第17話 日脚と旗標5

 校舎の窓から見上げた空が暮れ始めている。凛太郎と颯は、本校舎の一番上の階に当たる3年生の教室のベランダにいた。急いで野球部の部室へ向かい、借りてきた垂れ幕をベランダの手すりにきつく結ぶ。それから、ゆっくりと広げるようにして幕を下げた。

 ベランダからは、広場で待っている亜紗が見えた。垂れ幕と一緒に持ってきたシャベルの見張り番を頼んだので、垂れ幕が下げられるのをそこで見守っている。

「よし、できたよ」と、颯が声をかける。「行こう」と短く返し、凛太郎はベランダから教室の中へ戻り廊下へ出た。

 そして、広場に向かうため、急いで校舎を降りた。颯もその背中を追いかける。

「なあ、凛太郎! ちゃんと説明してよ」

「口で言うより、見た方が早い」

 振り返りながら言って、その後は広場まで駆け抜けた。

 広場へ出ると、凛太郎は銅像を回り込み、校舎とは反対側を目指す。ある程度この位置だろうという場所まで来て、それから校舎側を見上げた。

 本校舎に、大きな垂れ幕が掛かっている。それから、凛太郎は少しずつ後ろに下がりながら、その場所を探した。垂れ幕に書かれた『文慶魂!』と、銅像の輪が同じ位置になるところを。

凛太郎の後に続きながら、颯と亜紗も静かに見守っている。

 あと、もう少し。はやる気持ちを抑えて、凛太郎はゆっくりと移動する。

そして、見つけた。野球と地図を繋ぐ場所――銅像が持つ丸い輪と垂れ幕の『文』という文字が重なる場所を。

「ここだ……」

 凛太郎がはっきりと告げる。

 すると、颯もすぐ隣に立ち、同じものを見ながら気づいたようだ。

「……そうか、地図記号……」

『〇』 と『文』が組み合わさり、それは学校の地図記号になっていた。

 亜紗もそれを見ようと、傍に立って首を伸ばす。凛太郎が場所を譲るように少し後ずさると、踵にコツンと硬いものが当たった。振り返れば、伐採された桜の木の切り株がある。

「きっと、ここだな」と、颯が言う。

 ちゃんと、ここにあるのだろうか。ただの思い過ごしかもしれない。それでも、やけに速い鼓動が、ここだと告げているようだった。

「ここに、賭けてみてもいい?」

「ああ、きっとあるはずだ。やってみよう」

 凛太郎が尋ねてみると、背中を押すように颯が頷く。

「わたしも手伝う」

 亜紗も名乗り出て、シャベルを握った。

 凛太郎と颯もシャベルを手に、3人で桜の木の下を掘り始める。

空が暗くなり一番星が輝き始めた頃、亜紗のシャベルにカツンと何かが当たる音がした。

昨夜の凛太郎と同じように、「あっ」という短い声をきっかけに、その場に全員で集まって掘り進める。やがて、土の中からアルミの缶のようなものが見えてきた。さらに掘り起こし、土を避けてそれを取り出す。劣化してすっかり色褪せていたが、お菓子の缶のだとわかった。

「本当に、あった……」

 缶を手に、亜紗が目を上げる。信じられないという想いで顔を見合わせていた3人だったが、やがて見つけた実感がこみ上げ、それぞれに顔を綻ばせた。

 20年前にひとりの生徒が込めた想いは、確かにそこに眠っていたのだ。



第5章


使ったシャベルを倉庫に片づけ、垂れ幕を野球部に返しに行く途中だった。

「手紙の中身、気にならないの?」

 颯に尋ねられ、凛太郎は首を振る。

「気になるけど、ああいうのは本人だけが見るものだと思うから」

見つけた手紙は、今亜紗が持っている。そろそろ自宅に着いて、圭介の手に渡るはずだ。20年間待っていた手紙なのだから、すぐにでも見たいだろうと、片付けは任せて先に帰るように勧めたのだった。

「まあ、それもそうだけど……俺はやっぱり気になるなぁ」

 颯が小さく唸る。凛太郎はその素直さに笑う。

「叔父さんも亜紗には話すだろうし、こっそり教えてもらえば?」

「いや、亜紗から話してくれたら聞くけど、自分からは聞かない」

 颯が決意するように言う。

 日が沈んだからか、学校内のひと通りも少ない。少しの沈黙の後で、颯が口を開いた。

「亜紗、明日にはもう東京に戻るんだよな」

 その口ぶりには、隠そうとしていても寂しさが滲んでいる。

「うん、ご両親のお墓参りに行ってから帰るみたいだよ」

 颯には、今の声がどんなふうに聞こえたのだろう。

「帰る前に、もう少しだけ一緒にいようと思ったけど……家族の時間、邪魔したらダメだよな」

 自分に言い聞かせるように、颯が呟く。

「そうだね。見送りだけでもしたいけど……」

「そうだな。俺は小4のとき、見送りできなかったし。今度はちゃんと、挨拶したい。後で連絡してみようか」

それから、落ち込んでいても仕方ないと鼓舞するように、明るい声で言った。

「よし、凛太郎、キャッチボールでもする?」

「いや、俺がどれだけ運動音痴か知ってるでしょ」

「練習すれば、うまくなるって。俺が教えるから」

 颯が前のめりに説得する。まずい、このままだと、「キャッチボールが可哀そうだろ」と言い出しかねない。そうなってからでは、逃げることは難しい。

「あー、そういえば、参考書を部室に置きっぱなしにしてるんだった」

 我ながらわざとらしいと思いながら、凛太郎は言った。けれど、参考書がないと困るのは本当だ。ずっと放っておいた課題をそろそろ進めないといけない。

「それなら、取りに行ってこいよ。垂れ幕は、俺が返しておくから」

 あまりに素直に颯が応じるので、少し面食らう。

「……キャッチボールから逃げるために言っただけなんだけど」

「そんなのわかってるって。でも、参考書を取りにいきたいのは本当なんだろ?」

「そうだけど、どうしてわかるんだよ?」

「凛太郎が嘘ついているか、ついてないかくらい、わかるよ。じゃあ、校門で待ち合わせな」

 そう言って、颯は垂れ幕を抱え直すと、野球場の方へと走り去った。



 部室棟の窓には、まだ明かりが点いている部屋も多かった。

凛太郎は誰もいない部室の鍵を開ける。当たり前のように、部屋の中は真っ暗だ。壁際に手を伸ばして、電気をつける。部室に出入りするのは、顧問の倉間を除いて凛太郎だけだ。電気を点けるのも消すのも、大抵自分ですることになるから、いつからかスイッチの場所を探らなくても、その位置に正確に触れられるようになっていた。

 参考書を鞄に入れ、ついでに窓に張ったままの地図も片付けていくことにした。

この地図を紙に起こしたのが、ほんの数日前。それなのに、すごく懐かしく感じられた。探していた物は見つかったし、届くべき人に届いた。それでいいはずなのに、もう終わったしまったのだなと思った。

野球部を休んでいる間は、颯がよく足を運んでくれていたし、今日も亜紗が一緒にいてくれたけど、明日からこの部室を訪ねてくる人はいなくなる。そう思うと、なんだか無性に寂しくなった。

 窓から剝がした地図を畳まないで眺めていると、部室の扉がカチャリと開く音がした。

「おう、まだ残ってるのか?」

 扉から顔を覗かせたのは、倉間だった。

「参考書を取りに寄っただけなので、すぐ帰ります……」

 倉間は、凛太郎の手にある地図に目を向ける。それから顔だけでなく部室の中に入り、扉を閉めた。

「俺が圭介や為成と幼馴染っていうのはもう聞いたよな」

 凛太郎が頷くと、倉間はそのまま続ける。

「昨日はいろいろ説教しちまったけど、深見と辻浦には感謝している。為成のこと、見つけてくれてありがとうな」

「いえ……」と、凛太郎は口ごもるように答えた。

 いつもはふざけてばかりの倉間が真剣な顔で言うので、凛太郎の方がなんだか照れくさくなる。

「さっき、手紙の方も見つかったって、圭介から連絡がきた。本当に深見は、すごいよな。20年かかったけれど、為成の伝えたかったことが、あいつに届いてよかったと思ってる」

 倉間は、優しい顔つきでそう話した。

けれど、その口ぶりは、まるで手紙は圭介だけに宛てられたものだと信じているように聞こえた。それが気になって、思わず凛太郎は尋ねる。

「……先生は、手紙を読まないんですか?」

「俺は、読まないよ。あれは、圭介に書かれたものだろうから」

 予想通り、倉間はそう答えた。

 凛太郎は、倉間と自分を重ねてみる。それから昼間、野球場の傍で颯を見つめていた亜紗の横顔を思い出す。もしかしたら、倉間も同じように、彼女の横顔を眺めていたのかもしれない。それだけで、彼女の気持ちを決めてしまっているのだとしたら、それはすごく惜しいことのように思えた。

「そんなことないと思います。あの手紙は、倉間先生にも向けて書かれたもののはずです。亜紗の叔父さんと倉間先生のふたりりに」

 思えば、そう気づけたのも亜紗が教えてくれたからだ。亜紗の言葉を借りて、凛太郎から倉間に伝える。

「手紙が埋められていたの、野球と地図に関係がある場所でしたから」

「野球と地図に……?」

 全て説明をしなくても、それで伝わるものがあったようだ。倉間は静かにその事実を飲み込んだ。

「そうか……為成は、ちゃんと圭介と俺の両方を見てくれていたんだろうな」

 それから、倉間は過去を見つめるような目をしながら話し始めた。

「……俺も手紙が埋まってる場所を探そうとしたことがあるんだ。でも、ずっと後悔してたことがあって、それと向き合うことから逃げたくて、結局大して探しもせず、この年まできてしまった。でも、今手紙を読まなければ、またこの先の後悔が増えるだけだな……圭介に連絡してみることにするよ」

 凛太郎は、ただ小さく頷き返す。

 それから、倉間はいつもの調子に戻って、明るい声で続けた。

「お前は、後悔のない夏を送れよ。夏にした後悔は、後に引くぞ」

 後悔に季節が関係あるなんて、聞いたことがない。そこに理屈はないけれど、倉間の言いたいことがわからないでもない気がしていた。

夏は、不思議な力を持っている。そういう季節にする後悔は、もしかしたら強く心に残ってしまうのかもしれない。

「先生が言ってる、後悔のない夏ってどんなのですか?」

「それは、お前が考えることだろ」

 教えてやるもんかという態度で、倉間が返す。こういうところが子供っぽくて、倉間が教師だということをたまに忘れそうになる。

「じゃあ、これだけ教えてください。先生は何を後悔していたんですか?」

 これもどうせ教えてくれないだろうなと思いつつ、凛太郎は聞いてみる。けれど、倉間は真面目に考えてから、ゆっくりと言葉にした。

「そうだな……今出来ると思ったことをしなかったことだ。大事なのは、思ったかどうかだ。

あのときこうしていればって人はよく考えるけど、そもそも人が出来ることなんて、たかが知れてる。その時にこれは出来ないと判断しことは、どうやったって出来ないものだよ。だから、それを後で悔やんでも仕方ない。でも、そのときに出来るはずだと思ったことを、やらずに済ませたら、ずっと後悔するだろうな」

 思いのほか真剣に答えてくれたことに少し面食らいながら、前に倉間が言ったことと繋げて考えてみる。

「その時に出来るはずのこと……それって、部室にこもってないで外に出る、とかですか?」

「ん? ああ、そういえば俺がそう言ったんだったな」

 すっかり忘れていたような倉間の反応に、凛太郎はため息をつきそうになる。掲示板の暗号を解いたときに、課題とかこつけて、神社に行ってこいと背中を押したのは他でもない倉間だ。夏がちゃんと夏か、それが問題だ、とも言っていた。

「そんなことも言ったが、俺は別に深見に学生らしいことをして欲しいとか、若者らしく外で遊べとか思ってるわけじゃない。部室にこもって、ひとりで地図を眺めることが、深見にとって一番いいなら、それでもいいさ」

 もしかしたら、思っている以上に倉間は自分のことを見てくれているのかもしれないと、凛太郎は感じた。ここまで正面から話されてしまうと、本心で返すしかない。

 それにこの夏で思い知ったこともある。結局は、ひとりでいることを望んでないし、誰かと同じものを楽しめる人が羨ましいと思っている自分を知った。

「……いえ、俺も誰かが一緒に地図の話をしてくれるなら、そっちの方が楽しいです。ただ、地図に興味を持ってる同世代が少ないだけで……」

 そうやって、何度も諦めてきただけだ。

「そうだな、俺も同じようなことで悩んでたからわかるよ。まあ、話し相手くらいなら、俺にだってできる。年が離れている友達でも、深見がいいって言うならな」

「はい……ぜひ」

 短い返事でも、倉間は満足そうに微笑んだ。

「そうだ、校長も今度、深見と地図の話がしたいって言ってたぞ?」

「え、校長が? どうしてですか?」

 凛太郎は驚きを隠そうともせず、尋ねた。

「校長も無類の地図好きだからだよ。地図部が存続できるてるのだって、校長の計らいだ」「そうなんですか? ……全然、知らなかったです」

 颯と地図を眺めていたとき、やたらと積極的に話しかけてきた理由が、今になってようやくわかった。探りを入れるためかもしれないと疑っていたが、あれもただ地図の話をしたいがためだったということか。部員がひとりしかいないのに、部室まであてがわれているのは不思議だったし、てっきり元地図部の倉間の根回しだとばかり思っていた。けれど、どうやら意外なところに味方はいたらしい。

「今まで、どうして教えてくれなかったんですか?」

「一応、部活の成立には、部員は5人以上ってルールがあるからな。自分の一存で、地図部だけ免除しているって知れたら、校長の顔が立たない。だから、内緒な」

 倉間は悪戯を企む少年のように笑いながら、人差し指を口元に当てる。

「そういうわけで校長のことは言わずにきたんだが。やっぱり、深見と話してみたいらしくてな。気が向いたら、今度3人でお茶でもしよう。校長室で」

「校長室で……」

 凛太郎は、校長と顧問とただの生徒である自分が地図を語らっている姿を想像してみる。

「それは、なんだか少し気まずいですね……でも、すごく面白そうです」

「ああ、校長も喜ぶだろうよ。今度、話を通しておく」

 そう言って倉間は腕時計に目を落とし、扉へと向かった。

「じゃあ、戸締りだけちゃんとしてから帰れよ」

 「はい」と凛太郎が返事をすると、扉がパタンと閉まり、再び部室にひとりきりになる。けれど、さっきまでの寂しさは消えてしまったいた。

 凛太郎は、さっきの倉間との会話をしばらく反芻した。こんな大人になりたいと思う瞬間がある度に、成長しきれていない自分にも少しだけ期待したくなる。今がそうであるように、思い描いた自分になれていないことに、がっかりするかもしれない。それでも、せめてなりたい姿は持ち続けたいと思った。

 これからゆっくり探していこう。そう心に留めながら、夏の匂いが残る部室を後にした。

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