置いてかないでアンハッピー
風を切って走る。
領域の外で、この格好をして振る舞うのは初めてだ。新鮮な反面、この感触を楽しんでいる余裕はない。
「来る!」
化物がこちらを向いた。どんな攻撃が来るだろうかと、全方位に注意を向ける。
祈るポーズの上半身は、動かず何もしてこない。
蜘蛛のような下半身も、鋭い足を地面に突き立てるだけ。奏揮を認識したにも関わらず、化物は何もしてこない。
「……そんなこと、あるのでしょうか?」
今まで沢山の化物を見てきた。
ある化物は噛み付いてきた。ある化物は逃げ隠れた。またある化物は、頑丈な殻に籠ったりした。
共通しているのは、必ずアクションを返すということ。
少なくとも、こちらを凝視して動かないパターンは見たことがない。
「考えられるのは、二つ」
新たなパターンか、反撃を狙っているか。
正解は後者だった。
「はっ!」
地面に違和感を覚え、咄嗟に右へ直角に曲がる。一瞬遅れて、下から灰色の鋭い槍が突き出た。
奏揮がそのまま進んでいれば、貫かれていたであろう位置。
「考えていることは、何となく分か……?」
虫の知らせと言うのだろうか。その場に留まっているのが気持ち悪く感じた。
地面を蹴った、その一秒後。
「うわっ!」
三本の槍が、奏揮の立っていた場所から顔を出す。巻き込まれたコンクリート片が粉々に四散した。
「相手は本気ですね」
正面から飛び出す槍をスレスレで避ける。頬を掠り、血が出る。
それを意に介さず、奏揮は化物との距離を詰めた。
最近、死ぬのが怖いと感じるようになった。
苺と出会ってからだ。もう少し生きていたいという願望と、自分はどんなふうに生きれるだろうという疑問が強くなった。
そして、そんな人生を誰かと過ごすのも、悪くないと思うようになった。
だからもう、両手のソレは要らなかった。
「くっ」
正面から腹へ、避けきれない槍を手錠の鎖でブロックする。
咄嗟の判断とはいえ、硬度には自信があった。
死相からの攻撃を耐えるような自分、それを縛るための手錠なのだ。攻撃を受け止めるくらい可能だろう、と。
しかし、ガキィ、バキャ、と。
「おっ、と……」
鎖が千切れ、両手が解放される。
いきなり腕の可動域が広がり、困惑で足が止まった。そこを狙って三本の槍が奏揮を襲う。
もう、迷わない。
「はっ!」
屈んでそれを回避し、正面へ腕を水平に振る。パキン、という破裂音と共に、奏揮を狙った槍が切れた。
「僕にこれを使わせたら、勝負はすぐですよ」
綺麗な断面から見える十八の年輪を尻目に、奏揮はさらに前進した。
彼の手に握られていたのは、一本の剣。その見た目は、大きく湾曲したカトラスに近い。
全体を俯瞰して見ると、小文字の『f』のような形をしている。
長らく使わないようにしていた剣。遠い昔ちょっとトラブルがあって、使用を躊躇っていたもの。
それを今、握り直す。
手錠が外れてから、彼はさらに速くなった。
元からの身軽さに加え、正面からの槍は切り進む。一直線に近づき、ついに化物の正面まで辿り着く。
「そこっ!」
奏揮は右手で握った剣を大きく左へ構える。そして、化物の胴体へ一撃……は、加えない。
代わりに狙うのは、琥珀色の接続部。
(まだ、聞こえる)
戦闘はしつつ、奏揮はずっと耳を傾けていた。
ポケットで鳴り続ける音。
琥珀色から聞こえる音。
どちらも着信音で、奏揮と苺の携帯から鳴るべき音。
メスで人肌を裂くように、表面をスッパリと切る。
琥珀色の表面は膜だったようで、中から橙色がドロリと溢れた。全身にそれを浴びるが、奏揮の身体に異常はない。
それより彼が気になったのは、琥珀色の内部。
「……見つけました」
そこには一人の少女が、虚ろな目で埋まっていた。肘から先、それから下半身が、化物の下半身らしき肉壁と融合している。
近くには携帯が落ちていて、ずっと着信を拾っていた。
「苺さん」
「…………」
「探しましたよ」
膜が壊れたことでバランスを崩したのだろう。怪物の上半身が前へ倒れ、ぐしゃりと辺りが暗くなる。
そんな外を気にせず、奏揮は苺へ向かった。
「……いきたくない」
「それでも良いです」
壁に手を添え、苺の胸に耳を当てた。
鼓動が聞こえる。良かった、苺はまだ生きている。
「……こわい」
「怖い?」
「ひとりが、こわい」
ズズズと低い音を立て、苺の周囲から槍が伸びてくる。
先ほどまでのそれとは違い、ゆっくりと、奏揮を包み込むように。
「それなら僕がいます」
「……かえりたい」
「苺さんが帰りたいところに、僕も行きます」
苺の頭を撫で、そっと抱き寄せる。苺は固定されているため、奏揮から近寄る形になった。
そんな奏揮を、周りから槍が覆う。
彼女の瞳から、つうと涙が落ちた。
「いきたくないのに」
ひどく震えた、小さな声で。
「……しにたく、ないな」
「そうですね。死にたくはないです」
微笑む彼を最後に、槍が二人を覆った。
同時に、元は琥珀色だった部分を槍が埋める。化物の身体が補強され、上半身が起き上がる。
体制を立て直した化物は活動を再開して、辺りの建物を破壊し始める。
こうして、二人の人生は閉じた。
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