第1章 天文部の魔術師
九月一日。僕は四年生に進級した。僕たちはずいぶん前から、この日を心待ちにしていた。なぜなら、四年生になると寮も校舎も上級生たちと一緒になり、クラブ活動も始まる。いちいち許可をもらわなくても、学園の外で買い物をしたりカフェに行ったりできる。ずっと自由になるのだ。わくわくして、ちょっとむずがゆいような、大人になった気持ち。同学年のカイと共に、目を輝かせながら校舎に向かった。
「こっちの校舎は、造りがまた違うみたいだ」
三階建ての校舎を見上げて言うと、カイが相槌を打つ。
「今まで通ってた校舎は別邸で、こっちが当主の屋敷だったんだよ」
彼によれば、学園の校舎は元々、とある富豪がこの島で暮らすために造らせたものだという。しかし完成直前、彼は病に倒れ、屋敷だけが残されてしまった。その後何度も持ち主が変わり、敷地内に寮が建てられて今に至るというわけだ。
「古めかしいけど、ゲームに出てくる城みたいでカッコイイだろ。スコティッシュ・バロニアル形式って建築様式なんだ。重厚で上品、かつ素朴さもあって、オレは好きだな」
「さすが建築家志望。校舎を建て替える時は、君に指名が来るかもしれないね」
「まあこのくらいは当然だよ」
カイはまんざらでもない様子ではにかんだ。
「ほら、早く行こうぜ、アオ」
「あ、照れてる」
指摘すると、カイは強めに僕の肩を叩いた。
僕のファーストネームは
校舎の入り口近くの掲示板には、人だかりができていた。クラス分けの紙が貼り出されているのだ。毎年の光景で、あれを見ると新学期という感じがする。アプリで確認できればいいのにとぼやく人もいるけれど、僕はアナログな方法のままでいいと思っている。
名前を見つけたのは、カイの方が早かった。
「お、今年も同じクラスだ。よろしく」
「よろしく。まあ僕ら、成績が同じくらいだからね」
「じゃあ来年は別れるかもな。オレは上に行く!」
僕らは顔を見合わせ笑った。クラスはイギリスのパブリックスクールに倣い、ほぼ成績順で決まる。僕は特別頭がいいわけでもないから、頑張ってどうにか真ん中辺りをキープしている。上位クラスのレベルは異次元だし、元々頭の良い子たちが集まっているのだから、現状維持で充分だ。高学年になれば科目ごとに教室を移動することになり、得意教科や興味のある分野は難しい授業を受けられる。そもそも成績は一つの尺度でしかなく、大事なのは良識と品格を身につけること。赤点を取っても怒られないが、盗みや暴力には重いペナルティが課される。真面目さが唯一の取り柄の僕にとっては、過ごしやすい校風だった。
人の流れに乗っかり、僕とカイは三階の教室を目指す。周りはほとんど同学年で、みんな浮足立っている。教室に入っても椅子に座っている者は少なく、仲の良いグループが集まって喋っていた。僕も教室の一角に立って、今年一緒に過ごすクラスメイト達の顔を見渡す。四年目にもなれば、ほぼ全員が顔見知りだ。喋ったことはなくても、どんな性格かぐらいはわかる。特に目新しい者はいないようだった。
始業の鐘が鳴ると、皆席につき始めた。まだざわざわしているが、廊下を歩く足音が聞こえる程度には静かになる。
ドアを開け入ってきたのは、女性の教師だった。男子校という場所柄、女性を見ると少し落ち着かない気分になる。若くて綺麗な人だったので、なおさらだ。僕は隣の席のカイと目配せした。
「みなさん、進級おめでとうございます。このクラスの担任の、エミリア・オルコットよ。半年ほど休んでいたのだけど、今日から復帰しました。だからやる気十分。しかもこんなに美人よ。あなたたち、運がいいわね」
くだけた挨拶に、そこここから笑い声や拍手が起きた。
「気軽にミラって呼ぶことを許可するわ。さあ、言ってみて」
ミラ、と声が上がる。なんだかアーティストのライブみたいだ。ミラ先生は満足そうに頷いた後、教室を見渡して言った。
「あなたたちは今日、また一歩大人に近づきました。そして、自由を手にした。……そう、許可なしで学園の外に出られるようになりましたね。自由は良いものです。人類の歴史は、自由を求める戦いの歴史でもあるといえるでしょう」
難しい話が始まるのだろうか。困惑する僕らを翻弄するように、ミラ先生は続ける。
「確かに自由は尊いものですが、一方で苦しみを産むこともあります。例えば、あなたたちの将来。どこの大学を目指すか、どんな職業につきたいか。あなたたちには自由に選ぶ権利があります。そして選んだ結果は、あなたの人生というとても大事なものを左右する。何が失敗で何が成功に繋がるか、誰にもわかりません。わからないけれど、決めなければならない。だから大いに悩んでください。そして、困ったら私たちを頼ってください。私たちは情報を与え、アドバイスします。あくまでも、選ぶのはあなたたち自身であることを忘れないように」
教室は、打って変わって静まり返った。真ん中に座る一人の生徒が、手を挙げる。
「それって、学園は責任を負わないということですか」
「あら、勘がいいわね」
ミラ先生は涼しい顔で答える。
「でもね、あなたの人生なのに、誰かの言われた通りにするなんておかしいと思わない? 考えることを放棄して生きていると、いつかゾンビみたいになってしまうかも」
ゾンビの歩き方を真似ておどける先生に、再び笑いが起きる。僕はいろいろと考え込んでしまって、うまく笑えなかった。この学園を卒業して、僕は次に何を目指せばいいのだろう。決断の時は、ずっと先のようでいてすぐにやって来る。優柔不断な僕には、とても難しい宿題だ。
午前中は事務連絡とホールでの始業式で過ぎて行き、あっという間に昼食だ。一緒に食堂に来たカイは何やら用事があるらしく、急いでサンドイッチを平らげるとどこかに行ってしまった。
食堂は楽しそうなお喋りに満ちていて、誰も僕に意識を向けていない。ポケットからスマートフォンを出して、メッセージアプリを起動した。学園の生徒のみが登録可能で、入学と同時に全員がダウンロードして登録することになっている。僕はいつものように「マーリン」とのトーク画面を開いた。
「四年生になってワクワクしてたけど、卒業が近づくってことでもあると思ったら、なんだか気分が塞いじゃったよ。マーリンは、もう進路が決まっているの?」
今の気持ちを正直に書いて送信すると、すぐに返事があった。
「気分が塞ぐのは、それだけ学園での毎日が楽しいってことさ。素晴らしいことだよ。まずは今を精一杯楽しんで、気が向いた時に先のことを考えればいい。焦らなくても、パッとやりたいことを閃く瞬間があるよ。僕もそうだった」
「そうだといいけど。僕は直感が冴えている方じゃないから不安だ」
「君は慎重だからね」
モヤモヤすることがあった時は、こうして相談に乗ってもらっている。どうにもならないこともあるけれど、彼に話すことで自分の頭が整理されるし、聞いてもらえるだけで心強い。
「そうだ、マーリンもこの校舎にいるんだろう? そろそろ名前とクラスを教えてくれてもいいんじゃないかな」
もう五年以上やりとりをしているのに、僕は未だに彼の本名すら知らない。初めてメッセージをくれた日から計算すると少なくとも年上だから、今年は五年生か六年生だ。もうすぐ卒業してしまうというのに、いつものらりくらりと躱されてしまう。
「秘密のままの方が面白いじゃないか。君が見事探し当てたら、僕も正直に答えよう」
「相変わらずだなあ」
僕のメッセージを見ながら、彼はどこかで笑っているのだろう。案外近くにいるのではと食堂を見回すが、それらしき人物は見つからなかった。
「まあまあ、怒らないでくれよ。代わりに、面白い奴を紹介するからさ」
「面白い奴?」
もったいぶるように三十秒ほど経ってから、返信が来た。
「ノア・フラメル。今日から五年生だ。クラブハウス三階の西の端、天文部の部室に行くと会えるよ」
その名前はどこかで聞いた気がする。少し考えて、僕の寮の監督生だと思い出した。今日から寮を移るので名前以外の情報は知らないが、風紀を取り締る仕事を与えられるくらいだから優秀なのだろう。
「それで、彼のことで君に一つ頼み事があるんだ」
「マーリン。今は僕への埋め合わせの話をしていたよね」
この上頼み事なんて、僕が一方的に損しているじゃないか。しかしそれを素直に聞く彼ではない。
「ノアの周辺は少しごたついていてね、彼の身にも危険が迫っているかもしれない。ほら、君はカラテのクロオビなんだろう? その強さで、彼を守ってほしいんだ」
「そういうのは、まず先生に相談すべきだよ。僕の手に負えない」
「教師の中にスパイがいたらどうするんだ。頼れるのは君だけなんだよ。 ……なんて言うほど深刻ではないと思うけどね。だから先生に言うほどじゃないんだ」
「よくわからないけど、まあ会いに行くくらいなら」
断るのも面倒で、とりあえず了承することにした。そこまで危険はないようだし、ノアと親しい者を一人ずつ調べていけば、マーリンの正体も必ずわかる。
「ありがとう、さすがはアオだ! 頼んだよ」
調子の良い先輩だ。僕はため息をつきスマートフォンをポケットにしまった。
今日は昼休みの後に授業はないので、気になるクラブを見学する予定だった。カイとグラウンドやクラブハウスを回るのだ。カイは球技が気になるようで、フットボール部やテニス部を熱心に眺めていた。僕はというと、あまり球技は得意ではない。空手の大会で優勝したこともあり運動神経は悪くないはずだが、センスがないのだ。カイと同じクラブに入ることは諦めるとして、他に目ぼしいスポーツは見つからなかった。必ず入部しなければならないわけでもないけれど、なんとなくつまらない。
「音楽系は?」
カイの提案に、力なく首を振る。
「楽譜が読めないし、合奏はいつも微妙にずれる」
「そうなるとあとは、文化系か。運動部しか見てなかったから、俺はよく知らないけど」
それは僕も同じだった。文化系のクラブはかけ持ちしている部員も多く、無数にある。一覧を一目見ただけで、もういいやとなってしまった。
「そういえば、天文部の話って何か知ってる?」
どうせ暇なのだから、これから訪ねてみようと思いついた。その前に少しでも情報があればと期待したが、カイの反応は薄かった。
「特に聞いたことないな。田舎だから、星はよく見えそうだけど」
「じゃあ、ノア・フラメルって人のことは? 五年生だって」
そちらは打てば響くように返ってきた。
「有名人じゃないか。飛び級で大学に行く話が出るくらいの天才だよ。あと、どこかの国の王族って噂もある」
「……本当に?」
飛び級の話はともかく、後半は疑わしい。さすがにカイも半信半疑のようだった。
「まあ俺も実際に見たことはないし」
結局、カイに聞いても謎が深まっただけだった。ただ、興味は湧いた。マーリンは僕を慎重だと言ったが、気になったらそのままにしておけない性格でもある。グラウンドに駆け出していったカイを見送ると、クラブハウスへと足を向けた。
クラブハウスといってもかつての屋敷の一部なので、こちらも古めかしい石壁の建物だ。窓が小さいため灯りがついているかわからないけれど、中で活動しているのだろうか。
玄関に立つと、ひんやり冷たい空気を感じた。静かだが、人の気配はする。
「三階の、西の端……」
呟きながら、階段を上がる。踏み込むたび、微かに木の軋む音がした。何度か改修はしているようで、外見ほどは古びていない。壁の穴にネズミが出入りする、なんてことはなさそうだ。
廊下に並ぶドアはどこも閉まっていて、クラブの名を書いた札を掲げているところもあれば、何も掲示していないところもあった。科学部、ファンタジー文学研究部、手芸部……。どこからか弦楽器の音色も聞こえるから、室内楽部なんかもあるかもしれない。
ドアを眺めながらぼんやりと歩いていたら、あっという間に西の端にたどり着いた。ここの部屋も、重そうな木のドアがしっかり閉じている。ドアに耳を当ててみたが、人がいるかはわからなかった。そもそも、今日は活動日なのだろうか。
ドアの前で考えても始まらない。ノックをしようと手を上げかけた時だった。
ココアの香りが、ふわりと鼻を掠めた。
「君は本当に素直だね、アオくん」
背後から聞こえた声に、がばりと体ごと振り返った。僕より少し年上に見える男の人が、湯気の立つマグカップを手に立っていた。制服の上着はどこかに置いているのか、ベスト姿だ。タイが僕と違う色なので先輩なのは間違いないが、確実に初対面の相手である。
たくさんの疑問が瞬く間に生まれて、頭の中を巡った。気配を感じなかったが、どこにいたのだろう。彼も何かしら武術を嗜んでいるのだろうか。なぜ、僕の名前を知っているのだろう。そもそも、彼は何者なのだ。でも、一番に気になるのは――。
「どうして日本語を……」
僕にかけられた言葉は、間違いなく日本語だった。アオではなく、アオくん、と彼は僕を呼んだ。片言ではなく、日本人の喋る日本語で。
「母方の祖母が日本人でね。短い間だけど、子どもの頃に東京で暮らしていたこともある」
茶色がかった黒髪に、薄い灰色の瞳。日本人とかけ離れた容姿の彼の口から日本語が出てくるのは、なんだか吹き替えの映画を見ているようだった。頭が混乱する。
「はい、あげる」
彼は手に持っていたマグカップを僕に押し付けると、僕が背にしていたドアを開けた。
「でも、これはあなたのじゃ――」
「いいんだよ、どうせ飲むつもりはなかったから」
飲むつもりがないのに、どうして持って来たのだろう。部屋の中には誰もおらず、部員のために淹れたわけでもないようだ。会話のたびに、疑問がどんどん積み重なっていく。
「ほら、入って入って」
目を白黒させながら、部屋の中に足を踏み入れた。正面の壁、南側に小さな窓が二ヶ所あり、その手前に革張りのソファとローテーブルが置かれている。角部屋なので西側にも窓があるかもしれないが、壁一面を本棚が覆っており、定かではない。
勧められるまま、ソファに腰かける。僕の頭に浮かんだのは、日本の中学校の、校長室の光景だった。この学園に合格が決まった時に呼ばれたのだ。あの時ソファに座ることはなかったけれど、このソファのように案外硬い座り心地だったのだろうか。
僕はテーブルにマグカップを置くと、正面に座るに向き直った。
「どうして僕がここに来ることをご存知だったんですか?」
「君にメッセージを送った人物が、俺にも連絡をしたんだよ。でも、新学期早々に来てくれるとはね。……もしかして、友達がいない?」
「いえ、そんなことは! ……たぶん」
お世辞にも友達が多いとはいえないけれど、哀れみの目で見られるほどではないはずだ。
「それは良かった。では改めて、八年のノア・フラメル。よろしく」
僕はノアと握手を交わし、本名とニックネームを名乗った。
「ここって天文部なんですよね。他にも部員が?」
「俺以外は、かけ持ちが三人。ほぼたまり場にしているだけだけど」
「確かに、あまり活動している様子は……」
見渡しても、天体望遠鏡とか星座早見表のような星に関連する物は見当たらない。
「ところでアオ、君の誕生日は?」
「えっと、三月一日です」
質問の意図はなんだろう。考える間もなく、次の質問が飛んでくる。
「生まれた場所と時間はわかる?」
「生まれたのは東京で……確か、朝の六時六分と聞きました」
六と六だったと母が言っていたから、合っているはずだ。ノアはテーブルに置かれていたタブレット端末のカバーを開き、何かを打ち込んでいる。三十秒も待たずに、彼は言った。
「共感力があるって言われたことはある?」
はっとして、頷いた。
「小学校の通知表に書かれました。『相手の気持ちを想像して、共感することができています』って」
「君の太陽星座はうお座だから、それが前面に出やすいということだね」
「それって星座占いですか?」
うお座は周囲に気遣いができて、協調性がある……らしい。他にもロマンチストとか平和主義とか、ふわふわとしたイメージで説明されているけれど、僕にはあまりしっくり来ない部分もある。
ノアは僕の方に端末のディスプレイを向けた。
「西洋占星術を簡略化したものが、一般的な星座占い。生まれた時に太陽が位置していた星座――太陽星座――だけを見るものなんだ。これは君が生まれた時の天体の配置図。いわゆるホロスコープだよ」
ノアが示したのは、同心円がいくつか重なった時計のような図だった。大きな円の円周が等分されていて、それぞれマークがついている。内側の円には数字があり、その間にはまた見慣れない記号のようなものがぽつぽつと配置されている。
「共感はできるけれど、太陽がいるのは1ハウスだから、本来は自分らしさを発揮する場所の方が輝ける。それに、エレメントは火属性が多い。おっとりしていても情熱的で、時に衝動に任せて行動することもある」
まさに、僕が普段感じていることだった。穏やかでのんびり屋だと思われがちだが、譲れないと思えば喧嘩もするし、衝動的に突っ走って後悔することもある。所々専門用語のような言葉はわからないけれど、見事に言い当てられていた。
「あとは、ハウスに入る惑星が左上に偏っているね。世の中に出て、自分の力だけで未来を切り開く必要がありそうだ」
「生まれた時の星の配置だけで、そこまでわかるんですか?」
身を乗り出した僕に、ノアは飄々と答えた。
「多くの場合、占いの結果は幅を持たせた表現が使われていて、大抵の人が思い当たるものなんだ。でも、その結果を受け入れる気持ちになるかは、占う側と占われる側のコミュニケーション次第。君が当たっていると感じたなら、俺たちの相性は悪くないかもしれないね」
じゃあ、本当の意味で占いを的中させることはできないのだろうか。いや、的中したかどうかは結局その人の判断でしかないわけで、本当も何もない。僕だってノアの最後の言葉がなければ、西洋占星術はすごいと感心して終わりだった。
「つまらない種明かしを聞いてしまったね」
「僕の心を読まないでください」
むすりとして返すと、ノアは愉快そうに声を立てて笑った。
「昔はともかく、現代の占いはエンターテインメントだよ。良いことだけ聞いて、悪いことは聞かなかったふりをする。迷っている時だって、結局のところ自分の中で答えは決まっているんだから」
それはそうかもしれない。占いだけで人生の重要な局面の選択をする人は少数派だろう。
「それなら、君は誰の言ったことなら従う?」
「えっ?」
すぐに浮かんだのは、両親の顔だった。しかし考えてみれば、相談はしても全面的に言う通りにしたことはない。先生たちのことも尊敬はしているが、判断するのは自分だと思う。
「思いつかないです。僕は自分が納得しないとダメみたいで」
ノアは軽く目を見張り、それから目を細めて微笑んだ。
「やっぱり君は特別だ」
そんな言葉を真正面から言われ、思わずドギマギしてしまった。ごまかすように、テーブルに置きっぱなしのマグカップを手に取る。ココアはいつの間にか、猫舌の僕にちょうど良い温度になっていた。
「天文部ってもしかして、占星術も活動に含まれるんですか?」
「まさか。活動記録の提出が必要だから、外で観測会もしているよ。屋上には天体望遠鏡もあるんだけど、今は立ち入りが禁止になっていてね。……生徒の、転落事故があって」
「ああ、そういえば……」
去年の一二月二十日、クリスマスホリデー前日の話だ。当時の五年生が転落して亡くなったと聞いた。寮も教室も違ったので、詳細は何も知らない。ホリデー明けに先生たちが僕らの校舎の鍵を丈夫な物に交換したり、忍び込んだりしないようにと僕らに言ったりした程度だ。それから、名も知らぬ生徒のために祈りを捧げた。先生たちは本当に悲痛な様子なのに、僕らは場に合わせて神妙な表情を浮かべているという感じで、奇妙な集会だった。
「今も色々と噂が飛び交っていてね。あれは事故じゃなくて犯人がいるんじゃないかとか」
「でも、警察は事故だと判断したんですよね。それなのに噂になるなんて、よっぽど動機があって怪しい人物がいるってことですか?」
「そうみたいだね。ちなみに噂の犯人は俺みたいなんだけど」
散々振り回された僕は、もうだまされないぞという気持ちで彼を見た。しかしいくら待っても、冗談だよという言葉は聞こえなかった。その時になってようやく、マーリンからのメッセージを思い出す。
「その噂のせいで、誰かから狙われたりとか……?」
「まあ、それも関係あるかな」
少し濁された気もするが、一応納得できる理由だった。ただ、まったく想像していない展開だ。
「今まで危ない目に遭ったことはあるんですか?」
「夜中に庭を散歩している時に花瓶が降ってきたりとか、階段の途中にピアノ線が張ってあったりとか、ちょっとしたことなら」
全然ちょっとしたことではないし、そもそもなぜ夜中に出歩くのか。
「夜は部屋にいればいいじゃないですか」
「そうできればいいんだけど――」
不意に、廊下を歩く靴音が聞こえてきた。床を叩くようなパワフルな音は段々大きくなり、この部屋の前で止まった。間髪入れずドアが勢いよく開け放たれ、英語が響いた。
「やあノア、ごきげんよう! 暇だろうから遊びに来たよ!」
足音だけでなく声量も態度も大きいその人物は、案外体が小さかった。プラチナブロンドを頬のあたりで切り揃えており、小動物のように丸く大きな目の印象と相まって女の子のように可愛らしい。しかし驚いたことに、彼も先輩のようだ。彼のタイの色はワインレッド。最上級生だ。
小さな先輩は僕に気づくと、上品に片方の眉を上げた。
「おや、お客さんかい? タイがグリーンということは……何年生だ?」
「四年だ。寮長なら、同じ寮に入る学年の色くらい覚えてくれ」
なんと小さな先輩は寮長だという。そして彼に続いて入って来たのは、寮長とは反対に体格の良い先輩だった。タイの色は彼もワインレッドだ。
「そのあたりは優秀な副寮長殿に任せているんだよ」
なるほど、寮長と副寮長のコンビだったのだ。名前は思い出せないが、僕はとりあえずソファから立ち上がった。
「寮長のエリアスだ。こちらは副寮長のセドリック」
僕は寮長、副寮長の順に握手した。
「アオです。えっと……今日は天文部を見学に来ました」
「なるほど、君は変わった子だね!」
エリアスは満面の笑顔で言い切った。その横でセドリックが顔をしかめている。
「いつもこんな調子なんだ。悪いが怒らないでやってくれ」
「いえ、その通りだと思うので」
何せ、口から出まかせの理由だ。マーリンの言ったことを彼らに話して良いのかわからないし、とにかくごまかすしかなかった。
「うん、君は変わっているけれど器の大きい良い子だ!」
一人満足している様子のエリアスは、先ほどまでノアが座っていた側のソファに腰かけた。
「それで、今日の本題なのだけどね」
「また面倒なことに首を突っ込んだの?」
呆れ顔でノアが言う。
「生徒諸君の悩みを面倒なことと断じるのは可哀想じゃないか。寮長としては放っておけないね」
「相談してもいない悩みを詮索される方が可哀想だよ」
ノアに同意するように、セドリックが頷く。それでもめげることなく、エリアスは自分の胸ポケットから何かを取り出した。
「アオ、これはなんだと思う?」
細い金色のチェーンの先に、U字型のモチーフがゆらゆらと揺れていた。
「アクセサリー……ネックレスですよね」
「その通り。エルメスで売られているごく普通のアクセサリーだよ。教師はいい顔をしないだろうけど、所持していること自体は珍しくない」
いや、アクセサリーを持つのは普通だとしても、エルメスはおかしい。ファッションに疎い僕でも知っている高級ブランドだ。
通ってみてわかったが、この学園には裕福な家庭の子が多い。それもちょっと金持ち程度ではなく、海外にいくつも別荘を持っていたり、家に専属の料理人がいたりするようなレベルだ。僕のように奨学金を国から支給されている者から見れば、別世界を生きている。たぶんこのアクセサリーの持ち主も、そちらの世界の住人だろう。そして、エリアス寮長も。
「さて、問題はこのネックレスが『アミュレット』と呼ばれるシリーズだということさ」
「アミュレット?」
僕の英語の辞書にはない言葉だった。首を傾げていると、ノアが解説してくれた。
「お守りのことだよ。他にもタリスマンやチャームと呼ばれるお守りがあるけど、アミュレットは特に魔除けのために身につけるものだね」
「そう、魔除けなんだ。つまりこれの持ち主は、何かしらの脅威にさらされているはずだ」
エリアスは自信満々の様子だが、さすがに頷けなかった。
「単純にデザインが好きで持っているだけじゃないですか? 僕だって昔十字架のキーホルダーを持っていましたけど、意味なんて考えてませんでしたよ」
「君の言うことも一理ある。でもほら、これを見てくれ」
エリアスはU字のモチーフと一緒にチェーンに通されている、丸い石を摘まんだ。シルバーの土台の中に、黒いつやつやとした石が埋め込まれている。
「これはオニキスだ。これも悪霊を祓うとか、魔除けの効果があるといわれている。持ち主はわざわざオニキスを、この『アミュレット』と一緒にしたってことだよ。どうだい、これでも持ち主の意思を感じないか?」
エリアスの押しの強さもあり、単純だが納得しつつあった。裕福であることともう一つ、この学園には魔術やおまじないを大切にしている者が多い。校外学習の中で触れた儀式めいた島の風習や、図書室の不自然に多い魔術関係の本が影響を与えているのだろうか。あるいは、そういった“素養”を試験のどこかで確認しているのかもしれない。ノアやエリアスのように、知識が豊富な生徒が一定数いるのは確かだ。
つまり、この学園の生徒ならば、エリアスが指摘したように魔除けの効果を期待してアミュレットを身につけていた可能性は十分にある。
「僕はこのネックレスが寮の談話室に落ちていたと、一週間前にフットボール部の五年生から相談を受けた。名前は確か、カミルといったかな。先生に知られると没収されてしまうかもしれないから、僕を頼ったんだよ。そして僕は期待に応え、寮長の権限を駆使して持ち主を特定したんだ」
「大げさに言っているが、数人の生徒にアクセサリーを落とした者の心当たりがないか聞いただけだ。あとは、荷物の受け取り記録だな」
セドリックが補足する。
「じゃあ、その持ち主に悩みを聞いたんですか?」
話を聞いているうちに、だんだんと気になってきた。本当に、魔除けのために持っていたのだろうか。
「まずは周辺を探ったんだけど、よくわからないことが起きていてね。それで後はノアに任せようと思って来たんだ。これを返すついでに、本人に事情を聞いてくると良いよ。持ち主は五年生のヒューゴだ」
僕はぽかんとして、ノアを振り返った。彼はこめかみに手を当て、頭痛に耐えるような顔をしている。
「そういうわけで、協力が必要だったら言ってくれ。僕は忙しいからそろそろ帰るよ」
エリアスは僕の手にアクセサリーを握らせ、にっこりとした。気づけばもうドアを開けようとしている。セドリックは彼を追いかけつつ、ノアを気遣うように視線を向けた。無言で手を挙げて返事をするノアを見るに、これが日常茶飯事なのだろう。あっという間に嵐が過ぎ去り、部屋は再び静かになった。
「……これ、どうしますか」
高価なものが自分の手の中にあるのは落ち着かない。僕の手で汚れたりしないだろうか。ノアは少し思案して、ハンガーにかけてある上着のポケットからスマートフォンを取り出した。
「とりあえずヒューゴに返そう。彼はフットボール部だから、会えるのは早くて夕飯後かな」
メッセージを素早く打った後、彼は僕を見てくすりと笑った。手をお椀のように広げてアクセサリーを持っているのが滑稽だったからだろう。
「そうだ、君の連絡先を聞いておかないと。ヒューゴから返信があったら連絡するよ」
どうやら、僕が参加することは決定しているようだ。
思えばこの日が、全ての始まりだった。もしノアを訪ねていなかったら、どうなっていただろう。時々想像するけれど、結局どこかで僕らは出会っていたような気がする。マーリンという存在によって、僕らは既に繋がっていたのだから。
午後九時を少し過ぎたころ、僕はノアの寮室にいた。二人部屋だが今は一人で使っているそうで、人目のないところで話すには丁度良い。あと数分もすれば、ヒューゴもやって来るだろう。
「ヒューゴに、魔除けが必要な理由があるか聞くんですか? 別に放っておいても良い気がしますけど」
「無理に聞き出すつもりはないよ。でも、エリアスがあんな風に言うということは、何かしらあると思う」
ノアはそれなりに寮長を信用しているらしい。振る舞いは傍若無人だったけれど、あれも仲の良さゆえの態度だったのかもしれない。そういう関係には、少し憧れがあった。
遠慮がちなノックの音が聞こえ、はっと我に返る。部屋の鍵はカードキーで管理されていて、部屋の主でなければ入ることができない。僕は椅子から立ち上がって、ドアを開けた。
「おや、ここはノアの部屋じゃなかったかい?」
「合っていますよ。僕はなんていうか……成り行きでここに。邪魔なら席を外します」
戸惑う彼に説明する。明るいブラウンの髪と、鼻の周りに散ったそばかす。聞いていた特徴通りだった。
席を外すよう言われるかと思ったが、ヒューゴはむしろほっとした表情を浮かべた。
「いや、君もいてくれた方が良い。つまりこの部屋は……大丈夫、ということだよね?」
「大丈夫というのは?」
この部屋に何か問題があるのだろうか。意味がわからずに目を瞬かせていると、背後からノアが言った。
「君が心配しているようなことは何もないよ。念のため、仕切のカーテンも引いたし」
僕にはさっぱりだったが、ヒューゴは頷いて部屋に入ってきた。ノアの言う通り、先ほどまでは端にまとめられていた仕切用のカーテンが引かれ、部屋が半分になっている。椅子はヒューゴに譲り、僕は立ったまま見守ることにした。
「これは君の物で間違いないかな?」
ノアがネックレスを見せると、ヒューゴは感激した様子で礼を言った。
「着替えの時にロッカーで落としたとばかり思っていたけど、ラウンジにあったなんてね。見つけてくれたのが君で良かったよ。盗むやつもいるかもしれないし、先生だったら確実に呼び出しだ」
見つけたのはノアではないが、彼は否定せず微笑んだ。用事はそこで済んだはずだが、ヒューゴはネックレスを手で弄びながら目を泳がせている。奇妙な間が数秒空いた後、彼はおもむろに口を開いた。
「君は、霊的な存在を見たことはあるかい?」
「ないね。残念ながら」
即答したノアに、ヒューゴは苦笑する。
「僕の場合、そのものを見たわけではないんだけど」
彼が話したのは、少し気味の悪い、奇妙な出来事だった。
日曜日はフットボール部の朝練がない日だが、ヒューゴは毎週ランニングをしているという。一カ月ほど前も、早朝に起きてグラウンドに向かおうとした。
「僕の部屋からだと、グラウンドに出るには中庭沿いの廊下を通るのが一番近道なんだ。その日はやけに鳥の声がうるさくて、窓が閉まっていても聞こえていた。それで何気なく中庭を見下ろしたら――」
ヒューゴにつられて、僕もゴクリと唾を飲んだ。
「鳥が、花壇を埋め尽くすように群がっていて……。しかも、場所もあの辺りで……」
「それで魔除けを?」
「そうなんだ。彼が何かメッセージを送っているのかもしれないと思ったけれど、やっぱり怖くて」
面目なさそうに肩を落とすヒューゴと、納得しているノア。あの辺りとか彼とか、僕にはわからないことばかりだ。
「その現象を見たのは一回だけ?」
「いや、今も続いている。八月に入るまでは、そんなことなかったと思うけど」
「……わかった。少し調べてみるよ」
ノアの言葉に、ヒューゴは心配そうな顔をした。
「でも、もし君の身に何かあったら……」
「大丈夫。彼にも来てもらうから」
「えっ?」
ノアが当然のように言うので、思わず声が出た。マーリンの頼みを聞く気がないわけではない。でも、もう少し僕の意見も聞いてほしい。しかしヒューゴはすっかり安心しているようで、来た時よりずいぶん明るい顔で帰っていった。部屋は再び、ノアと僕の二人きりになった。
仕切用のカーテンをノアが端に寄せると、部屋の風景も元通りになる。
「どうしてカーテンを引いたんですか?」
ノアは使われていない机や布団のないベッドに目をやり、ぽつりと答えた。
「ヒューゴは幽霊が怖いみたいだったから」
「じゃあ、この部屋を使っていた生徒は――」
「去年の十二月に死んだ。ちょうど今日の昼間話していた、転落事故で亡くなった彼だよ」
その言葉でようやく、ヒューゴの何かをぼかしたような話の輪郭が見えてきた。中庭のあの辺りとは、転落死した生徒の倒れていた場所のことだ。鳥が集まっていたのは、死んだ彼のメッセージかもしれないと言っていたのだ。
「鳥を集めてメッセージを送るくらいなら、この部屋に直接出てくればいいのに」
ノアが独り言のように呟く。死んだ生徒とどんな関係だったのか、聞くことはできなかった。
ヒューゴの話を聞いてから、近くの廊下を通るとつい中庭の様子をうかがってしまう。事故の後、生徒は中庭の出入りを禁止されていて、窓から見下ろすことしかできない。レンガで区切られた花壇の跡や木のベンチが見えるが、手入れされている様子はなく、雑草が繁っていた。
僕がそんな調子なので、カイには少し心配されている。カイといえば、彼は結局フットボール部に入ることにしたようだった。ヒューゴと同じクラブだ。
「五年生のヒューゴと話したことはある?」
「ああ、練習熱心な人だよ。でも、同じ五年ならカミルの方が尊敬できるかな。練習方法とか戦術の知識もすごいんだ。ヒューゴは金銭感覚がだいぶ違ってさ、話は合わないんだよなー。……彼に何かあったの?」
「いや、ちゃんとした人ならいいんだ」
虚言癖があるとか、イタズラ好きとか、そういう噂がないのなら大丈夫だろう。彼は本当に、その光景を見た。あるいは、見たと思っているのだ。
それなら、どんな理由で中庭の一部に鳥が集まったのだろう。僕はヒューゴほど、心霊現象や超自然的な力を信じていない。何か、説明できる方法がある気がしていた。
授業後に天文部の部屋を訪れると、今日は先客がソファに座っていた。エリアスとセドリックだ。
「やあアオ、ちょうど良いところに来たね」
エリアスは嬉々として言い、よくわからないまま向かいに腰かけた。ノアは本棚に向かって、何かを探している。
「ヒューゴの話は彼の幻覚じゃなかったみたいだ。最近、日曜の朝に鳥がうるさいという声が上がっている」
「鳥が一ヶ所に集まる理由が、毎週日曜日の朝にあるということですか?」
「僕らが日曜礼拝をするようにね」
エリアスは肩をすくめて笑う。隣のセドリックが、ノートパソコンのディスプレイを見ながら言った。
「他に鳥に関する話題は……生物部の野鳥観察くらいだな。今年は猛禽類があまり島に来なかったらしい」
「猛禽類ってことは、大型の鳥か。そういえば、今年はバッタやコオロギが大量発生したね。やっぱり温暖化でこの島の生態系も崩れているのかなあ」
二人の会話をぼんやり聞きながら、僕も考えを巡らせる。夜に木の上に小鳥が集まる光景は、街中で見たことがある。あれは木の上を寝床にしているからだが、地面にいる鳥は大抵何か食べ物をついばんでいるイメージだ。でも、日曜の朝にだけあの場所に餌があるなんて不自然すぎる。……いや、不自然ということはつまり、作為的ということだ。
「誰かが毎週、餌をまいているのではないでしょうか」
エリアスとセドリックが会話を中断し、僕を見た。ノアが本棚からこちらにやって来て、口を開く。
「君が来る前にもその話をしたんだ。でも、誰が何のために餌をまいているのか、その理由がわからない。それで悩んでいたんだけど……少し、確かめたいことが出てきた」
ノアの言葉に、エリアスは期待を込めた眼差しを向ける。
「どうやら閃いたようだね。助手は必要かい?」
「いや、アオがいれば充分だよ」
「また僕ですか?」
他の予定は入っていないので構わないけれど、僕がいることに意味はあるのだろうか。首を捻る僕を、先輩たちはどこか面白がるような目で見ていた。
ノアが僕を連れて向かったのは、校舎から十分ほど歩いた先の林の中だった。空気がジメジメしていて、踏みしめた地面も水を含んでいる。靴の近くをサッとイモリが駆けていき、肌がぞわりとなった。
木々の間を少し歩くと、小川があり、その先に池があった。人工のものではなく、地中から水が湧き出ているようだ。ノアはその淵のあたりを、池を覗き込みながらゆっくり歩いている。
「何かを探しているんですか?」
「カエル」
聞き間違いかと思い聞き返すと、日本語でも同じ意味の言葉が返ってきた。言葉は通じても、突然カエル探しが始まった理由はわからない。僕が必死に考えている間も、ノアは先に進んでいる。追いかけながら、僕も一応カエルの姿を探すことにした。茂みをかき分けたり石をひっくり返してみたり、それなりに一生懸命調べたが、見つかったのはたった二匹だった。
「やっぱり少ないな……」
「ということは、この結果を予想していたんですか?」
強張った腰をさすりながら、ノアに尋ねる。屈みながら歩くのはなかなかつらい。
「猛禽類の減少とバッタやコオロギの大量発生。同時に起きたことに意味があるとしたら――」
「もしかして、食物連鎖の中間層にいるカエルが突然いなくなったから……」
ノアが頷く。なるほど、それを確かめるためにここに来たのだ。
「でも、カエルがいないことと中庭に鳥が集まっていた話は何か関係があるんですか?」
「あるかもしれないけれど、まだわからない。もう一か所、訪ねたいところがある」
ノアは僕を振り返り、含みのある笑みを見せた。
「学園の外に行こう。君には少々刺激が強い場所かもしれないけど」
四年生からは、先生の許可を得なくても外に出て良い。わかっていても、門を出るときはドキドキしてしまった。門の向こうには、ところどころ雑草の飛び出た石畳が蛇行しながらのびている。その先に、住民たちが買い物をしたりお茶を飲んだりするちょっとした店が集まる一角があった。以前も校外学習で訪れたことはあるが、その時はスケジュールが決められていた。今日は門限に間に合えば自由に出歩いて良いのだ。
通りに面したカフェでは、制服を着た生徒たちのグループが楽しそうにお喋りしていた。別のテーブルには女の子の姿もある。近くを通ると、ちらちらと視線を感じた。どうやら皆、ノアを見ているようだ。男子は興味深そうに、女子は羨望の眼差しを向け、友人たちの間で目配せし合っている。ノアの方は一瞥もすることなく、どんどん先に進んでいく。気づけばカフェどころか、店も家もない。
「どこまで行くんですか。まさかまたカエル探しじゃないですよね」
「違うよ。……ほら、見えてきた」
ノアの目線の先にあったのは、古びた小屋のような建物だった。ここからでは店なのか家なのかもわからない。足を踏み入れたことのない町はずれにはどこか寂しげな空気が漂っていて、ポツンと建つ小屋は見るからに怪しい。
近づいていくと、どうやら店らしいことがわかった。軒先に、昔ながらの箒が立てかけられている。入り口の両脇には鉢植えが並んでいるが、鮮やかな花弁の植物は少なく、どれも見慣れない形の葉をつけている。
「花屋……ではないですよね」
「一応、雑貨屋ということになっているね。この店を知る人は、『魔女の家』と呼んでいるけれど」
「魔女の家……」
確かに、この薄暗い日陰のような雰囲気ならば魔女が出てきてもおかしくない。果たして、店の奥から黒いワンピース姿の女性が顔を出した。年は僕の母と同じくらいだろうか。目がきりっとしていて綺麗な人だった。長い黒髪を一つにくくっている。
「こんにちは、メアリー。今年の収穫はいかがですか?」
メアリーと呼ばれた女性は朗らかに答えた。
「悪くなさそうよ。庭のオリーブも良い枝が育っているし」
微笑みを向けられてどぎまぎしていると、ノアが僕を紹介してくれた。
「今日から四年生なのね。進級のお祝いに、このオニオンをあげるわ。半分に切って置いておくと、悪霊や病気を吸い取ってくれるのよ」
「あ、ありがとうございます……」
勢いに圧されて受け取ったものの、どう見てもただの玉ねぎで困惑しかなかった。店の中にはよくわからないものが詰められた小瓶がずらりと並び、いかにも呪術に使いそうな鏡や水晶玉なども置かれている。なるほど、これは魔女の家だ。
「それで、今日は伺いたいことがあって来たんです。……この店に買い物に来た生徒のことで」
ヒールの高い靴を履いているメアリーの目線は、ノアとほぼ同じだった。彼と真正面から目を合わせ、彼女は言った。
「ご存知の通り、この店に来る子は何かしら事情を抱えているわ。誰が何を買ったか教えることは、知られたくない秘密を暴かれることと同じ。あなたならわかるわね?」
「もちろんです。では、一つだけ質問をします。答えられそうなら、教えてください」
メアリーが了承し、ノアは続けた。
「少し前に、蜘蛛を買いに来た生徒はいませんでしたか?」
「蜘蛛!」
思わず声を上げてしまった。僕は虫全般が苦手だが、特に蜘蛛がダメなのだ。クスリと笑みを零し、メアリーが言う。
「いたわね。二ヶ月くらい前かしら。この店にはなかったから、入荷したのは八月だったわ。他にもいくつかの植物と……フグも頼まれたかしら」
ここでおしまいと言うように、メアリーは肩をすくめた。
「ありがとうございました。それで充分です」
「喋りすぎてしまったわね。でも、私も心配なの。かなり思い詰めていたようだから」
メアリーも生徒たちを見守ってくれる大人の一人なのだ。変わっているところはあるけど、きっと優しい人だ。玉ねぎを握りしめながら、僕は思った。
「さっきの、く、蜘蛛の話ですけど。なぜそんなものが必要なんですか?」
学園までの帰り道、僕はノアに尋ねた。本当は口にするのも避けたいが、聞かなければ何もわからない。ノアはさらりと、衝撃的な事実を告げた。
「南の島に、ヴ―ドゥ―魔術というものがあってね、彼らはゾンビを生み出す『ゾンビパウダー』を作っていた。カエルも蜘蛛もフグも、その材料だよ。乾かしてすり潰して、粉にする。カエルは集められたけど、さすがに大量の蜘蛛は難しかったんだろうね」
思わず口元を押さえて立ち止まった僕は、どうにか気を取り直して言った。
「ゾンビパウダー……ふりかけるとゾンビになってしまうんですか?」
「いや、生きた人間を仮死状態にする薬だったらしいよ。その後に蘇生させると、ゾンビになって使役できるとか。レシピ通りなら毒蜘蛛とフグの入った毒薬だからね。でも、今回それを作ろうとした人物は、君と同じように考えていたかもしれない」
「最近のドラマとかゲームだとウイルス感染で人がゾンビになったりするので、似たようなものかと」
想像とは全然違った。フグ毒なんて、仮死状態どころか致命的だ。こんな風に利己的で残虐なことが正当化されているから、魔術と聞くと警戒してしまう。
「ともかく、真意を本人に聞いてみるしかないか」
「もしかして、さっきの情報だけで誰かわかったんですか?」
「うーん……引っかかることはあるけど」
ノアは考えをまとめるように目を伏せた。
「これまでの手がかりから推測できるのは、毎週決まった時間、中庭の一角に鳥が集まる“何か”をしている人物がいること。鳥はおそらく餌を求めて集まっている。一方で、カエルや蜘蛛を材料に、『ゾンビパウダー』を作ろうとしている人物がいる」
「つまり、中庭に『ゾンビパウダー』をまいている……?」
カエルも蜘蛛も、鳥にとっては食糧だ。見つけたら集まって来るだろう。
「そして『ゾンビパウダー』とあの場所を結びつけるのは――死体」
そうだ、転落事故で亡くなった生徒は、あの場所に倒れていた。
「君は、どうすべきだと思う? カエルを手当たり次第に捕まえて、乾かして、粉にする。そんな狂気を抱える相手に、何ができるだろう」
立ち止まり、学園の方を見る彼は、途方に暮れているように見えた。突然、ノアは僕とたった一つしか年が違わないのだと気づく。この数日過ごしただけでも、彼の頭の回転の速さや知識が特別だということはわかった。それでも、彼だって僕と同じ子供で、全知全能ではない。
「捜し出しましょう。きっと、本人も苦しんでいるはずです。救おうだなんて傲慢ですけど、知ろうとしなければ何も始まらない」
「……そうだね。君の言う通りだ」
ノアはふっと表情を緩めて、再び歩きだした。夕日が石畳を照らしている。僕は彼に一つ認めてもらえたような気がして、高揚と照れくささを感じながら彼を追いかけた。
そして訪れた、土曜日の夜。僕とノアは中庭近くの廊下に身を潜めていた。毎週同じ行動をしているなら、きっと今日もやって来る。土曜の深夜から日曜の朝方、人がいなくなる時間だろうと当たりをつけた。
「でも、いつまで続けるつもりなんでしょう。作った『ゾンビパウダー』を、少しずつまいているってことですよね」
魔術用の薬を作って、毎週事故現場にまく。そこにどんな意味を見出しているのだろう。
「わからないけれど、生徒たちに噂が広まって先生が気づくのも時間の問題だ。そうなったら騒ぎになるし、実際に異変は起きている」
「異変?」
「最近、鳥の死骸を見かけたと、エリアスやセディが言っていた」
「まさか、あの店で仕入れたフグの毒で?」
大きな声を上げそうになって、慌てて口を塞ぐ。しかしノアは、首を振った。
「メアリーはそんなものを売らない。自分で毒物を調達して混ぜたんだ」
どんどんエスカレートしている。もし矛先が、僕ら生徒たちにも向けられたら。今日にでも止めなければという思いが強くなった。
足音が聞こえてきたのは、十二時を回ったころだった。あまり大きな音を立てないようにするためか、そろそろと歩いている。足音は中庭の前でぴたりと止まった。少し経って、窓を開ける音がした。
「さて、そろそろ行こうか」
ノアに促され、立ち上がる。僕が緊張しているのがわかったのか、ノアは小さく笑って僕の肩を叩いた。
「少し脅しすぎたかな。大丈夫、慎重に行こう」
僕は右手の懐中電灯を確認し、足を踏み出した。再び、窓を動かす音がする。僕は音の方へゆっくりと近づき、懐中電灯の光を向けた。
「君は――カミルだね」
ノアが呼んだ名前は、聞き覚えがあった。必死に記憶を辿り、エリアスとカイの口からきいたことを思い出す。ヒューゴやカイと同じ、フットボール部の五年生だ。
カミルは寝間着姿で、ジャムの瓶のようなものを抱えて立っていた。うっすら微笑んでいる表情に、背筋が寒くなる。
「あまり驚いていないようだね。もしかして、犯人が僕だと気づいていたのかい?」
「ラウンジで見つけたネックレスをエリアスに託したと聞いて、不思議に思ったんだ。あれは同じクラブのヒューゴのものだった。一緒に着替えている君が、彼のネックレスに気づかないのはおかしい」
「やっぱりお見通しだったか。僕はヒューゴの荷物からネックレスを抜き取り、ラウンジで拾ったと寮長に嘘をついて渡したんだ。そうすればヒューゴは誰かに中庭で見たことを話す。実際、そうなっただろう?」
毎週日曜日というのも、ヒューゴの習慣に合わせたからだったのだ。
「さて、夜が明けたら日曜日だ。ヒューゴ以外にも気づき始めた奴が入るようだし、どのくらいの騒ぎになるかな」
「どうして、こんなことを?」
思わず口を挟んでいた。すべてが見破られたというのに、カミルはまったく落ち込んでいる様子がない。彼は僕のタイを見て、話にならないというように首を振った。
「君には関係がない。でも一つ言えるのは、君の先輩たちはとても薄情だということさ。同じ学園の、同じ寮で暮らす仲間が死んだのに、誰もが早く忘れようとしている。アーサーなんて、まるで初めからいなかったみたいに……!」
アーサー。それが、転落死した生徒の名前だった。僕もずっと名前を忘れていた。僕らの日々の話題に、彼の名が上がることはなかった。
「だから、騒ぎになることを望んだんだね。アーサーのことを、忘れてほしくなかったから。君が彼のことを、そこまで大切に思っていたのは知らなかったな」
ノアの声はさざ波のように穏やかで、カミルもつられるようにぽつぽつと話した。
「試合で怪我をしてしばらく運動ができなかった時、図書室でぼんやりしていた僕に、アドバイスをくれたんだ。彼が自作したパソコンゲームを通してね。試合をしていると、いつもそのゲームを思い出す。思い出すたびに、アーサーに会いたくて、苦しくなる。こんなものを作っても何も起こらないだろうけど、もしかしたら奇跡的に、アーサーのひとかけらでも蘇らないかなと思ってさ」
カミルは中庭の方に目をやり、自嘲した。願っても叶わないことを、知っている。知っていても、願わずにはいられない。彼のしたことには賛成できないけれど、その想いだけは共感できた。
「もう一度、一目でいいから会いたい。会って、伝えたかったんだ。……ありがとうって」
掠れた声に、カミルのやりきれなさが滲んでいた。僕の胸も、締め付けられるように痛んだ。
「みんな、忘れているわけじゃないと思うよ。ただ、向き合い方がわからなくて、忘れたふりをしてやり過ごしているだけなんだ。俺も、エリアスも」
「うん……そうなんだろうね。君と話して、少しわかった気がするよ」
頷いたカミルはどこかスッキリした顔で、ノアに向き直った。
「僕は処罰されたってかまわない。それで大ごとになれば、アーサーの事件が外まで知られて、もう一度調べられるかもしれない。君だって、おかしいと思うだろう。あのアーサーが、誤って屋上から落ちるなんて。それとも君は――」
「知らないよ、何も」
カミルの言葉を遮り、ノアはきっぱりと言った。しかしカミルは引き下がらなかった。
「それなら、君が真実を暴くべきだ。君にはその能力も、意味もある。先生たちには無理でも、君ならできる」
「……買い被りすぎだよ」
ノアは小さく笑って、首を振った。僕を振り返って言う。
「さて、もう遅い時間だし帰ろうか」
カミルと別れて、僕とノアは寮に戻った。僕の頭の中では、カミルがノアに訴えたことがぐるぐると回っていた。それから、彼自身が語った噂についても。
「そろそろ、向き合うべきなのかもしれないな」
呟いた彼の真意を問う勇気は、まだなかった。
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