グッバイ、それなりの人生
朝のニュースが、走馬灯のように頭を巡った。
『ここ一週間で、奇妙な通報が多数届けられています』
『肌が溶けた化物が、人を襲ったという内容です』
言われれば思い出す。あぁ、そんなニュースあったな、程度の記憶。
『昨日午後、警察がその存在を確認しました』
『ネットでは"戦争に使われる生物兵器"という声がありますが、各国は否定しており__』
冗談半分に聞いていた。
まるで遠い国の出来事だと、自分には縁のない話だと思っていた。
そのニュースと、縁ができた。
とても不愉快な縁だった。
『グオオォォオアアァァァ!』
咄嗟に耳を塞いだ。それでも身体に響く唸り声が、私を震え上がらせる。
何なの、アレ。全長三メートルくらいで、顔が灰色の狼で、黒いローブで全身を覆ってて、隙間からは黒いベトベトが垂れてて、白い煙を纏っていて……。
「走って!」
三メートルはある化け物と私の間に、先ほど吹っ飛んできた男が立ち塞がる。
「さ、咲榴! 一緒に、って居ないし!」
咲榴はすでに、私よりずっと遠いところにいた。自分だけが逃げ遅れていることに気付き、私も後を追う。
「待って咲榴! 置いてかないで!」
悲鳴にも似た情けない声が、私の口から溢れた。
男に背を任せ、化け物から逃げること十数分。
「はぁ、はぁ……。咲榴、待って……」
一向に咲榴の背中が見えず、私は焦っていた。
実を言うと、私はそんなに運動が好きではない。なんとか努力して、人並みにはできる程度だ。
それに比べて咲榴は、百メートル走は早いし、シャトルランも好成績だし、おまけにボール投げの記録も良くて……。
要するに、運動神経がとても良い。なので咲榴に置いてかれるのは、当然と言えば当然である。
(……なんで私、こんな時にアイツと自分を比べてるんだろう)
そう思って、自分のことが少しだけ嫌いになった。
化け物の咆哮は、一向に離れることがなかった。
『グオオォオオォアァァァ!』
「あの人、ちゃんとあのドロドロ止めてるの!?」
「悪かったですね、止めれなくて」
真後ろから、まるで返事するように声がした。驚いて、走りながら振り返る。
「あ、アンタ、なんでいるの!? なんで、ドロドロは止まってないのよ!」
「自分では火力が足りなくて」
そこにいたのは予想通り、私たちを逃がそうとした男だった。
「倒せない、ってこと?」
「手は尽くしてるんですけどね」
「……後ろ向きに、走ってるように、しか見えないんだけど」
ずっと走り続けているので、過呼吸でうまく声が出ない。
「僕は指示して、周りが動きますから」
「周り?」
その言葉を聞いて、気付いた。
男の周りに浮かんでいる『p』の字を模した物体。それから化け物に向かって、光が射出されているのが見えた。
「レーザーです。当たった対象を焼き切ります」
「ぜんぜん、効いてなくない?」
「相性が悪いんです。さっき脚を一本落としたのですが、止まる気配がなくて」
「落とした!? なのに、こんな速く走ってきてるの?」
「脚が数本しかないって保証もないので」
「あのドロドロ、下半身はムカデだって言うの!?」
男の話はどれも非現実的だった。それでも化け物を目視した今、信じざるを得ない。
ローブに隠れた、奥に長い胴体。そこからは確かに、二対とは思えないほど沢山の足音がする。
「とにかく、今はこの空間から脱出する方法を……。あっ、避けて!」
「へっ__」
いきなり男から言われ、私は咄嗟に反応できなかった。
ドンッ、ガラガラ、と軽い音が鳴った。
私の片足だけが進むのをやめて、勢い余った上半身が前へ移動する。
「あ痛っ!」
端的に言えば、転んだ。目の前で倒れていたゴミ箱に気付かず、つまずいた。
『ガアアァァルルルルグオオォ!』
「しまっ__」
そして、化け物はその一瞬を見逃さなかった。私めがけて口を開き、ゴミ箱ごと掬い上げる。
「きゃっ!」
上に引っ張られる感覚がした。
お腹がチクチクして痛い。下へ視線を移すと、化け物の牙が私の腹に食い込んでいた。
「そんな、嘘、私、咥えられて」
状況を理解した時には、もう遅かった。
「……は」
がちんと音がした。それと同時に、私は落下する。
胸から地面に激突する。ドチャ、と音がした。
痛いけれど、ひとまず解放されたことに安堵した。
(逃げなきゃ)
そう思って立ち上がろうとする、だが足が動かない。
怪我を確認するために、足を触ろうとする。手は虚空を切った。
「はっ……はぁっ……」
嫌な汗が流れた。私は、自分がどうなっているのか、下半身へ目を向けた。
下半身は無かった。
「あ、あぁ」
二、三メートル離れたところに、私の膝下らしきものが転がっているのが見えた。
そして私の上半身は、脇腹から下が無かった。
私の真横では、化け物が、ずっと何かを咀嚼していて、
「あああああああぁぁぁぁぁ!」
私は、叫んだ。
「ああぁぁ、いや、嫌あぁぁ!」
自分でも理由が分からなかったけれど、叫んだ。
「死にたくない、やだ、やだよぅ、やだあああぁ!」
叫んだところで助かるわけじゃないけど、それでも叫んだ。
叫んだ。
叫んだら、喉の奥から何かが込み上げてきた。
「ヒッグ、うぐ、おぇ」
自分の口から、赤色が出ていた。それを見て、初めて自分が血を吐いていることを知った。
私はいつの間にか、男に抱え上げられていた。男は、私よりずっと早く路地裏を駆けた。
それなのに、化け物との距離は縮まらない。
「じにたく、ない、よぉ」
「ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
男の手は震えていた。
「僕のせいだ、僕が油断したから、倒せなかったから、逃がせなかったから」
うわ言のようにつぶやく彼の涙が、私の額へ零れた。
それすら温かく感じて、私は、私の限界を悟った。
私は、何を間違えたんだろう。
路地裏に入ったこと?
あの化け物に出会ったこと?
咲榴に置いてかれたこと?
前を見ずに走り続けたこと?
ゴミ箱に足を引っかけたこと?
それとも。
誰かの望み一つ、叶えられなかったこと?
まだ沢山、未練があるのに。
まだ、それなりの人生しか送ってないのに。これからなのに。
「おがあ、ざん……わた、じ……」
そう言い残して、私、は
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