黒い猫は見逃さない、カタストロフィが空へ舞う様を

 私の唇が奪われる、ほんの一瞬前。

 柑橘系の香水が鼻をくすぐった。


 記憶のどこかに引っ掛かる匂い。


 その匂いで、私の心は黒く沈んだ。


「嫌っ!」

「ごふっ!?」

 口と口の距離が数ミリまで迫ったところで、私は紅守の股間を膝で蹴り上げた。

 紅守の頭は、私の少し上へと墜落する。

「ば、ま、苺ちゃ……なんで」

「ごっ、ごめん、けど、嫌」

 どう見ても被害者な紅守。それを目の前にしても、私の鼻からあの匂いが消えることはなかった。


 忘れるわけがない、あの香水の匂い。

 私がこの香水を嫌いになったのは何故か。嫌いな奴がつけてる香水だからだ。

 じゃあ、なぜ嫌いな奴の匂いが、紅守からしたのか。普段の紅守からは少しも感じないのに。


 その理由を考えたくなかった。

「帰るね、私」

 未だに股間を抑え続ける紅守の横で、私は立ち上がった。

「ま、待って苺ちゃん、まだ」

「ごめん、また、来る」

 ただただ拒絶して、私は玄関から逃げるように外へ出た。

 暗い空に星が瞬いている。十一時くらいだろうか。顔に当たる風が、ひどく冷たく感じた。



 足取りがおぼつかない。視界がぼやける。

 頭が回らなくて、自分がどこにいるのか分からない。駅の場所が分からない。

 足が絡まって転ぶ。頬に冷たいコンクリートの感触。

「うぅ、う」

 何が悪かったんだろう。

 紅守は、裏でアイツを選んでいたのだろうか。いつの間に。いや、それより大事なことがある。

 私に黙って。多分、私よりアイツのほうが良いって思ったから。

 魔法少女の私が好きって、あの言葉は何だったの。

 一緒にカラオケや映画に行った、あの時間は何だったの。

 私がアイツを認めた、あれは何だったの。

「ひっぐ、うぅ」

 立ち上がろうとするが、身体に力が入らない。

 私はずっと努力してきた。勉強も恋もそれ以外も、色んなことを。

 でも、どれだけ努力しても届かない人間がいる。好きな人もそっちを見る。私が好きになった人は、頑張った私を評価しない。

 着飾っても駄目。

 手を引っ張っても駄目。

 本心を話しても駄目。


 じゃあ、私って、何。

 何のために頑張ってきたの。

 何のためにここにいるの。

 何のために生きて


「うるさい、なぁっ」

 ポケットから、エメラルド色の紐リボンを髪に着ける。光が私を包み、魔法少女がそこに現れる。

 身体に力が巡る。立ち上がって再び夜を駆ける。


 電車より速く。

 風より軽やかに。

 何も考えたくなくて、ただ怖くて、私は走り続けた。

 走って、走って、走り終えた先に__。


「奏揮……」

 着いたのは、あの一室。

 自分の家でもなく、学校でもなく、奏揮と鉢合わせする可能性のある場所。

「いないの?」

 わざわざ彼を探す。その理由は自分でも分からない。


 謝りたい訳じゃない。愚痴りたい訳でもない。

 ただ無性に、彼の姿を見たい。

「なんで居ないのよ、バカっ……」

 会おうと思えば会えたはずの彼。

 明日になれば会える。頭では分かっている。だけど、今すぐ会えないこの状況に、何故かとても腹が立った。

「やだな、嫌だなぁ……はは」

 玄関に鍵をかけて、クラクラする頭のままベッドに突っ込む。柔らかい感触に包まれると、途端に眠気が沸き上がる。

「嫌だなぁ、私って、本当に……」

 頑張っても報われない世界が嫌だ。

 私を愛してくれない人が嫌だ。

 そんな風に考える、私が嫌だ。


「私って、何のために生きてるんだろ」

 私を愛してくれるひとを、頑張って幸せにしたいから。

 頭に浮かんだ願望を最後に、私の意識は深淵へと落ちた。



 一方その頃。

「……チッ、きいてねー……」

 自室で一人、赤髪の男が酒に口をつけていた。

 不機嫌そうに頭をかきむしる。空になったグラスへ酒を入れようとした、その時。

 ピンポーン、と家のチャイムが鳴った。

「……戻ってきたか?」

 小さな希望を抱き、男が扉を開ける。結論から言えば、現実は男の思惑通りに進まなかった。

 が、結果オーライとも言えた。


「こんばんわ~! 今日も空いてる?」

 そこでは一人の女子高生が、長髪を揺らし立っていた。安心したような期待はずれのような、複雑な笑みを紅守は浮かべる。

 彼女から漂う柑橘系の香水が、今の彼を強く惹き付けていた。

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