第2章 迷路庭園と月の道
天文部の部室に現れたエリアス寮長は、機嫌が悪そうだった。無言で入ってきて、ソファに乱暴に腰を下ろす。しかし育ちが良すぎるからか、がんばって行儀悪く振舞っているようにしか見えず、どこか滑稽だった。
「この僕を利用するなんて!」
彼の不満の理由は、先日の「ゾンビパウダー事件」のようだ。伝言役のように扱われ、カミルが意図した通りに使われたことが悔しいのだろう。今日はお目付け役のような立場のセドリックがいないので、言いたい放題だ。
あの一件の後、ノアは全てをエリアスやセドリックに報告した。そしてエリアスの判断で、先生たちには秘密にしておくことになった。生徒たちに動揺を与えないためだと彼は言ったけれど、アーサーの死に注目させたいカミルへの意趣返しのようにも見えた。ちなみにゾンビパウダーについては、カミルから没収してメアリーに処分を頼んでいる。顛末を聞いて、彼女も安心しているようだった。
「ああイライラする! こんな日はクリケットで思い切りバットを振りたかったんだけどなあ」
エリアスは恨めしげに窓の外を見た。外はあいにくの雨で、降りやむ気配はなかった。
「雨が降った方が植物も育つし、俺は嫌いじゃないけどね」
ノアが本をパラパラとめくりながら言う。
「そうだろうね、君は水撒きができない場所に花を咲かせようとしているようだから」
エリアスの嫌味を含んだ言葉に、ノアは口元を緩める。少し前、カミルがゾンビパウダーをまいたあの中庭に、ノアは花の種を蒔いたのだ。
「そういえば、何の種を蒔いたんです?」
彼が楽しそうに種を蒔くところは横で見ていたが、肝心の花の名は聞いていなかった。
「ふふ、秘密。来年の五月ごろには咲くかなあ」
どうやら今は、教えてくれないらしい。来年の五月、僕は何をしているだろう。少しは大学受験のことを考えているだろうか。最近四年生になったばかりの僕には、全然想像できなかった。
「そうだ、植物の話で思い出した。アオ、君は『迷路庭園』にはもう行ったかい?」
「外から見たことはありますけど……学園を出てすぐ近くの庭園ですよね」
「そう、生垣が張り巡らされて迷路のように人を惑わす庭園さ。有名どころは他にもあるけど、美しさと複雑さはこの島の『バーリー・ガーデン』が一番だよ」
エリアスが言うように、イギリスには迷路庭園と呼ばれる庭園がいくつもある。生垣で壁が作られ、その名の通り迷路になっているのだ。貴族の間で流行した時代があり、自分の敷地内に庭園を作らせて権力を誇示していたという。不思議の国のアリスの世界に飛び込んだようで、初めて見た時はわくわくした。
「その庭園で、最近あまりよろしくない遊びが流行っているようでね」
ルールはとても単純で、通信機器や方角のわかる物を持たずに迷路庭園に入り、早くゴールすることを競うのだという。徹底しているグループだと、太陽で方角がわからないよう曇りの日を選ぶそうだ。ちょっとしたスリルが楽しめるので、上級生たちの間で人気の娯楽になっているらしい。
「迷路はそうやって楽しむものでは?」
通信機器を持たないのは徹底しすぎだと思うが、僕だってスマートフォンの位置情報なんかは見ないようにする。クイズはヒントなしで解いた方が気持ちいいのと同じだ。しかしエリアスは、僕の意見を否定するようにひらひらと手を振った。
「普通の迷路なら、それでいいさ。でも、あの庭園は惑わすためにできているといっても過言ではない。門限になっても戻らずに騒ぎになることが何度かあったし、この前なんて一晩見つからなかったんだよ。さすがに先生たちも見過ごせないと言っていた」
「一晩? それはさすがに怖いですね」
一体どれだけ複雑な迷路なのだろう。日本にある迷路はギブアップ用の出口があったが、こちらの迷路は容赦がなさそうだ。
「まあ君はお利口さんだから、そんな問題行動は起こさないと信じているよ」
エリアスに釘を刺された僕だったが、この時はまだ、自分には関係のない話だと思っていた。
九月も下旬に入り、新しい校舎や寮にも慣れ始めたころ、カイから奇妙な噂を聞いた。六年生の一人が、タイムリープを体験したのだという。噂好きのカイが、嬉々として教えてくれた。
「迷路庭園でさ、突如ドアが現れて、開けて出たら次の日の朝だったんだって」
エリアスが言っていた、一晩帰らなかった生徒のことだろうか。そんな話になっていたとは知らなかった。目を輝かせているカイを見て、彼が次に言おうとしていることがわかった。
「オレたちも行ってみようぜ!」
「まあ、いいけど……」
僕だって、興味がないわけではない。慎重な性格ゆえ、尻込みしてしまうだけで。お化け屋敷に行くような怖いもの見たさで、カイと約束したのだった。
学園の東門を出て少し行くと、小高い丘が見えてくる。僕らが目指す迷路庭園は、その丘の上にあった。庭園の生け垣の奥には、立派な屋敷が佇んでいる。今はもう住人はおらず、廃墟になっているという。放置されて久しいので、崩れる危険から立入禁止になっている場所だ。
「庭園の方は専属の庭師がいて、ちゃんと手入れされてるんだってさ。屋敷の主人に雇われていた人だから、だいぶお爺さんらしいけど」
「へえ、一人で管理しているなんてすごいな。ところでカイは、どうしてそんなに学園や島の色んなことを知っているんだ?」
一緒に進級してきたはずなのに、いつの間にか情報通ポジションになっている。一体どこから情報を仕入れているのか、疑問に思っていた。
「そうだなあ、アオは口が堅そうだから言ってもいいけど……」
どうやら特別な情報源があるらしい。カイはしばらく迷っている様子だったが、結局ニヤリとして言った。
「やっぱり秘密。そういう約束だからな」
そうこうしているうちに、僕らは迷路庭園の入り口に辿り着いた。クラシカルな蔦のアーチが、僕の背より高い生垣に挟まれて静かに佇んでいる。
遠目に看板のように見えたのは、名簿の下がったスタンドだった。入る前に、名前や学年を書くルールになっているようだ。中で迷子になって出られなくなっても、いずれ誰かが捜しに来てくれるというわけだ。自分の格好悪さにしばらく落ち込みそうだけれど。
名前を書くと、単純な僕は身が引き締まった気がした。せっかくなので、スマートフォンを出して写真に収める。左右に並ぶ鉢植えのコニファーも、雰囲気があって良い。
「なんだ、アオは持って来たんだな。オレは部屋に置いてきたよ」
「本当に? 気合が入っているなあ」
正直、庭園に一晩取り残されるより先生にバレて怒られる方が怖い。これまで優等生として過ごしてきたから、怒られ慣れていないのだ。
「所詮はただの迷路だろ。壁は生垣なんだから破ればいいって」
楽天的なカイに引っ張られ、僕も庭園に足を踏み入れた。中は土のにおいに混じって、ほんのりと甘い香りがした。アーチの近くにある生垣に咲く赤い薔薇の花から漂っているようだ。
「すごいな、全然外が見えない。確かに迷路だ」
一歩入った地面から芝生が敷き詰められており、ため息が出るほどしっかりした造りだった。生垣の圧迫感が予想以上で、空は見えるものの後ろにあるはずの廃墟は見えない。進んでも進んでも同じ景色だ。何度も同じ場所を巡っているような錯覚に陥る。
しかし不安になったのは最初くらいで、迷うような分かれ道はなかった。薔薇の色や咲き具合が、目印の役割を果たしてくれる。
「なあ、あれってもう出口?」
カイが指さした先には、入り口と同じような蔦のアーチが見えていた。
「そうみたいだね。アーチの向こうは芝生もないみたいだし」
「そっかあ、全然迷わなかったし、なんだか拍子抜けだったなあ」
アーチをくぐった後、カイは少し残念そうに庭園を振り返った。時計を見れば、入ってから二十分ほどしか経っていない。一晩行方不明になった生徒は、どこをどう進んだのだろう。
「……あれ?」
庭園を眺めていたカイは何かに気づいたように声を上げた。
「どうかした?」
「あそこに塔が見えるだろ? でもずっと生垣越しで、近くまでは行けなかった」
「言われてみれば、確かに」
いずれ塔の前を通るだろうと思って歩いていたのに、出口に到着してしまった。
「そもそも、塔に行く道がなかったよな。こっち側から入れないってことか……?」
考え込んでぶつぶつ言っていたカイだったが、何かしら結論が出たようだ。迷路庭園の話を僕にした時と同じように、目を輝かせていた。
「上から見てみればいいんだ!」
「上からって、どうやって? まさか――」
僕は庭園の向こうにそびえる廃墟に目をやった。
「よーし、明るいうちにさっさと行こうぜ」
カイは僕の意見も聞かずにずんずん歩き出してしまう。庭園の外側をぐるりと回って、廃墟に近づくつもりらしい。
「でも、あそこは立入禁止だろ。危ないからダメだって……」
「気をつけて進めば大丈夫だって。ほら、人がいないうちがチャンスだぞ」
こうなった時のカイは止まらない。観念して、ついて行くことにした。二人いればどちらかが怪我をしても、助けを呼びに行けるだろう。
外側の生垣に沿って進んでいくと、生垣から白い塀に切り替わっているところがあった。幸い生垣は薔薇ではなかったので、僕らは隙間に体を捩じ込むようにして中に入った。
「廃墟ってもっと寂しい感じかと思ったけど、意外と綺麗だな」
カイが感嘆の声を上げる。綺麗に見えるのはおそらく、玄関前の芝生がきちんと刈られ、雑草もほとんどないからだろう。誰か管理する人がいるのだ。
正面玄関は鍵がかかっていて開かなかったので、他に出入りできそうな場所を探した。裏に回ると窓があり、ガラスが割れて穴が開いていた。そこに手を突っ込み、内側から鍵を回す。窓枠が歪んでいて少し苦労したが、どうにか開けて侵入した。
廃墟の中は昼間でも薄暗く、僕はスマートフォンのライトであたりを照らした。大きなデスクの前に、立派な椅子が一脚。壁の棚は空だが、サイズから考えて本棚だろう。ここは書斎だったのかもしれない。
「中はさすがにボロボロだな。うわ、蜘蛛の巣だ」
頭に蜘蛛の巣がついたのか、カイが手を振り回して払う仕草をする。
「あんまり暴れるなよ。誰か来たら……」
小声でカイに注意するが、彼は軽く笑い飛ばした。
「わざわざこんなところまで来て告げ口する奴なんていないって。それより階段だよ。提案が見渡せる窓があると良いけど」
今にも外れそうなドアノブを回すと、軋んだ音を立ててドアが開いた。正面に油絵が飾られていて、廊下が左右に伸びている。
「とりあえず玄関側に行こう」
カイの後ろをついていくと、廊下はすぐに突き当たり左手にドアがあった。先ほどのドアよりしっかりした造りで、分厚いためか重い。力を入れて押すと、埃が舞い上がった。軽くせき込んでから顔を上げると、大きな空間が広がっている。玄関のドアが少し離れたところに見えていた。
「見事な造りだなあ。豪邸らしい堂々としたサーキュラー階段だ」
カイは吹き抜けの広間を見上げため息をついた。広間から二階に伸びる階段は優雅にカーブしていて、サーキュラー階段というらしい。僕らはその階段を上り、さらにもう一つ上階の三階まで行った。この高さなら、あの庭園の全貌を見られるだろう。
回廊をぐるりと巡って正面玄関側に行くと、左右に長い窓がはめ込まれていた。窓の前にはロッキングチェアが置かれていて、かつての家主が庭園を眺めている様子が想像できた。
「うーん、やっぱり塔に繋がる道はなさそうだな。こうして上から見ると、案外迷路も複雑じゃないし」
「迷路じゃなくて庭園だからね」
口では言いつつ、僕も少し期待はずれだった。エリアスの話だと、もう少しドキドキが味わえそうだったのに。
「でもせっかくだから、写真撮っておこうぜ。アオのスマホ貸してくれよ」
僕は画面のロックを解除してからカメラを起動させ、カイに渡した。不満を言っていた割には、端から端まで、くまなく撮影している。
手持ち無沙汰でなんとなく外を見ていた僕は、ふと床の軋む音を聞いた気がした。誰か入って来たのだろうか。まずい、隠れなくては。未だ熱心にスマートフォンを掲げているカイに、声をかけようとした時だった。
「おい、そこにいるのはわかっているんだ。降りてこい!」
ドスの効いたしゃがれ声だった。カイが驚いてスマートフォンを取り落とし、こちらに転がる。拾い上げると、落とした拍子に画面が開いたのかメッセージアプリが表示されていた。カイと顔を見合わせるが、逃げる場所などない。大人しく、降りていくことにした。
一階で僕らを待ち受けていたのは、白髪のお爺さんだった。でも、普通の老人ではなさそうだ。肩の筋肉が盛り上がっていて、胸板も厚い。髭をたくわえたいかつい顔は、よく日焼けしていた。白いシャツに飛び散った赤い汚れの正体は、あまり考えたくない。
「俺は庭園の管理を任されているターナーだ。ここが立ち入り禁止であることは知っているな」
顔を覗き込むようにして問われ、僕らは縮こまって頷いた。
「立ち入り禁止の理由はなんだ?」
「……危険だからです」
気圧されながら、ぼそぼそと答える。
「知っているのなら、なぜ侵入した?」
びりびりするような威圧感の中、口を開く勇気はなかった。しかし何も言わなければ帰してもらえない空気でもあった。観念したように、カイが言う。
「庭園を、上から見てみたかったんです」
「ほう……?」
ターナーさんは意外そうに眉を跳ね上げた。心なしか、怒りが少し収まったように見える。
「上から見て、どうだった?」
詰問口調ではなく、純粋な疑問のようだった。
「ものすごく迷う迷路だって聞いていたんですけど、正直簡単すぎてつまらなかったです」
「ちょっと、カイ!」
さすがに怒られると思ったが、ターナーさんは肩を揺らして笑った。
「そうか、簡単すぎたか! それなら来週は期待に沿えるようにしておこう」
「来週はって、道が変わるんですか?」
思わず口を挟むと、ターナーさんは拍子抜けしたような顔になった。
「なんだ、知らなかったのか。俺の気分次第だから、来週どころか数日で変わることもあるぞ」
そんなことが起きていたなんて知らなかった。つまり、ターナーさんの気分によってはとてつもなく複雑な迷路が生まれることもあるのだ。
「でも、あんなに背の高い生垣をどうやって移動させているんですか?」
僕の質問に、ターナーさんはニヒルな笑みを返した。
「それは職業秘密だ。お前たちの学園の生徒の中には、時々気づく奴もいるぞ」
そう簡単には教えてくれないらしい。ともかく、機嫌が良くなってくれたのはありがたかった。
「俺の家からは、お前たちが通った生垣と壁の境が良く見えるんだ。今回は見逃すが、次に同じことをしたら学園に連絡するぞ」
「はい、すみませんでした」
意地悪ではなく、僕らのために言ってくれているのだとわかった。そうでなかったら、わざわざ自宅から駆けつけたりしないだろう。
僕らは正面玄関から外に出て、ターナーさんが鍵をしっかりと閉めた。
「そうだ、一つ頼まれてくれないか」
ターナーさんは持っていた紙袋を見せて言った。中には白いタオルが入っている。
「これを五年生のフランシス・ラウリーに返してくれ。一週間ほど経ったが、顔を見せんからな」
そのぐらいはお安い御用だ。五年生なら、ノアに聞けばわかるだろう。受け取った紙袋はなぜか、古びた教室のような匂いがしていた。
ノアに連絡すると今日も天文部の部室にいると返ってきたので、このまま向かうことにした。今日はカイも一緒に行くという。
「ノアの噂は色々と聞くけど、実際話したことはないからさ」
「別に話したら普通……いや、普通でもないかな」
エリアスが騒がしいから相対的に普通に見えるけれど、何を考えているかわからないのはノアの方だ。頭の回転が早すぎる故についていけないこともあるが、別に周囲から孤立しているわけではない。でもどこかミステリアスで、隣にいても距離を置かれているように感じる。
天文部のあるクラブハウスは、今日も静かながら人の気配がしていた。この数週間ですっかり日常の景色になった廊下を行く。
ノックをしてドアを開けると、今日はノア一人がソファに座っていた。いつものようにベスト姿で、テーブルには数冊分厚い本が積まれている。
ノアは僕の顔を見るなり、小さく吹き出した。面食らっていると、彼は立ち上がり僕の目の前まで来た。頭に手が伸びて思わず身構えると、すぐに離れていく。
「どこまで冒険に行っていたんだか。頭に葉っぱがついてたよ」
彼の指先には枯れかけた一葉。僕はここまでずっと頭に葉を乗っけてきたらしい。カイを恨めしげに睨むと、悪戯が成功したような顔で笑っていた。
「そちらは君の数少ない友人かな?」
「はい、カイといいます!」
ノアの失礼な発言を否定する間もなく、カイが僕を押しのけて言った。噂がどうとか言っていた割に、素直そうな後輩を演じている。
迷路庭園に出かけたのだとカイが説明すると、ノアはなるほどというように頷いた。あ廃墟に侵入した上にターナーさんに怒られたくだりには、カイの話術もあってかなりウケていた。
「それで結局、上からの写真は撮れたの?」
「ばっちりですよ。な、アオ」
僕はスマートフォンに保存された迷路庭園の写真を、ノアに見せた。彼はなぜか不思議そうな顔でじっと見つめている。
「どうかしましたか?」
「……いや、前に行った時と生垣を作り替えたのかなと思ってね」
「ターナーさんは、自分の気分次第で道を変えられると言っていましたけれど」
その発言についてノアの考えを聞いてみたかったが、その前にカイが口を挟んだ。
「フランシス・ラウリーって五年生に、忘れ物を届けてほしいと言われたんです」
「フランシスは知っているけど、六年生だよ。そういえば彼、先週くらいに話題になっていたね」
僕にはピンとこなかったがカイは気づいたらしく、声を上げた。
「迷路庭園に行って、タイムリープしたって言ってた……」
「タイムリープ? そんな夢見がちなことを言うタイプには見えなかったけど」
「だからこそ、本当かもしれないですよ」
カイは勢い込んでいたが、フランシスを知っているらしいノアは疑っている様子だった。僕の手にある紙袋に目をやる。
「それ、今日渡しに行くの?」
「そのつもりです。フランシスがどこにいるか、ご存知ですか?」
「いつもならこのクラブハウスの、アトリエにいるはずだ。彼は美術部だから。案内ついでに、俺も行くよ」
やっぱりノアに聞いて正解だった。僕たちは再び廊下を行き、二階に下りた。ノアが立ち止まったのは一番奥の部屋の前で、ちょうど天文部の真下だった。
ドアが開いた途端、独特の匂いが鼻を突いた。先ほど感じた紙袋の匂いと似ていると気づく。絵具の匂いだ。
「フランクはいる?」
ノアがキャンバスに向かっている生徒に声をかける。彼は面倒そうに顔を上げたが、声の主がノアだとわかった途端に表情を変えた。
「そこに……」
指さした方向には大きなキャンバスがあり、その向こうに座っている者の顔は見えなかった。ノアはキャンバスの裏まで歩いていき、ひょっこり顔を見せる。ガタリと椅子が音を立て、驚いた声が上がった。
「お前、そういうのやめろよ」
「こうでもしないと気づかないかと」
悪びれず笑うノアに、フランシスは盛大なため息をついた。どうやら、それなりに面識があるようだ。
「何の用だ? オレはこの絵を仕上げるのに忙しい」
先手を打つように、フランシスが言った。眼鏡の奥の目が、険しくなる。ノアに視線を向けられて、僕は慌てて紙袋を差し出した。
「ターナーさんから、これをあなたに返すようにと言われました」
紙袋の中身を見たフランシスは、無表情のままそれを受け取った。
「別にそのままでも良かったのに」
どこか気まずそうに、紙袋を自分の足元に置く。特に思い入れのある品というわけではないようだ。なんとなく釈然としないが、フランシスのとげとげしい態度から早く逃れたかった僕は、足早に退散しようとした。しかしノアは、平気な顔で話を続けた。
「先週、迷路庭園で“タイムリープ”したんだって?」
煽るような口調で言うものだから、フランシスの顔は益々険しくなった。
「あんなのは嘘に決まってる。一晩何をしていたのかと聞かれて鬱陶しかったから、適当に答えただけだ。まさか君、信じたのか?」
「ええっ、そうだったんですか?」
ショックを受けているカイを、フランシスは嘲るように笑った。
「この学園は魔法だとかその手の話が好きな奴が多いよな。それも、フィクションとしてじゃなく現実に起こると思っている。頭の中がどうなっているのか覗いてみたいよ」
「魔法に縋ってでも叶えたい願いがあるってことじゃないかな」
ノアの言葉に、僕は先日のカミルの姿を思い出した。どうしようもないことでも、諦めきれないことはある。そんな時、人は魔法に縋るのかもしれない。
「それに、俺には君の“それ”だって似たようなものだと思うけどね」
フランシスの絵に目をやり、ノアは言った。気になって、こっそりとキャンバスに視線を送る。そこには彩り豊かな野原が描かれていた。そして花々の周りを、羽を持つ子供たちが飛び回っている。妖精なのだろうか。失礼ながら、捻くれた言動のフランシスにしては可愛らしい絵だった。
「うるさいな、絵の中くらい自由でいいだろ。どうせ現実には夢も希望もないんだ」
そして、釘を刺すようにこう付け加えた。
「これ以上詮索するのはやめろ。オレは聞かれても何も話さないからな」
その日の夕食では、カイがため息をつきながらフォークでニンジンのソテーを転がしていた。
「つまらないなあ。タイムリープが本当なら、オレも試してみたかったのに」
「でもさ、それって庭園に一晩ずっと隠れていたってことだろ? 先生たちも捜しに来たのに、見つからないなんてことあるのかな」
「確かに、それはそれで不思議だな。ターナーさんが言っていた、迷路の形を変える方法も謎だし」
カイはしばらく考えていたが、早々に匙を投げたようだ。スマートフォンを取り出して、アプリゲームで遊び始めた。僕もまだ食堂でのんびりしていたかったので、マーリンにメッセージを送った。
「今日はバーリー庭園の迷路に挑戦してきたよ。君は行ったことある?」
一分も経たないうちにメッセージが返ってくる。
「もちろんさ。この学園の生徒なら、みんな一度は行くはずだよ」
「じゃあ、この話は知ってる? 庭を管理しているターナーさんが、迷路の形は彼の気分で変えられるんだって」
「ああ、知っているよ。どんな仕掛けかもね」
さらりと書かれた内容を見て、思わず声を上げた。カイにどうかしたのかと聞かれ、何でもないとごまかす。
仕掛けを知りたいとマーリンに聞いたら、教えてくれるだろうか。でも、すぐに答えを聞いてしまうのも面白くない。僕の逡巡を見透かすように、メッセージが送られてくる。
「ヒントをあげよう。上から下まで調べてみると、わかるかもしれないよ」
いきなり答えを教えてはくれないらしい。ありがとうと返すと、またメッセージがあった。
「夜のバーリー庭園はとても綺麗だよ。月明かりの夜、塔に上ってみるといい」
まるで僕らが塔への道を探していたことを、知っているかのようた。彼はもしかして、僕らの近くにいるのだろうか。謎かけのような言葉を残し、やりとりは終わった。
十月に入り、朝晩が冷え込むようになった。敷地内にある小さなリンゴの木が赤く色づいて、本格的な秋の到来を実感する。休日には、年間行事の一つ、収穫祭が催された。イギリスの伝統行事で、名前の通り収穫を祝うお祭りだ。特に決まったルールはなく、学園では地元の住人たちとの交流行事の一つになっていた。作物の収穫を手伝ったり、収穫した果実でジャムを作ったり。この島の全寮制女子校の子たちがいて、収穫祭そっちのけでナンパしている生徒も見かけた。
僕はもちろん、女の子に声をかける勇気なんて持ち合わせていない。可愛いと思った子をちらちら見る程度だ。カイは果敢に飛び出していったが、戦果は芳しくないようだった。
「そういえば、ノアはどこだろう。彼の場合、女の子の方から来てくれそうだけど」
リンゴを箱に詰めながら見回すが、ここから彼の姿は見えない。
「魔女みたいなおばあさんたちに囲まれて、楽しそうに鍋をかき回してたぞ。近づけない女の子たちが遠巻きに眺めてて、変な魔法陣みたいになってた」
「魔法陣というか、結界みたいだね」
察するに、女の子たちの相手をするのが面倒でおばあさんのグループにいるのだろう。贅沢な話だが、そこまで人気だと大変なのかもしれない。
収穫祭には、ターナーさんの姿もあった。趣味で育てた鉢植えを、タダ同然で売っているようだ。絶えず人が来ていて、空いた隙に声をかけた。フランシスにタオルを返したことを伝えると、上機嫌でお礼を言われた。
「今は絵を描くのに忙しいと言っていました。顔を見せないのは、そのためだと思います」
「そうか。俺もあいつの絵は好きなんだ。頑張っているのなら余計な心配は――」
喋りながら、ターナーさんが視線を僕の背後に向けた。
「……おう、久しぶりだな。元気か?」
ぎこちなく片手を上げて言う。振り返ると、ノアが立っていた。彼はにこりと笑って答えた。
「元気ですよ。いつも通りです」
奇妙な間が開いた。僕には、二人が言葉を交わさずに会話しているように見えた。
「ところでターナーさん、僕はもう庭園の塔に行ってもいいんですよね」
「ああ、いつでも構わないさ」
「それなら、今日の夜に」
ターナーさんは少し驚いたように、目を見開いた。
「少し時間をくれないか。今日は塔に通じる道は作っていないんだ」
「大丈夫です。自分で見つけますから」
ターナーさんの近くにいた僕は、彼が小さく息を呑んだのがわかった。まるでノアからの、宣戦布告のようだった。
その晩、僕は夕食後にこっそりと学園の門を出た。庭園までの道を足早に進む。月が明るく、スマートフォンのライトをつける必要はなかった。
庭園の入り口の脇に、ノアの姿があった。
「すみません、遅くなりました」
「俺が早く着いただけだよ。まだ約束の時間より前だ」
腕時計を見れば、確かに約束の八時の十分前だった。ノアはいつからここにいたのだろう。
「さて、行こうか。消灯までに帰らないと、エリアスに怒られる」
ノアは僕の先に立ち、庭園のアーチをくぐった。生垣の薔薇が、風に小さく揺れている。白っぽい花は遠目に見ると小さな顔のようで、背筋が寒くなった。暗いからだとわかっていても、落ち着かない。たぶん僕一人なら夜に中に入ろうだなんて思わないだろう。
ノアに続こうとして、不意に違和感を覚えた。立ち止まり、辺りを見回す。名簿の下がった台に、アーチとコニファーの鉢植え。この前と同じはずだ。それなのに、何かが違う気がする。
「アオ、どうかした?」
「いえ、なんでもありません」
小走りでノアを追いかける。違和感の正体は、結局わからなかった。
「そういえば、塔に上って良いか、どうしてターナーさんにお伺いを立てていたんですか?」
あの空気の中では聞きづらかったが、実は気になっていた。塔に何かあるのだろうか。
「アーサーが、僕に来てほしくなかったみたいでね。ターナーさんは、伝言役だった。……たまには一人になりたいんじゃないかって」
彼の横顔は寂しげに見えた。そのアーサーはもういない。だから、その気遣いも不要になったのだ。
一分ほど歩いて少しひらけた場所に出ると、ノアは立ち止まって僕を振り返った。
「アオは、どうやって庭園の形を変化させていると思う?」
正直、ピンとくる答えは見つかっていない。でも、こうじゃないかと考えたことはあった。
「この庭園の道を作っているのは、生垣ですよね。パーティションを動かすように生垣を動かしたら、形を変えることができるんじゃないでしょうか」
「なるほど。それなら、どうやってこの背の高い生垣を動かすかだね」
「例えば生け垣がキャスター付きの台の上に置かれていたら、簡単に動かせますよね」
いくらターナーさんが筋骨隆々とはいえ、いちいち生垣を抜いて植え直すのは時間的にも厳しいだろう。
「でもそれなら、キャスターの跡が芝生の上に残りそうじゃない?」
「実はこの芝生はシート状になっていて、捲れば……」
しゃがみ込んで、生垣と芝生の境目を手で探る。残念ながらシートはなく、芝生も土からじかに生えていた。動かしやすいようにレールのようなものがあるのではと想像していたが、当然そんなものもない。ついでに生垣の根元の土も調べたが、植え替えたような跡は見つからなかった。
「……お手上げです」
「じゃあ、一旦戻ろうか。可動式という目の付け所はいいと思うけどね」
僕らは庭園の入り口まで戻り、アーチをくぐって外に出たら。先ほど、この辺りで違和感を覚えたことを思い出す。そういえば。この前ここで写真を撮ったはずだ。スマートフォンに保存した写真を見て、僕は声を上げた。
「ここの生垣、この前と違います! 前は赤い薔薇だったのに、今日は白い」
「不思議の国のアリスみたいだね。あれは白い薔薇を赤く塗るんだっけ」
茶化すようなノアの言葉を聞きながら、僕は必死に頭を働かせていた。薔薇の花の色が突然変わるなんて、それこそ塗らない限り有り得ない。つまり、この間とは違う生垣を見ているということだ。それならやはり、生垣を移動させたのだろうか。しかし、こちらも根元からしっかり土に埋まっていた。
「それなら……」
僕は少し離れて視野を広げてみた。おかしいと気づいたきっかけは薔薇の生け垣だが、それ自体は移動していない。つまり、他の物が変化しているのだ。動かせそうなのは、名簿の下がったスタンド。コニファーの鉢植え。アーチの根元を見ると、コンクリートのブロックに立てるタイプだった。ブロックはある程度重量があるだろうが、アーチ部分を抜けば移動もできる。
思いついて、鉢植えを一つ動かしてみた。隠れていた薔薇の生け垣が姿を現す。その花の色は、赤だった。
「この生け垣は、この前アーチの左側にあったはず。ということは――」
もう一つ、隣にある鉢植えをずらす。現れたのは、生垣に挟まれた道。アーチとスタンドを配置すれば、見分けのつかない入り口が出来上がる。
「だからあの日、僕らはどれだけ頑張っても塔には辿りつけなかったんですね。元から道は繋がっていなかった」
「その通り。これが庭師の気分次第で変わる庭園の秘密だよ。気がつけば大したことはないでしょ」
「でも、入り口からしばらく風景が変わらないし、まさか入り口の時点で騙されているとは気づかないですよ」
いつもと違うと気づいたとしても、自分が選んだ道が違ったのだろうと勝手に納得してしまう。
「さて、それじゃあ塔に繋がる入り口から入ろうか。君の話だと、この前開いていた入り口は赤い薔薇の横だね。そしてここからでは塔に行けなかった」
「そうです。そしてターナーさんの話では、今日の入り口は塔に通じる道ではない」
僕はさらにコニファーの鉢植えを三つずらした。鉢植えはこれで最後だ。隠れていた生垣と、三つ目の入り口が僕らの前にあった。
「残るはこの道だけですね」
口にすると、入り口の先に得体の知れないものが待っている気がしてきた。突き当たりの先に、深い闇が口を開けていたりして。
怖気づく僕を見てか、ノアは穏やかに僕に問いかけた。
「迷路庭園が渦巻き模様を描いている理由は知ってる?」
「いいえ。そもそも、渦巻き模様になっているのが一般的ということも知りませんでした。この庭園の生け垣が渦巻き模様なのは、この間写真を見たので知っていますけれど」
「諸説あるけれど、遠い古代のシンボルだという話があるんだ。渦巻きは生と死、そして再生のプロセスを意味していて、迷路を歩くことでその過程を体験する」
この世に魂が存在するならば、生まれ出て、やがて死に至り、いつか再びこの世に生まれるのだろう。
「これも魔法の一種かもしれないね。たとえ今世で不幸な死を遂げたとしても、魂は残り、来世ではきっと幸せになれる。そういう魔法」
「魔法というより、願望のように思えます」
「その通り。願うからこそ、魔法は生まれるんだよ。綺麗な願いごとばかりではないだろうけど、魔法の裏には人の強い願いがある」
僕は改めて、庭園の入り口を眺めた。薔薇の生垣に挟まれて、静かに佇んでいる。
「この入り口は、生まれる瞬間ということでしょうか」
「死の瞬間で、ここから再生のプロセスが始まるのかもしれないよ。ゴールを抜ければ、生まれ変われる……なんてね」
楽しそうに口ずさむわりに、興味はなさそうな口ぶりだった。ノアが足を踏み出し、今度は遅れないように隣に並んだ。
迷路は、この前とは比べ物にならないくらい複雑だった。幾度も道が分かれ、場合によっては三叉路になっている。感覚的にはだいぶ歩いているはずなのに、進んでいるのか後退しているのか、判別できるものもない。もしカイと二人で挑戦したら、きっとパニックになっていた。
それなのに、ノアはまるで頭の中に地図があるように迷わず進んでいく。
「もしかして、以前通った道を覚えているんですか?」
「いや、庭園の中に入るのは初めてだよ。この前写真を見せてもらったから、大体わかるけど」
「写真って、僕のスマートフォンにあったあれですか?」
もちろんとノアは頷くが、僕には信じられなかった。ほんの数秒見た上からの写真が、地図代わりになるなんて。
「それにほら、方角は大体わかるから」
ノアは空を仰いで言った。頭上の夜空は、ほんのりと明るい。月の光だ。生垣に阻まれて月は見えないが、光の射す方向はわかった。
緩やかにカーブを描く、生垣に区切られた道。巨大な渦巻きの中にいる自分を、鳥のように真上から眺める想像をする。一つの渦巻きを終えたら、次の渦巻きが始まる。生と死、それから再生。幾度も繰り返して、ようやく目指す場所が見えた。レンガを積み上げただけのような素っ気ない見た目の塔が、淡々と僕らを見下ろしている。
さすがに入り口と階段は暗く、ノアは小型の懐中電灯を手にして照らした。踏みしめるたび、靴底にザラザラした砂利を感じる。
階段をぐるぐると二週ほどすると、その先に明かりが見えた。階段の終わりが近づき、明かりの正体が月光によるものだとわかる。四角く切り取られた大きな窓の向こうには、月がぽっかりと浮かんでいた。
「フランシスも、この庭園の秘密を知っていたんでしょうか」
「そうだと思うよ。隠された入り口から入って元通りにしておけば、その日はずっと見つからない。彼は自分の意思で姿を消したんだ」
「でも、失踪は先生にも伝わる騒ぎになったんですよね。庭師のターナーさんにも、連絡が行ったんじゃないでしょうか」
ターナーさんは強面で誤解されやすそうだが、学園の生徒たちを温かく見守ってくれている。生徒が庭園で行方不明になったと聞けば、秘密を明かしてでも捜してくれるだろう。
「どうやらターナーさんはその日、夫妻で旅行に出かけていたようでね。島を出ていたから、協力もできなかったんだ。今日一緒にジャムを作ったお婆さんが言っていた」
「タイミングが良すぎるというか、まるでその日に合わせていなくなったような……」
「そうだね。真相は……本人に聞いてみようか」
ノアはゆっくりと背後を振り返る。靴音が、一定のリズムで聞こえていた。僕も振り返り、階段の方を見た。
「こんばんは、ミスター・ターナー。良い夜ですね」
階段を上がってきたターナーさんに、ノアが笑みを浮かべて声をかけた。彼は今日も紙袋を下げているが、この前より大きく重そうだ。
「やあ、ノア。それから君は……この前は名前を聞き忘れたな」
「アオといいます。四年生です」
頷いた後で、ターナーさんは僕の胸のタイに目をやった。
「そうか、九月で進級しているんだったな。フランシスは最上級生になったのか。オレはきちんと学校に通ったことがなくて、どうも忘れがちなんだ」
ターナーさんは困り顔で、少し恥ずかしそうに笑った。ノアも控えめな笑みを返し、尋ねる。
「彼と知り合ったのは、五年生の時ですか?」
「そうさ、去年の九月ごろだ。夜に廃墟に忍び込んだ奴らがいた。フランシスと、アーサーの二人だった。オレは偶然家の中から見かけて、いつものように説教しに行った。しかし、夜中に廃墟なんて気味の悪い場所に行くのは、ずいぶん酔狂だと思ったよ」
昼間でも薄暗かった廃墟の様子を思い出す。あそこに夜足を踏み入れるだなんて、その辺のお化け屋敷よりずっと怖い。
「なぜ、わざわざ夜中に?」
「月が綺麗だったから、だそうだ。確かにその日は満月で、星も見えないくらいに輝いていた。廃墟の上の階から、月を見たいと思い立ったらしい」
ターナーさんは窓の方に寄り、月を見上げた。今日は半月だが、まだ光の強さは健在だ。満月なら、さらに明るいのだろう。
「それならとっておきの場所があると、俺は二人にこの場所を紹介した。ずいぶん気に入ったらしく、それ以来、彼らはここをアトリエとして使い始めた。この迷路庭園の仕掛けをあっという間に見破って、入り口が塞がっている日も通っていたよ」
言われてみれば、微かに絵具の匂いを感じた。絵に関する物は見当たらないが、匂いは浸み込んでいるのかもしれない。
「失踪騒ぎがあった日も、彼はここに?」
「初めはそのつもりだったようだ。おそらく……」
ターナーさんは言葉を濁したが、アーサーとの思い出が関係しているのだろうと僕は想像した。フランシスが頑なに真相を話すことを拒んだ理由も、それならわかる。
「しかし、ここで一晩過ごすのはさすがに許可できなかった。夜は冷えるし、もし具合が悪くなっても駆けつけられない」
「それで、彼に家を貸したんですね。あなたと奥様は、旅行で家を空けることにした」
「旅行のことまで知っているなら、言い逃れもできないな」
ターナーさんは肩をすくめて苦笑した。
「その通りだよ。この塔に家の鍵を置いて、妻と島を出た。わざわざ近所の知り合いや警官に、雑談ついでに旅行に行くと言って回ってな」
「そしてフランクは、自分のタオルを忘れて帰ってしまった、と」
ターナーさんが頷く。なるほど、それですべてが繋がった。この庭園の構造を熟知していたフランシスは、うまく人の目をかいくぐり、ターナーさんの自宅に隠れた。夫妻が旅行で不在だとわかっていれば、深夜に警官が訪ねてくることもない。
「まあ見つかったらその時だと思った。不在のはずが人の気配がすると通報されることも覚悟していたが、フランシスはうまくやったようだ」
ターナーさんは一つ荷物を下ろしたように息をつき、近くの椅子に腰を下ろした。木でできた丸椅子が、微かに軋んだ音を立てる。
「庭師になって五十年以上。この島に来たのは六十年前だ。その間に君たちの学校が作られ、何千人もの生徒たちが卒業していった。若い頃は恵まれた境遇が、ただただ恨めしかったな。俺は子供の頃、父親にこの島に置き去りにされたんだ。子供の俺には、追いかける術がなかった」
「学校にきちんと通っていないというのは、そういう理由だったんですね」
ノアの相槌に、ターナーさんは穏やかに微笑む。
「しかし、おかげで庭師という仕事にも、この庭園の主人にも出会えた。俺は昔から、鳥のように俯瞰した映像を頭の中で描くことができた。方角も、なんとなく感覚でわかるんだ。それで思いついたのが、迷路庭園さ。屋敷の人たちに、喜んでほしかったんだ。当主が亡くなり、屋敷も廃墟になってしまったが、今でも庭園はこの島の人に楽しんでもらっている。こんなに幸せなことはないよ」
僕は窓に近づき、庭園を見下ろした。幾重もの生垣が、力強く並んでいる。この一つ一つに、ターナーさんは魂を込めて手入れをしてきたのだ。ここに、彼の庭師としての生きざまがある。とても壮大な光景を見ている気がした。
「ああ、ちょうど良い時間だ」
ターナーさんが言い、窓の向こうを指さした。
「ほら、ここからだと庭園の向こうは平原と海しかないだろう。月が海にも映るんだ」
微かに揺れる海面に、白い光が射している。一枚の絵画のように、幻想的な光景だった。
「本当だ。ムーンロードですね」
「アーサーもそう言っていたな。確かに、光が伸びて道のようだ」
ターナーさんは懐かしむように目を細めた。
「ここから見る月が最も美しいのは、九月なんだ。九月の月はハーベストムーンという呼称が有名だが、大麦の収穫時期という理由で『
「あっ、じゃあこの庭園の名前の由来も――」
僕が声を上げると、ターナーさんは肯定するように頷いた。
「かつての当主が、庭園越しに月を眺めている時に思いついたんだ。どんな絶景より、バーリームーンの庭園が最も美しいと」
僕らはしばらく無言で月と庭園を眺めてから、階段を降りて塔の外に出た。ターナーさんは持っていた紙袋を、今日は僕ではなくノアに差し出した。
「これは君に渡しておく。彼が今も生きているならそのままにしておいたが、もう本音を聞ける機会もなくなってしまったからな」
ノアは怪訝な顔で受け取り、中を見た。
「これは、絵ですか?」
「そうだ、アーサーが描いた絵だよ」
ノアがていねいに包装を解くと、額縁に入れられた油絵が現れた。絵を見た彼は、くすりと笑いを漏らす。
「笑ってやるな。誰にだって苦手なものはある」
「だってこれ、めちゃくちゃですよ」
ノアを窘めたはずのターナーさんも、笑いをこらえきれない様子だ。気になって覗き込んだ僕は、しばらく言葉を探した。
「ピカソのタッチに似ているような気も……。これって抽象画っていうものですよね」
「いや、このバーリー庭園を上から見た風景さ」
言葉を探す気力は沸いてこなかった。いびつな円が生垣だろうということ以外、何もわからない。普通は緑色を使う所を、オレンジだったり紫だったり、色使いが独創的過ぎる。組み合わせによっては綺麗に見えるだろうが、見ていると不安になってくるから不思議だ。
「一つアーサーのために種を明かしておくと、君に塔に来てほしくなかったのは、この絵を描いているところを見られるのが恥ずかしかったからだ。決して、君を遠ざけたかったわけじゃない」
「そう……だったんですね」
ノアはその事実を噛みしめるように呟き、絵に目を落とした。
「ずっと、誤解していました。アーサーは僕を、信用していなかったのだろうと」
「俺にも本音はわからないが、そうは見えなかったよ。その絵を描きながら、彼は言っていた。『この庭園のように、違う入り口からもう一度やり直せたらいいのに。ノアと、もっと違う境遇で出会いたかった』ってな」
絵を包んでいた包装紙が、がさりと音を立てる。ノアの指先が微かに震えているように見えた。
「……意外です。アーサーはそんな空想を口にしたりしなかったのに」
「君には格好をつけていたんだろう。誰にだって、現実から逃れたい時はある」
ノアはそっと絵を包み直した。紙袋にしまい終える頃には、動揺の名残はなかった。
「ありがとうございます。寮の部屋に飾りますね」
「ああ、ここにも時々遊びに来るといい」
ターナーさんに見送られて、僕たちは庭園を出た。そろそろ消灯時刻が迫っているので、来た時よりも早足だ。
「そういえば、フランシスはどうしてタオルなんて持って行ったんでしょうね。ちょっと寝る場所を拝借するなら、手ぶらで行っても良いと思いますけど」
「うーん……。やっぱり、人の枕を濡らすわけにはいかないと思ったんじゃない?」
しばらく考えて、ノアの言わんとすることに気づいた。フランシスがタオルを見て気まずそうな顔をしたのは、恥ずかしくなったのかもしれない。僕はまったく恥ずかしいとは思わないけれど、普段クールに振舞っている彼からすれば、隠したいことだったのだ。
「アーサーは、彼にとって大事な友人だったんですね」
「そうだね。きっと俺の知らないところでも、色んな人に愛されていた。今もね」
みんな、彼の死を悲しんでいる。そしてもし隠された真相があるなら、知りたいと思っている。
「それじゃ、今日は俺が消灯後の見回りに行くから。後でね」
「はい、また後で」
ノアと別れ、寮の廊下を歩きながらため息をついた。
「またわからないことが増えちゃったな……」
ノアと事故で死んだアーサーは、どんな関係だったのだろう。互いを嫌っていたわけではなさそうだ。でも、何か溝があったようでもある。それが、ノアがアーサーを殺したという噂に繋がっているのだろうか。
「まあ、僕が首を突っ込む必要なんてないけど」
言い聞かせるように能天気な声を出したのは、そろそろ引き返せないところまで近づいていると、どこかで感じ取っていたからかもしれない。
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