第19話 氷魔

「さすが豪商と名高いエーベルバッハ殿。ネットワークの重要性を的確に見抜いておられる。だがその後の発言は頂けない。それは我らが王への明確な反逆行為だ」


 男が身に纏うのは王国の軍服。しかも階級章を見るに将軍の地位にあるらしい。そんな身分の者がわざわざ足を運ぶ。想定を越える速度で最悪の事態が起こりつつある事を感じ取り、エーベルバッハの背筋に寒気が走る。


「貴様、どうやってここまで入ってきた」

「あぁ、見張り達の事か?彼らならここまで快く通してくれたよ。彼女が私を重要な来賓だと紹介してくれたから」


 碧眼の将軍の影から一人の女性が現れた。黒髪を後ろに束ね眼鏡をかけたその女はエーベルバッハも良く知る人物だった。


「なっ、ダリア貴様」


 地味で寡黙ながらも有能なこの女性を商会に引き入れて一年半。エーベルバッハは彼女を陰に陽にと重宝してきた。狼狽するエーベルバッハを見て将軍は意地の悪い笑みを漏らす。


「彼女は私の右腕なんだ。そろそろ返してもらおうと思ってね」


 彼女の裏切りでエーベルバッハにはもはや退路は無くなった。

 商会も財産もこの国で維持する事はもう難しいだろう。だがここで捕まってたまるものか。エーベルバッハは瞬時に逃亡の覚悟を決めた。


「こいつらを殺せ!」


 秘書は将軍に襲いかかった。俊敏な獣を思わせるその動きから繰り出されるのは常に必殺の一撃。武道ではない。どうすれば最短で確実に命を絶てるか、それのみを追求した者の技術だ。


 だが闇の達人である秘書すらもエーベルバッハは囮程度にしか考えていない。この国の軍属、特に将軍にまで登りつめる者は例外なく特別なのだ。


 秘書の猛攻で時間を稼ぎつつ自身はこの場から離脱する。エーベルバッハは執務机の下に用意していた隠し通路の蓋を開き、暗い穴の中へと身を滑り込ませる。


 それは屋敷を建てた際に父が念の為にと作らせた通路だったが、こんな老いぼれになってから使う羽目になろうとは夢にも思わなかった。


 二階分の梯子を降りれば暗い地下通路が続いている。出口は屋敷の外に所有している蔵だったはずだ。


 ぱしゃり。


 足を下ろした地下通路には薄く水が張っていた。年月を経てどこからか雨水でも漏れたのか。いずれにせよ不快ではあるが障害になるような浸水ではない。エーベルバッハは懐から取り出した携帯用の魔石ランプに光を灯し足早に地下通路を進んでいく。


 出口までそう遠くは無いはずだが焦りと暗闇が心から余裕を奪っていった。ランプの弱々しい光では距離の把握もおぼつかない。加えてこの寒さはなんだ。ひんやりとした空気は地下だからだと思っていたが、先ほどから進むほどに気温が下がっていくようだった。吐息がもはや白い。


「......待て。冷気、まさか奴は」


 エーベルバッハが気付いた時には何もかもが手遅れだった。

 次の瞬間地下通路には真冬を思わせる耳を切るような寒風が吹き抜け、足下の水面は一気に凍結していた。


 革靴を氷で縫いつけられたエーベルバッハの背後から、ぱきっぱきっと氷を践み割る足音がゆっくりと迫る。


 しゃがみ込み、靴を脱いで逃げようとするが、寒さによる手のかじかみと氷結して肌を切るような靴紐を解くことは出来なかった。


 ぱきり。

 直ぐ後ろで足音が止まった。


「話の途中で殺せとは随分じゃないか。私はこれでも平和主義者なんだが」

「お前の口から平和なんて言葉が出るとは思わなんだよ。なあ、”氷魔”アルゴス・ライネ!」


 アルゴスは余裕の態度で碧い目を細めておかしそうに笑う。


「おかしいな、あなたにはまだ名乗っていないはずだけど」


 エーベルバッハはせめてもの反抗としてアルゴスを睨み付けた。

 アルゴス・ライネはその容姿も相まって王国軍の顔、広告塔のような男である。特殊部隊の将軍であるにも関わらず派手な知名度を誇るこの男には、表の顔からは想像も付かない裏の顔があった。


 十年以上前、当時王都コンバラリアの裏社会に君臨した悪帝エドガーが自身の寝室で氷漬けとなって絶命した。


 貴族から脅しとった堅牢な屋敷。そして裏社会の腕利きを側近に置いていたにもかかわらずの犯行だった。悪帝だけではなく屋敷の住人は皆静かに凍え死んでおり、翌朝の正午近くに馴染みの取引先が屋敷を尋ねて来るまで事態が発覚する事はなかった。


 この事件を皮切りとして、王都では裏の人間の凍死が頻発。悪人達は文字通り震え上がり、王都から逃げ出すものも多く居た。かくして一時期悪党達は密やかに掃討され、その噂は市井の人々が耳にするまでになった。


「悪いことすると氷魔が来るよ」


 今では親が子供を戒める際に使われるおとぎ話となった。だが当時を生き延びた裏社会の人間達は覚えている。氷の悪魔の実在を。


 当時のエーベルバッハは真っ当な商人だった為、氷魔に目を付けられる事はなかった。ただ父親の代から親交のある裏の人間達から噂だけは聞いていたのだ。


 エーベルバッハは余裕の表情を崩さないアルゴスを睨みつけながら言う。


「裏社会で轟く氷魔の異名を、今や人気者のお前と結びつける奴はそう多くはないだろう。だが儂は知っているぞ。氷魔は当時子供だった奴の仕業だ。儂にそのことを教えてくれた奴も次の日には氷漬けになったがな。子供の氷使い、それも人を凍死させる程の魔力となればほとんどおらん。将軍殿はどんな子供時代を過ごしたんだ?随分と後暗い過去を持ってるようだなぁ?」


 逃げられないエーベルバッハは情報で優位に立とうとまくし立てる。アルゴスの表情は変わらない。その微笑は氷のように冷たいままだ。


「もう言い残す事はないかい?エーベルバッハ、お前を王国への反逆罪で処刑する」

「待てっ、儂を殺せば必ず後悔するぞ、良いか、かならっ」


 足下から這い上がる冷気がエーベルバッハの皮膚を、骨を、魂を氷漬けにした。後に残るのは静寂。アルゴスはもう答える事のない氷像へと語りかける。


「後暗い過去なんて、私には何ひとつ無いさ。昔も今もこれからも、私の力はカルミア王国の為に振るわれる。こんな風にね」


 横薙ぎに振るわれたアルゴスの裏拳がエーベルバッハを砕き割る。

 飛び散った破片が氷上を滑り、やがて静止した。

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