結果になるかは、怪しくなってきた気がする。


 僕らはクラブハウスを出て、正門の方に向かった。いつもは舗装した道に沿って寮と校舎の前を通るが、先頭を歩くエリアスは校舎の手前で右手に折れた。こちらは講堂やスポーツ用具の倉庫などがあるエリアだ。用がない限りは、あまり近づくことがない。

「倉庫の裏に細い道があってさ、そこを抜けていくと早いんだよ」

 エリアスは得意げだったが、そこは道というより木々と倉庫の壁に挟まれた隙間だった。これならいつもの道で良いな、とエリアスが聞けば怒り出しそうなことを考えていると、突然腕を後ろに引っ張られた。狭いゆえ僕らは一列で歩いていて、後ろにはノアがいた。

どうしたのだろうと背後を振り返れば、ノアが警戒するように前方を見ていた。目が合うと、人差し指を唇の前に立て、静かにするよう促される。

立ち止まって耳を澄ますと、葉の擦れる音に混じって人の声が聞こえてきた。複数人、少なくとも三人はいるようだ。

「ゆっくり、なるべく音を立てないように進んで」

 ノアに囁かれ、言われた通りに歩を進める。前を行くエリアスは、すでに少し先にいた。音としか認識できなかった声が、徐々に言葉として聞こえてくる。

「どうなっているんだ。もう三件目だぞ」

 取り乱している男性の声。この声は、数学を教えているジョーンズ先生だ。

「確かに多いですね。でも、事件性はないのでしょう? あの学年に偶然そういった傾向があったとしか――」

「それが事実だとしても、勘繰る者は出てくる。生徒数にも影響が……」

 女性が一人と、男性が二人。ジョーンズ先生ではない方の男性は、年配のようだが聞き覚えなかった。女性の声は、毎日聞いているのでよく知っている。担任のミラ先生だ。

 意外にも、一番年下と思われるミラ先生が最も落ち着いていた。

「ひとまず詳細を調べましょう。もし偶然でないのなら、我々が最初に事実を突き止めなければ」

「その件も気がかりですが、昨年くらいから生徒の様子も変わったような……。以前は素直で穏やかな子が多かったのに、ルールを破ったり騒ぎを起こしたりする生徒が増えた気がします」

 ジョーンズ先生がヒステリックな声で訴えたが、年配の男性は切り捨てるように言った。

「それこそ気のせいだ。一つ懸案があると、全部が繋がって怪しく見えてくる。生徒の指導は君の仕事なのだから、君がどうにかしなさい」

 落胆したように、ジョーンズ先生が返事をする。切迫している空気だが、一体何があったのだろう。エリアスが僕とノアを振り返り小声で言った。

「僕はもう少し様子を見ていくよ。君たちは予定通りカフェに行くといい」

 カフェに行きたいと言い出したのは彼だが、それより先生たちの話が気になるようだ。寮長の責任感だろうか。僕はといえば、生徒たちに見せない顔をしている先生たちが怖くて早くこの場を離れたかった。

「アオ、行こうか」

 ノアに頷き返し、来た道を戻る。広い場所に出ると、ようやく一息つくことができた。

「今日は校舎を回っていくしかなさそうだね」

 僕はまだ動揺して心臓がバクバクしていたが、ノアは何もなかったかのように平然としていた。

「事件性がどうとか、三件目とか、何の話をしていたんでしょう」

 エリアスやノアは生徒たちをまとめる立場上、既に知っているのかもしれない。期待したが、ノアも首を捻っていた。

「学園内で三件もトラブルが起きていたら、さすがに俺たちにもわかる。ミラ先生が『あの学年』と言っていたから、卒業生のことじゃないかな。そうなると島の外でのことだから、情報を得るのは難しいよ」

「でも、大抵のことはネットで検索すれば……」

「さあ、どうかな。この島からアクセスできる情報は、学園によって制限されているから」

「えっ、そうなんですか?」

 初耳だった。調べものをして日本にいた頃と違いを感じたことはなかったし、不便なこともなかった。でも考えてみれば、偶然NGワードを検索でもしない限り、制限されているなんてわからない。新しい情報は知らされない限り検索もされないから、存在しないのと同じだ。普通に過ごしているぶんには疑問に思わないだろう。

「この島のネット環境は、学園が整備してるんだ。その気になれば都合の悪い情報はシャットアウトできる。極端な話、イギリス本島で戦争が起きても情報が制限されたら気づかないだろうね」

 ノアはポケットからスマートフォンを出し、操作をした後に薄く笑った。

「学園の名前と『卒業生』という言葉で検索しても、学校の紹介記事しか出てこない。ここからじゃ調べようがなさそうだ」

「どうしてそんなことを……」

「元々は、不健全なものを子供の目に触れさせないためだったんじゃないかな。残虐だったり性的だったり、映画の年齢制限みたいな理由で。でもいつからか、生徒や島民に知られると都合の悪い情報を伏せるために利用するようになったのかもしれない」

 小さな島にいても、僕らは常に世界と繋がっていると思っていた。それは、インターネットがあるからだ。情報が手に入れば取り残されることもない。しかし本当は、見えない壁に遮られた場所で過ごしていたのだ。友達のように親しげだった担任のミラ先生にも裏切られたようで、余計にショックだった。

「カフェに行く気分じゃなくなった?」

「……いえ、大丈夫です。行きましょう」

 気遣うように問われてそう答えたけれど、正直のんきにお茶をするような気分ではなかった。ただ今は、とにかく学園の敷地内から出たいという気持ちの方が強かった。

「親が子供の動画視聴やアプリのダウンロードを管理するのと一緒だよ。学園を卒業するまでのことだから、深刻に考えることはない」

 ノアが慰めるように言うが、僕には空虚な言葉に聞こえた。

「今何かが起こっているとしても、僕らはそれを知る手段がなく、止めることもできないんですよね。大人があんなに焦っているようなことなのに」

 ノアはピタリと足を止め、僕を見た。不意に冷たい視線に射抜かれて、心臓が跳ねる。

「知らないということは、安全だということだよ。素直な生徒は教師に守られる。軽々しく首を突っ込めば、危険な目に遭った時に必ず後悔する」

「ノア……?」

 数秒前まで会話していた相手が、突然別人になってしまったようだった。呆けていると、ノアはいつもの顔に戻ってにこりとした。

「本当に気になるなら、日本にいる君の両親に聞いてみたらいい。メールの内容までは検閲していないから、あっさり知ることができるよ」

「……そう、ですよね。ちょっと大げさだったかも」

 僕も笑って返したが、ざわざわした気持ちはなかなか収まらなかった。なぜ、ノアは情報が制限されていることを当然のように知っているのだろう。他にも、例えばエリアスやセドリック、カイは知っているのだろうか。それに、先ほどのノアの言葉。素直な生徒は守られる。では、もし従順でなくなったら――?

 見知ったはずの世界が、足場から崩れていくような感覚。無性に、日本に帰りたくなった。家族が待つ、世界で一番安心できる場所へ。


 カフェのオープンテラスには、今日もたくさんの学生がいた。メインストリートから脇道に入り、雑貨店や靴店を通り過ぎた先に、「キッチンウィッチ」がある。ログハウスのような木造の店舗で、高い天井が開放的だ。入り口には赤いスカーフをかぶりローブを羽織った人形がいつも置かれている。僕がなんとなく目をやると、ノアが教えてくれた。

「その人形が店名と同じキッチンウィッチだよ。ヨーロッパでは、お守りとして置いている家もある」

 魔女っぽい人形だとは思っていたが、そんな風習があることは知らなかった。お守りと聞くと、少し気味が悪いと感じていた人形が頼もしく見えてくる。

 メインストリートからやや離れているためか、席は三割ほどしか埋まっていなかった。窓際の四人席に座ると、周囲からちらちらと視線を感じた。残念ながら、今日はカイの想い人は来ていないようだ。

「久しぶりね。どうぞ、ごゆっくり」

 メニューを手に声をかけてきた店員は、僕らとそう変わらない年齢の女の子だった。丸いフレームの黒縁メガネがよく似合っている。

「あなたは少し前にも別の人と来ていたかな?」

大きな瞳と目が合って、思わずドキリとした。特別顔が整っているわけではないが、紅い頬に散ったそばかすが素朴で可愛らしい。

「アオだよ。彼も天文部に……あれ、そういえば入部したんだっけ?」

「いえ、入部届は出してないですね」

 今のところ、僕は部室に入り浸っているだけだ。そもそも、ノアたちが天文部らしい活動をしているのは見たことがない。

 僕たちのやりとりを聞いて、店員の女の子はおかしそうに笑った。

「相変わらず楽しそうね。私はニーナ。よろしくねアオ」

 僕はぎこちなく頷く。彼女は陽気にウインクすると、仕事に戻っていった。

「常連なんですか?」

 ノアたちなら、メインストリートの高級感のある店にいるようなイメージだった。ノアは視線を遠くにやり答える。

「去年まではよく来ていたかな。……アーサーが、気に入っていたから」

「もしかして、コレですか」

 メニューを開いた時目に止まった箇所を指差すと、彼は懐かしむように目元を緩めた。ホットチョコレート、日本でいうココアだ。

「島で唯一、ホットチョコレートを出しているのがこのカフェなんだ。アーサーはコーヒーも紅茶も苦手で、甘いホットチョコレートばかり飲んでいた。外に出るのを面倒くさがる彼にしては珍しく、一人でも来ていたみたいだよ」

 僕は初めて天文部を訪ねた日、ココアをノアに押し付けられたことを思い出した。亡くなった人に線香をあげるような気持ちで、時々淹れていたのだろうか。

 僕はメニューを端から端まで見て、ダージリンティーと苺のタルトのセットを選んだ。ノアはクリーム・ティーだ。イギリスでは定番の紅茶とスコーンのセットのことで、スコーンにはクロテッドクリームとジャムが添えられる。オーダーして待っていると、奥のテーブルに座る女の子の二人組がこちらを窺っていることに気づいた。女子校の制服を着ているから、僕らと同じ年頃だろう。ミーハーな視線とは違い、どこか真剣な表情だった。内心首を傾げていると、二人は席を立ってこちらにやって来た。

「ノア、少しお時間よろしいかしら」

「もちろん。どうぞ、ルーシー」

 互いに名前を知っているということは、親しい間柄なのだろうか。もう一人の子も普通にしているので、僕だけ置いていかれている気分だ。

 それにしても、綺麗な子だった。プラチナブロンドが、天窓からの光を受けてキラキラと輝いている。髪型はサイドが三つ編みのハーフアップで、お嬢様らしい雰囲気だ。

 ルーシーは僕とノアの間の椅子に座り、その後ろに控えるようにもう一人の子が立った。彼女はダークブラウンの髪をショートカットにしていて、ルーシーとはまた違うボーイッシュな美人だ。

「今、私たちの学校で奇妙なことが起きているの。あなたに話したら、何かわかるかもしれないと思って」

 どうやら、ノアに謎を解かせようとしているらしい。学園の外にも、彼の明晰さは知れ渡っているのだろうか。

「とりあえず、話は聞くよ」

 ルーシーは優雅に礼を言うと、左右に視線を送り、声のトーンを落とした。

「私が感じた異変の発端は、鳥や野良猫の様子だったわ。動きが鈍かったり、羽や毛が抜けていたり、病気にかかったように具合が悪そうな動物たちが目につくようになったの」

 まさか、ゾンビパウダーが風に吹かれて島全体に広がってしまったのだろうか。同じことを考えたのか、ノアが尋ねた。

「それは、いつ頃の話?」

「私が気づいたのは、今年の七月。その時は感染症の類かと思ったわ。先生方に相談したけれど、島民の方々も含めてあまり問題視していないようだった」

 どうやら、あの一件より前から起きているようだ。話の続きを聞いて、関係はなさそうだと感じた。

「九月に入って、体調を崩す子が増え始めたの。お医者様に見せても、原因は不明。一時的に、自宅に戻った生徒もいるわ。幸い、自宅で療養したらすぐに回復したけれど」

「その二つが繋がっていると思う理由はあるの?」

「証拠は特にないわね。強いて言うなら私の直感よ。弱った猫を見かけるようになって、嫌な予感がすると思った矢先だったから」

 根拠はないのに、なぜか堂々としている。たぶん、普段からこんな調子なのだろう。

「そのうち、変な噂が立ち始めたわ。具合が悪くなった子は、みんな『魔女の呪い』にかかったって。その噂によれば、呪いから逃れるにはこの島を出るしかないそうよ」

 ルーシーは眉をひそめて不快そうに言った。

「呪いにかかるような何かをしたということ?」

「さあ、わからないわ。でも、みんな放っておいてほしいって言うの。私はただ、彼女たちの力になりたいだけなのに……何も教えてくれないのよ」

 ルーシーの顔が泣きそうに歪み、ショートカットの子が気遣うように彼女の背中を撫でた。

「本人たちが言うなら、放っておいたら? 君が監督生だとしても、そこまで気にする必要はないと思う」

 ノアらしい意見だった。僕らはまだ子供だけれど、自分で考え、判断できる年齢だ。手を差し伸べても振り払われてしまうのなら、何もかも無駄になってしまう。しかし、ルーシーは毅然と首を振った。

「みんな同じ学校の仲間で友人だもの。彼女たちが苦しんでいるのを見るのはつらいわ。デイジーだって可愛くなるために努力して、ようやく告白すると言っていたのに……」

「いつも一緒にいた子だね」

「シェリー、写真を見せてあげて」

 後ろに立つショートカットの子が、自分のスマートフォンに保存した写真を見せてくれた。ルーシーとシェリーの間に、黒髪を両肩に垂らした大人しそうな子が座っていた。

「これは今年の夏休みに三人で遊びに行った時の写真よ。好きな人ができたって、その時に聞いたわ。それから――」

 シェリーはルーシーの言葉を聞くまでもなく、別の写真を僕らに見せた。

「これが九月の半ば。今にして思えば、このころから私たちと距離を取り始めていた気がするわ。そして九月の終わりごろに、彼女も他の子たちのように寝込んでしまった。もう魔女の呪いの噂も流れていて、私は彼女なら教えてくれると思って真相を聞きに行ったの」

 ルーシーは沈痛な面持ちで息を吐いた。意を決したように、続ける。

「でも、デイジーは私を拒絶した。『あなたのように恵まれている人にはわからない』と、はっきり言われたわ」

ルーシーの言葉に、シェリーも悲しみをこらえるように唇を引き結んだ。ノアは思案するようにテーブルに目を伏せた。訴えかけるような二人の視線を受け、苦笑する。

「俺が関わったところで解決する保証はないよ」

「でも、私やシェリーだけではもうできることがないの」

 そうまで言われては、ノアも突き放せないようだった。姿勢を正し、ルーシーに尋ねる。

「体調を崩した生徒の共通点は? 普段の素行とか、性格とか、特定のクラブに所属していたとか」

「私も共通点を探したけれど、これといったものは見つからなかったわ。でも強いて言うなら……」

 ルーシーはそこで言い淀んだ。なぜか顔を赤らめている。

「こ、恋をしていたということかしら」

 沈黙が訪れ、ルーシーはごまかすように咳払いをした。もしや、それを口にするのが恥ずかしかったのだろうか。

「つ、つまり、具体的に好意を持っている相手がいたということですか?」

 僕まで妙に照れくさくなって思わず口を挟んだが、ルーシーの真似をしたようにどもってしまった。

「ええ、そうよ。……ちょっとノア、笑わないでちょうだい!」

 ルーシーに怒られても、ノアは微笑ましそうに彼女を見ていた。

「なるほど、それは君の苦手分野だね。こういう場合は誰かが罠にはまったふりをして探るのが一番だと思うけど、難しそうだな」

 呟いたノアは、何かを思いついたらしく僕を見た。

「アオ、あの写真は今見られる? カイが一目惚れした」

「はい、今出しますね」

 スマートフォンを操作して、写真を表示させる。ノアはその写真を、ルーシーたちに見せた。

「この子に頼んでみるのはどうかな」

「この子は……五年生のアリアね。どうして彼女に?」

「彼女なら、同調圧力に負けずに知ったことを教えてくれそうだから」

 ノアの言葉の意味することは僕にもわかった。セドリックに告白した一幕を聞いたせいで、暗黙の了解を悪気なく破りそうなイメージがある。

「それに、彼女は“恋をする”という条件も多分クリアできる」

「あっ、確かに」

 それこそ、先日の一件で証明されている。あとは、うまく協力を取り付けるだけだ。ルーシーは意見を求めるように、背後のシェリーを振り返った。彼女が頷いたのを見て、ルーシーはノアに向き直った。

「わかったわ。アリアに相談してみる。話が進んだらまた相談するわ」


 「キッチンウィッチ」からの帰り道、僕はただカフェに行ったにしては疲労を感じていた。ケーキも紅茶も美味しかったが、その前に聞いた話で既にお腹いっぱいだったからだろうか。それに、一つ引っかかっていることがあった。

「デイジーという子が写っていた二枚の写真を見て、何か違和感があったんです。でも、その理由がわからなくて……」

「ああ、それは俺も思った。顔の印象が違うというか、後で撮った写真の方が明るく見えるというか」

 ノアも同じ印象を受けたようだが、具体的な違いはわからないらしい。単純に、写真写りの問題とも考えられる。

「それにしても、なんだか不穏だな。ルーシーじゃないけれど、嫌な予感がする」

「体調不良が何人も出ているのは深刻ですよね」

 僕の受け答えを聞いたノアは、曖昧に微笑んだ。それ以上の何かを懸念するように。


 珍しくマーリンの方から連絡があったのは、その日の夜だった。同室のカイは、布団にくるまって熟睡している。

「僕は島内のライブカメラを見るのが趣味なんだけど、最近気になることがあるんだ」

 そんな趣味があったのは初耳だった。それについて詳しく聞きたいが、僕がつっこむ間もなくメッセージが続いた。

「『神話の森公園』の森に入っていく人が、ここ数カ月で増えているんだ。それも、女子校の生徒ばかり。ちょっと異様だと思わないかい?」

 神話の森公園とは、島内にある広大な公園だ。自然豊かで、散歩コースとして学生にも島民にも人気だが、森まで含めると広すぎて全容は僕も把握できていない。ギリシャ神話の登場人物の石造が点在しているので、神話の森公園と名付けられているのだろう。

「女子校の子たちは、入ったらしばらく出てこないの?」

「滞在時間は二十分くらいかな。あまり長居している子はいないね」

「二十分か……。どこまで行っているんだろう」

 森には授業の一環で出かけたことがあるが、特に遊具や店があるわけでもなく、目的も想像できなかった。

「時間があったら、実際に見に行ってよ。それで理由がわかったら、僕にも教えてくれ」

「自分で行けばいいじゃないか」

 僕はルーシーから相談された件で手一杯だ。まあ、相談を受けたのは僕じゃなくてノアだけど。

 しかしそこで、はたと気づいた。もしかして、今の話と女子校の魔女の呪いは繋がっているのではないだろうか。どちらもほとんど同時期の出来事だ。

「あの公園に、魔女や呪いが関わりそうな場所はあるかな」

 突拍子のない質問だったが、マーリンは返信をくれた。

「魔女は思いつかないけど、呪いならギリシャ神話に色々とエピソードがあるよ。ジュピターの愛人だったラトナという女神が、ジュピターの妻の怒りを買って逃亡するんだ。ある時喉が渇いた彼女が沼の水を飲もうとするんだけど、農民たちがそれを邪魔しようとする。腹を立てた彼女は彼らを呪い、蛙に変身させてしまうんだよ」

 蛙と書いてあって、背筋に寒気が走った。ゾンビパウダーの一件でややトラウマになっているようだ。

「じゃあ、他には何かある?」

 パソコン片手に検索でもしているのか、マーリンはその後もいくつか呪いにまつわる神話を教えてくれた。ただ、ピンとくる内容のものは特になかった。

「今の情報の代わりに、森の探索は君に頼むよ。じゃあね」

「えっ、それはまた別の話――」

 ずいぶんサービスが良いと思ったら、そんな理由だったとは。収穫なく仕事だけが増えて、僕は一人ため息をついたのだった。


「なんだよそれ、話が違うじゃないか」

 寮室で僕が今の状況を説明すると、カイが不満顔でぼやいた。

「でもほら、一応アリアっていう名前と五年生だってことはわかったわけだし」

「その上、好きなのは副寮長のセドリックだったこともわかったもんな」

 まあ、カイがぼやきたくなる気持ちもわかる。きっかけは彼が僕に課したミッションだったが、話は大幅に逸れて女子校で起きている事件の謎解きが目的になった。正直もうカイの存在を忘れかけていたことは、内緒にしておこう。

 その後、ルーシーはアリアに話を持ちかけ、アリアもあっさり引き受けたという。アリアはルーシーに憧れていたらしく、頼られて嬉しそうだったとルーシー本人が誇らしげに教えてくれた。現時点で僕らができることは特になく、僕はいつものように天文部でのんびり過ごしていた。

 宿題をのろのろと進めている僕の横で、昼寝から目覚めたエリアスがあくびまじりに言う。

「それにしても、ニーグベルン校でそんなことが起きていたとはね。寮長としてあちらとの交流会にも出たけど、教師も生徒もそんな話はしていなかったよ」

「良家のお嬢様が多いから、変な噂が広まると困るんじゃない?」

 ノアの相槌を聞き、この前図らずも聞いてしまった先生たちの会話を思い出す。どこも不祥事に怯えているのだ。特にこんな孤島の学校は、悪い噂が広まると致命的だろう。

「でも、恋をしている子限定の病気なんて奇妙だよ。あれじゃないか? ほら、女子の中で過呼吸とかの症状が伝染する……集団ヒステリー?」

「あれは一過性のものだけど、今回は長引いているから違うと思うよ。一斉に症状が出ているわけでもなさそうだし」

「そうなると、何かの毒か」

 僕は思わずノートを走らせていたペンを止めた。ノアが言う。

「魔女が登場するなら、儀式のような行為の中で毒物を使っているかもしれない。でも、正体まで突き止めるのは難しそうだね」

「そこをアリアが見つけてくれれば解決に繋がりますね」

 宿題そっちのけの僕に、エリアスが止まっているよとニヤニヤ指摘する。彼らも課題は出ているはずなのだが、いつも悠々としていて解せない。

「時にアオ、明日の夜は空いているかい?」

 エリアスに聞かれ、僕は曖昧に頷いた。

「特に予定はないですけど、何かあるんですか?」

 学園のスケジュールには、特に行事は入っていなかったはずだ。首を捻る僕をよそに、エリアスとノアは思わせぶりに笑みを交わした。

「魔女の正月を祝うのさ」


ハロウィンの余韻が残る、十月三十一日の夜。消灯後から一時間後にベッドから出た僕は、音を立てないよう慎重に着替え、寮室を抜け出した。廊下には最低限の明かりが灯っているだけで、ひっそりと静まり返っている。

 息を潜めて寮の裏口に向かい、重いドアを押し開ける。隙間に体をねじ込んで外に出ると、想像していたより冷たい風が吹きつけてきた。もう少し厚手のコートを着た方が良かっただろうか。しかしゴソゴソしているとカイを起こしてしまいそうで、取りに戻るのは諦めた。

「アオ、こっちだ」

 エリアスの声に振り返ると、隣にノアとセドリックも立っていた。当然ながら、真夜中に学園の敷地内を抜け出すのは重罪だ。バレたら反省文やらどこかの掃除やら、罰が与えられる。しかも彼らは生徒の模範となる立場で、僕以上に叱られるだろう。それなのに三人とも平然としていて、いっそ感心してしまった。

「あまりゆっくりしていると、明日になってしまうよ」

 エリアスはすでに歩き出しながら言った。

「そういえば、どこまで行くんですか?」

 集合場所と時間は聞いていたが、目的地は聞きそびれていた。

「『魔女の家』だよ。メアリーが店の前庭を飾りつけて、集まった人たちと零時を迎えるんだ」

 進級してすぐの頃、ノアに連れられて店を訪れたことを思い出す。前庭というのはおそらく、店の前の野原のような場所のことだろう。

「魔女の正月は、何をするんですか?」

 特別な儀式があったりするのだろうか。魔女と聞くと、どうしても怪しげな雰囲気を想像してしまう。一緒に呪文を唱えるくらいなら付き合えそうだが、よくわからない食べ物や薬は遠慮したい。

 しかしノアの説明は僕の想像とはかなり離れていた。

「正月になると、異界から先祖が訪れるんだ。死者が迷わないように、こちらはランタンに火を入れて迎える。死者の側は現世の人々を祝福し、再び帰っていく。とても静かな祭だよ」

「なんだかハロウィンや日本のお盆みたいですね」

「ハロウィンの起源といわれているからね」

 魔女の正月の方が先だったのか。最近はハロウィンも仮装大会になっているから、本来の意義に立ち返ってみるのも良い機会だ。

「お、明かりが見えてきたな」

 僕らの中で一番背の高いセドリックが言った。やがて、ぽつぽつとオレンジ色の光が見えてくる。ランタンに灯された炎だろう。人影もいくつか揺れていて、深夜の祭は案外盛り上がっているようだ。

 僕らが到着してから十分ほどすると、店からメアリーが一つのランプを手に出てきた。

「正月を迎える前に、一年間使った火を消すんだ。あのランプの灯が、今年の火ってことだよ」

 ノアの解説のおかげで、メアリーがランプの灯を消す仕草がいっそう神聖なものに見えた。やがて、どこからかカウントダウンの声が上がる。今日が、魔女にとっての一年が終わるのだ。

「三、二、一……」

 魔女の新年を迎えた瞬間は、とてもひっそりとしていた。小さな拍手が、パラパラと鳴るだけ。ランタンに向かって、祈りを捧げている人もいた。三人がアーサーの話をしていて、今さらながら、彼らが誰のために来たのか気づく。僕はそっと、その場を離れた。

 ランタンはかぼちゃではなくカブをくり抜いて作られていて、闇の中で仄白く浮かび上がっていた。ひとつひとつ眺めていると、背中に軽い衝撃があった。

「あ……ごめんなさい」

 ぶつかった女性の声は、涙混じりだった。聞いてはいけないものを聞いてしまったような気がして、軽く会釈して立ち去ろうとすると、女性の方から声をかけてきた。

「この前ノアと一緒にウチの店に来た子だよね」

 キッチンウィッチで働いているニーナだった。眼鏡をかけていないと思ったら、手に持っている。たぶん涙を拭っていたのだろう。眼鏡がないと、ずいぶん印象が違う。服装も黒いレースのワンピースで、ウェイトレスの制服と比べて大人っぽかった。

 ニーナも亡くなった誰かを想って泣いていたのだろうか。何か言わなければと思うのだが、上手い言葉が出てこなかった。風が吹き荒んで、ぶるりと震える。それを見たニーナが、くすりと笑った。

「寒そうだから、特別に私のホットチョコレートをあげよう」

 ニーナは大きめの水筒を肩から下げていた。蓋がコップになるタイプで、そこにホットチョコレートを注いでくれた。ありがたく受け取ると、顔の前で湯気が舞った。

 ホットチョコレートは火傷しそうに熱かった。とろりと甘い液体が、喉を通り胃に落ちていくのがわかる。しっかりと苦みもあって、深みのある味だった。それに、ちょっとだけピリッとする。

「美味しいです。カカオの他に、何が入っているんですか?」

「砂糖といろんなスパイス。寒い季節は体が温まるようにね」

 確かに、体がぽかぽかしてきた。スパイスの香りもクセになるし、同じものがカフェで飲めるならアーサーのように通ってしまうかもしれない。

「あなたはこの島の生まれなんですか?」

 二つの学校に関わりのない島民も、千人ほど住んでいる。ニーナもてっきりその一人だと思っていたが、彼女は首を振った。

「違うよ。あたしはね、逃げてきたの」

「えっと……誰から?」

 予想外の答えに戸惑っていると、彼女は唇を歪めて笑った。。

「母がとある政治家と不倫してたんだけど、奥さんがめちゃくちゃ怒ってさ、ロンドンにいられなくなったんだ。その後、母に新しい男ができて、そいつに襲われそうになったから一人で出てきた。転々として、落ち着いたのがここってわけ。この島じゃ珍しいかもしれないけど、ありふれた話でしょ?」

 ニーナは僕を困らせて楽しんでいるような、意地悪な目をしていた。でも、顔に張り付けたようなぎこちない笑顔を見ていると、とても怒る気にはなれなかった。

「ありふれているとしても、つらくないわけじゃないと思う。僕は、一人でたくましく生きているニーナを尊敬するよ」

「……ありがと。アオやあいつみたいなお人好しが近くにいたら、あたしの人生ももう少しマシだったな」

「今からだって、どうにかなるよ。まだまだ先は長いんだから」

 どうしてもう終わりかのように言うのだろう。それに、あいつとは誰を指しているのだろう。ニーナは僕の言葉を否定も肯定もせず、視線を遠くにやった。

「その政治家の本妻の娘が、ここの学校に通ってるんだって。向こうは私のことなんて知らないけどね」

 芝居がかった仕草で肩をすくめ、ニーナは独白を続けた。

「初めは直接何か言ってやろうと思ってたけど、あまりに世界が違いすぎて笑えてきちゃった。お金持ちの家に生まれて、お勉強ができて、綺麗な制服を着て。恵まれているのに、自分が恵まれていることに気づかない。それにすごく腹が立った」

「ニーナ……」

 彼女は僕の内面を見透かそうとするように、じっと僕の目を見た。

「『魔女の呪い』の正体はね、大切なものが何かもわからない少女の愚かさだよ」

「どうして君がそれを……?」

 ほとんど答えは明かされているのに、僕は往生際悪く尋ねる。しかしニーナは、そんな弱々しい言葉なんて聞いていなかった。

「本当に愚か。可愛くなりたくておまじないにすがって、自分の健康すら代償にする。可愛くなれば好きな人が振り向いてくれるって信じてる。そんなくだらない人間になるくらいなら、あたしは今の方がいいや」

 踵を返す彼女に何か言わなくてはと、僕は焦った。このまま、立ち去らせてはいけないような気がした。

「愚かかもしれないけど、人を好きになるって、そういうことなんだよ……たぶん。僕はまだ、わからないけど」

 冷めた目をしていたニーナは、僕が付け加えた一言で吹き出した。カフェで見た顔も嘘じゃなかったとわかって、ほっとする。

「きっとアオの言う通りだね。結局あたしも同じ羽を持つ鳥なんだ。どうにもならないことが受け入れられなくて、八つ当たりしてたんだよ」

 彼女は夜の闇に溶けるように、僕の前からいなくなった。まるで、推理小説を読んでいてうっかり犯人の名前だけ見つけてしまったようだ。

 同じ羽を持つ鳥――birds of a featherは確か同じ穴の狢と同じ意味だったな、とぼんやり考えていると、再び背中に衝撃を受けた。

「アオも隅に置けないな、女の子と二人きりで話し込んで」

 からかうエリアスにあれはニーナだと告げると、いたく驚いていた。雰囲気がまったく違ったから、無理もない。結局、眼鏡はずっと外したままだったし。眼鏡がないと、かけている時と比べて目が大きく見えて――。

「あっ!」

 うっかり大声をあげてしまい、エリアスが飛び上がった。ノアとセドリックから、訝しげな視線を向けられる。

「すみません、ちょっと思いついたことがあって。デイジーという子の写真を見て、以前と倒れる直前で顔に違和感があったんですけど、どこが違うのかわかったんです」

 僕は興奮を抑えるように、つばを飲み込んだ。

「二枚の写真の違いは、彼女の瞳の大きさだと思います。倒れる直前の方が、瞳が大きく見えるんです」

 日本で売られているコンタクトレンズで、瞳の模様を模した柄を描いたものがある。僕の姉も使っていて、瞳の輪郭を強調することで目を大きく見せる効果があるらしい。そのビフォーアフターが、写真と似ていると思ったのだ。

「なるほど、瞳が大きくなれば顔全体の印象も明るくなるね」

「そうです! それで……あれ?」

 つまりどういうことだろう。デイジーがコンタクトレンズを変えて、それが体調不良に関係しているというのは、どう考えてもこじつけだ。途端に元気をなくした僕を、先輩たちは微笑ましそうに見ている。とても恥ずかしい気分だ。

「いや、良い線かもしれないよ」

 ノアがかけてくれた言葉も、慰めにしか聞こえなかった。


 翌日の放課後、僕は改めて昨夜のニーナとの会話を三人に伝えた。全員が、難しい顔で考え込んでいる。

「つまりアオは、ニーグベルン校で起きていることには犯人がいて、それがニーナだと思っているわけだな」

 状況を整理するように、セドリックが言った。

「昨日は絶対にそうだと思っていましたけど、一晩経ったら自信がなくなってきました。そもそも、どうやったのか方法がわからないですし」

「方法は俺もわからないけど、『何を使ったか』はたぶんわかったよ」

「えっ、本当ですか!」

 ノアはテーブルに一冊の古びた本を載せた。付箋を貼ったページと開くと、その一部を指さした。

「ここに記述がある、『ベラドンナの目薬』。これを使うと、瞳孔が開いて目が大きくなったように見えるんだ。ただし、副作用がある。症状はめまいや吐き気、ひどくなると意識障害や幻覚も起こる。摂取量によっては、死に至ることもある」

「ベラドンナって、花の名前か。そんな毒を持っているなんて知らなかったな」

 エリアスがソファに沈み込みながら言った。そう、これは毒だ。目が大きくなって可愛く見えるかもしれないけれど、とても危険なものだ。ニーナが健康を代償にと言った意味がわかる。

「よし、ニーナを問い詰めて毒を振りまくのをやめさせよう!」

 今にも部屋を出て行こうとするエリアスを、セドリックが制止した。

「今のところ、方法は不明で証拠もない。アオに話した内容も、決定的なことは言っていない。彼女がベラドンナを持っていれば証拠になるが、それを期待するのは危ない賭けだな」

 確かにその通りだ。せめて、どうやって目薬を広めて使わせたか、やり方がわかればいいのだが。

「ニーナはおまじないと言っていたから、その内容をアリアが見つけてくれれば――あ、ルーシーから電話だ」

 ノアは振動しているスマートフォンを手にして、電話に出た。

「ノア、聞こえてる?」

 ルーシーの声だが、ひどく取り乱していた。何があったのだろう。ノアはゆっくり彼女に問いかける。

「ちゃんと聞こえているよ、ルーシー。どうしたの?」

「アリアがいないの! 彼女の端末に連絡しても、反応がないのよ。部屋に、本と変な栞が残されていて。……待って、カメラをオンにするわ」

 少し冷静さを取り戻したのか、ルーシーはアリアの机に置かれていた本と栞を見せてくれた。

 本のタイトルから察するに、恋愛関係のおまじないが書かれているようだ。その隣に、シンプルな赤いリボン付きの栞が置かれている。栞には、「可愛くなって恋を叶える方法」という文句が並んでいて、その下にはおまじないのやり方が書かれていた。

 「ウンディーネの掲げる杯の水に顔をつけ、三秒間目を開けること」

 もし、ベラドンナの毒が溶け込んだ水の中で目を開けたら。それは目薬をさすのと同じことになるのではないか。おそらく全員が同じ結論に辿り着き、緊張が走った。

「ウンディーネの掲げる杯……?」

 その場所に行けばアリアが見つかるかもしれないが、肝心の場所がわからない。しかし、もし連絡が取れない理由が倒れているからだとしたら、早く助けに行かないと危ない。

 その時、あることを閃いた。スマートフォンを出し、マーリンに写真付きのメッセージを送る。驚くほどすぐに、返事があった。

「わかりました、神話の森です! ライブカメラに、アリアが入っていくのが映っていたそうです。今から三十分ほど前に」

「ライブカメラ? アオ、どうしてそんなにすぐ調べられたんだい」

 エリアスが不思議そうな顔をする。

「少し前に、神話の森を訪れるニーグベルンの生徒が増えているとマーリンが教えてくれて。えっと、マーリンというのは――」

 ノアたちがはっと息を呑み、顔を見合わせた。マーリンの名前を聞いただけで、どうしてそんな反応をするのだろう。エリアスは戸惑う僕の肩に手を乗せ、頷いた。

「わかるよ。僕たちもよく知ってる」

 心なしか、エリアスの目が潤んでいるように見えた。

「急ごう。アリアを捜さないと」

 ノアが言い、僕らは天文部の部室を飛び出した。

 

 神話の森公園の入り口で、ルーシーと待ち合わせた。隣には今日も、シェリーがいる。

「ウンディーネの石像なら、私もわかるわ。こっちよ!」

 ルーシーに先導され、公園の遊歩道を駆け足で行く。遊歩道はいくつも枝分かれしていたが、ルーシーは迷いなく進んだ。

「アリア!」

 悲鳴のような声を発したルーシーの視線の先に、木にもたれて目を閉じるアリアの姿があった。駆け寄って、アリアの肩を揺さぶる

「アリア、お願い、目を開けて!」

 取り乱すルーシーを制し、セドリックはアリアの首に手を当てた。

「脈拍はある。呼吸もしているな」

 すると、アリアがゆっくり目を開けた。軽く瞬き、まだぼんやりした顔でルーシーを見る。彼女の瞳孔が、昼間にもかかわらず開いているのを目にして、僕らが辿り着いた結論が正しかったことを知る。

「ルーシー……?」

「そうよ。ごめんなさい、あなたを危険な目に遭わせて」

 沈痛な面持ちで謝るルーシーを見て、アリアは弱々しく首を振った。

「違う。あなたは何も悪くない。本当は、すぐに伝えなきゃと思ったの。古書店で見つけた本の中に、おまじないを書いた紙が栞のように挟まっていて……きっとこれのことだってわかったのに」

 彼女の大きな瞳からぽろぽろと涙が零れて、制服を濡らした。

「だって私も、可愛くなりたかったの。好きな人に、可愛いって思われたかったから。だから……」

 ルーシーに伝える前に、一度だけ。そう誓って試したのだろう。とめどなく涙を流す彼女を、ルーシーは抱きしめた。

「もういいわ。それより、あなたの身体の方が心配よ。早くお医者様に見ていただかなくては」

 その様子を見て、エリアスはノアに言った。

「僕らは医者を呼んでくるよ。君はアオと一緒に、ウンディーネの杯を見に行ってくれ」

「ウンディーネの像は、ここを道なりに行ってすぐのところよ」

 ノアはエリアスとルーシーに頷きかけた。

「わかった。行こう、アオ」

 再び駆け足で進むと、それらしい石像がすぐに見えてきた。可愛らしい少女の石像の手には彼女の頭より大きい杯があり、そこに銀色のボウルが載っていた。中には水が張られ、花手水のように色とりどりの花が浮かんでいる。

「この水に、ベラドンナの毒が?」

 美しく澄んだ水の中に恐ろしい毒が溶け込んでいるなんて、誰も想像できないだろう。僕の後ろで黙って眺めていたノアは、前に進み出てボウルに手をかけた。そのまま杯からボウルを持ち上げる。そして次の瞬間、ボウルの中身を花ごと宙にぶちまけた。

「ええっ!」

 驚きの声を上げる僕を無視して、彼は自分のハンカチでボウルに残った水滴を拭きとった。

「これでよし」

「な、なんで……」

 まだ衝撃から立ち直れていない僕とは対照的に、ノアは満足げだった。

「さて、『犯人』のところに行こうか」

 ノアが何を考えているのかわからない。その顔は悪戯を思いついた子供のように、生き生きとしていた。


 僕らはその足で、ニーナが給仕を務める「キッチンウィッチ」を訪ねた。店内に彼女の姿はなく、店員に聞くと今日は体調不良で休んでいるとのことだった。

「もしかして、もう逃亡しているかも……」

 店を出てからノアに言ったが、本音はもう一つ懸念していることがあった。彼女のあの、自暴自棄な振る舞い。罪を告白して、全てを終わらせようとしているのではないか。

「彼女の家は調べてある。そこにいなかったら、わからないね。でも俺は、彼女が君を待っているような気がするけど」

 ノアの案内で到着したニーナの家は、小さな庭のついた可愛らしい一軒家だった。この島は住人の人数に対して土地が広いので、アパートは存在しない。彼女の家も島の中では一番小さい部類だが、本島で同じ家賃では住めないだろう。半ば現実逃避のようなことを考えている自分に、この扉を開けたくないのだと自覚する。

 ノアは尻込みする僕の先に立ち、ドアをノックした。さらに呼びかけてみるが、反応がない。試しにといった様子でドアノブを握ったノアが言った。

「鍵が開いてる」

 心臓がどくりと嫌な跳ね方をした。ドアを開けたが、ニーナの姿は見えなかった。廊下を進み、キッチンを抜けて奥の部屋を覗く。

「ニーナさん!」

 彼女は椅子に腰かけ、テーブルに突っ伏していた。触れようとすると、彼女の肩が揺れた。くつくつと聞こえる笑い声。どうやら寝たふりだったらしい。

「君は本当に良い子だね。心配になるよ」

 ニーナは立ち上がり、僕ではなくノアに視線を向けた。

「それで、警察はいつ捕まえに来るの?」

「来ないよ。君が犯人だということは、誰にも言っていないし、ベラドンナの毒も土に撒いてきた。土の成分まで調べたらわかるだろうけど、この島の警察にそこまでのやる気はないだろうね」

 ニーナは警戒心をあらわにしてノアを睨みつけた。正直、僕も彼の意図はわからなかった。ニーナはたぶん捕まるつもりでいたのに、ノアはそれを止めたことになる。

「もし君が質問に正直に答えてくれるなら、島を安全に出ることと、その後の生活に必要なサポートを約束する。乗る気はある?」

「質問の内容によるわね。知らないことは答えられないし」

「――アーサーに関して、君が知ることすべて。彼はキッチンウィッチでどんな話をした?」

 ニーナは虚を突かれたように目を瞬いたが、すぐに顔を引き締めた。

「彼はやっぱり、殺されたの?」

「わからない。それを知るために、調べようと思ってる」

 ノアの言葉の真意を測るようにニーナはじっと彼の顔を見ていたが、やがて諦めたように息を吐いた。

「大したことは話してないわ。でもあたしの勘だけど、付き合ってる女性がいたと思う。ある時から、幸せそうな顔で物思いに耽るようになったの。しかもね――」

 ニーナはもったいぶるようにたっぷり時間をかけてから、口を開いた。

「相手は学園の教師よ。彼、店で何度か電話してた。盗み聞いた断片を繋ぎ合わせたら、それ以外考えられなかった」

 苦しそうな表情でニーナは言った。きっと取引でなければ、誰にも明かすことはなかっただろう。鈍い僕にもわかった。魔女の正月を迎えた夜の涙。彼女はアーサーのことが――。

「それは知らなかったな。ありがとう、ニーナ」

 ノアが言い、ニーナは皮肉のこもった笑みで応えた。


 騒動から数日後、アリアを最後に体調不良の生徒は出なくなり、一応の解決をみた。真相を知っているはずのエリアスやセドリックはなぜか口を噤み、直接の原因は不明のまま処理されそうだ。

「どうして、ニーナを逃がしたんですか?」

 納得できる答えがなく、僕は天文部で二人きりの時にノアに尋ねた。

「単純な理由だよ。アーサーについて、俺が知り得ない情報を知りたかった。逃げることと引き換えなら、大抵のことは教えてくれると思ってね」

 あの一瞬でそこまで判断してベラドンナの毒を捨てたのだと思うと、ノアが恐ろしくもあった。

「アーサーの死の真相を暴くには、そこまでする必要があるんですか。僕にはやりすぎのような……」

「今の時点では、何が彼の死に関わっているかわからないよ。でも、ニーナの言ったようにアーサーと教師が付き合っていたのなら、隠したいスキャンダルなのは間違いない。そこにトラブルが生じたら?」

 完全に納得というわけではなかったけれど、僕にはどうしようもないことだ。モヤモヤしたものが残ったけれど、唯一の明るい話題としては、カイのことだ。なんとアリアはセドリックへの片想いを早々にやめて、カイに一目惚れしていたらしい。魔女の目薬を試したかったのも、カイを想ってのことだった。つまりは両想いで、めでたく交際がスタートした。カイは僕そっちのけでアリアと連絡を取るようになりちょっとつまらないけれど、親友が元気なら僕も嬉しい。

 ただ、徐々にノアたちを取り巻く空気が不穏になり、近くにいる僕も巻き込まれそうになっていることを肌で感じ始めていた。

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