第28話 失恋、そして兄妹へ
母さんから突然きたメッセージ。まさかこんなすぐに訪れるとは思わなかった二人きりの夜が再来した。
今日の映画デートの上書きで終わったと思っていた兄妹としての休日。それは意図しない形で延長戦へともつれ込んだ。
一体、どうなってしまうのか。そんな少しの不安と先の読めない展開に鼓動を速くしていたのだが、案外普通に終わりを迎えることになりそうだった。
家に帰宅してからは特に書き記すようなこともなく、綾乃とアニメなども観て過ごした。そして、夕食を食べ終えた俺は、現在風呂に入っていた。
家で二人きりになっても特に何も起こらない。それは兄妹としては当たり前の結果だった。
浴槽に浸かりながら、俺は最近の綾乃との日常について振り返っていた。
「……多分、今日で全部上書きは完了だよな?」
綾乃と仮の恋人として過ごした記憶を上書きするために、ブラコンシスコン兄妹としてデートをした場所を巡ったり、同じようなシチュエーションを体験したりして、その記憶を上書きした。
そして、それは今日の映画鑑賞で全て終えたことになる。
もっと時間がかかるかと思っていたが、案外上書きはすぐに完了してしまった。それだけ、仮の恋人として過ごした期間が短かったのかもしれない。
「これで、いつも通りの生活に戻るのか。……戻れるのか?」
仮の恋人としての関係が終わったということは実感できた。しかし、それが実感できたところで、綾乃を意識してしまっているのは変わらなかった。
綾乃が視界に入れば異性として意識してしまうし、綾乃を好きだという気持ちは未だに変わらない。
以前のようにシスコンっぽい言動を取れてはいるのだが、それは俺がシスコンっぽく演じているからだと思う。
綾乃のことが大事なのは今も変わらない。それでも、今の心情が以前のような、ただのブラコンシスコンの関係と同じだとは思えなかった。
「前みたいな関係ねぇ」
綾乃を異性だと意識していなかった当時の心情。それと今が大きくかけ離れているのに、当時を演じるだけで関係が修復したと本当に言えるのだろうか。
いや、そもそも昔の関係に戻すということは可能なのだろうか。
「お兄ちゃん?」
「え、あ、綾乃?」
俺が考えてもどうしようもないようなことを考えていると、脱衣所から綾乃の声が聞こえてきた。
脱衣所越しに話しかけられるという記憶は新しくて、綾乃と一緒に風呂に入った記憶がすぐに蘇ってきた。
そして、そのときの濡れたバスタオル越しの綾乃の姿も。
「ど、ど、どうした?」
俺は抑えられない動揺をそのまま言葉にしていた。
もしかしたら、綾乃はお風呂に入る記憶も上書きしようとしているんじゃないか。
そう思うと、どうしたらよいのか分からなくなり、言葉がどもってしまっていた、
急接近されたことによる緊張感のせいか、鼓動が激しくなってきた。うるさいくらい大きくなった心臓の音をそのままに、俺は綾乃の言葉を静かに待った。
「お母さんがプリンとコーヒーゼリー買っておいてくれたんだけど、お兄ちゃんどっちがいい?」
「え? あ、ああ。えーと、じゃあ、コーヒーゼリーで」
「分かった。私プリンの方もらっちゃうねー」
綾乃は特に何も気にしていないような口調でそんな言葉を残すと、脱衣所を後にした。
後に残ったのはシャワーヘッドから落ちてきた雫の音だけ。俺はしばらくその音の余韻に浸った後、深くため息を漏らした。
「……この歳の兄妹が、一緒に風呂なんて入るわけないだろ」
誰に言い聞かせるわけでもなく、俺はそんな独り言を漏らしていた。
何を期待したのか分からない心臓の音は、いつまで経っても鳴りやまない。
未だ綾乃のことを異性として意識している。それを体で無理やり再確認してしまったようで、俺はやり場のない感情を大きなため息として吐き出した。
「それじゃあ、俺寝るわ」
「んっ、じゃあ、私も」
淡い桃色のパジャマ姿に着替えてリビングでくつろいでいた綾乃は、俺が寝ることを告げると俺の後ろをついてきた。
同じタイミングで寝ることは珍しいことではない。それだというのに、俺はついこの前、綾乃と一緒に寝たときの記憶を思い出してしまっていた。
以前も同じような感じで二階に上がって、自室の扉を閉めて少し経ったら、綾乃に部屋をノックされたのだった。
そして、一晩一緒に寝ることになったのだった。
我ながら中々大胆なことをしたものである。
もしかしたら、綾乃が仮の恋人としてしての記憶を上書きするために、一緒に寝ると言い出すかもしれない。
いや、お風呂も一緒に入ると言い出さなかったし、それはないか。
そんなふうに少し鼓動を速くさせながら、俺は階段を上がって自室に入った。そして、扉を閉めようと振り返った先にーー綾乃がいた。
「え? 綾乃?」
さすがに、部屋には来ないだろうと思っていた。それに、来たとしても少し経ってからだと思っていたので、このタイミングで目の前に綾乃がいるとは思わなかった。
「えっと、どうしたんだ?」
思いもよらなかった展開に少し動揺しながらも、俺は極力それを悟られない様に冷静を装った。
大丈夫だ。声も裏返っていないし、顔だって赤くなっていないはず。
それだというのに、目の前の綾乃の頬は緊張と羞恥の感情のせいか、赤く染まっていた。
しばらくの間、影を潜めていた女の子らしい表情。少し不安げに揺れる瞳を向けられて、胸の奥の方が跳ねたのを感じた。
「あのさ、多分、今日が記憶の上書きの最後の日なのかなって思ったから」
「お、おう。そうだな。俺もそのつもりだった」
「そうだよね。だからさ、最後はしっかりと、気持ちだけでも伝えておきたいなって」
綾乃は申し訳なさそうに脚をもじりとさせた後、こちらに上目遣い気味で視線を向けてきた。
俺たちはあえて自分の気持ちを言葉にはしなかった。
それがいけないことだということを知っていたから、言葉に出さず互いの胸の奥にしまったのだ。
ただ、そのせいで微かに燻ぶったような感情が、残ってしまっていたのかもしれない。
未だに綾乃のことを意識してしまっているのは、気持ちをずっと胸の中にしまっているからなのかもしれない。
それなら気持ちだけでも伝えて通じ合って、この関係を終わらすという方が健全なのかもしれない。
そう思った俺は、綾乃に言葉の続きを促すように、ただ短く言葉を返した。
「……そうか。そうだな」
俺たちは気持ちを伝え合わないと、この関係を終わらすことができないのかもしれない。
そう思うと、何か変に意地を張っていたような気持ちが緩んで、諦めと脱力によって口元が緩んでしまった。
少しだけ倫理観から外れてしまう。それでも、綾乃の気持ちを聞きたいと心の底から思ってしまった。
綾乃は俺の返答を受けて俺と同じような笑みを浮かべた後、頬の温度を上げて口を開いた。
「私、お兄ちゃんが好き。お兄ちゃんとしても、一人の男の人としても好き。多分、これから先も、ずっと好き」
熱を帯びた瞳は微かに潤んでいて、その瞳に全ての感情が乗せられているような気がした。
見つめられて鼓動がどんどんと速く大きくなっていく。けれど、今だけはその瞳から視線を逸らしてはいけないと思った。
例え、今この瞬間が兄妹としてのタブーを犯していても、倫理観から外れた行為だとしても、真剣な綾乃の瞳から目は逸らせなかった。
そして、俺だけその気持ちを黙っていることもできなかった。
「俺も好きだよ。妹としても、一人の女のことしても」
綾乃が本当の気持ちを告白したのなら、俺だってずっと抱えていた想いを告げなければならない。
それが誠意であって、知っていて欲しいとも思ったから。
「でも、俺たちは兄妹だ。兄として、妹の未来を不幸にはしたくない。……やっぱり、俺はお兄ちゃんとして、綾乃には幸せになってもらいたいんだよ」
俺の言葉は後半にいくにつれて、揺れてしまっていた。
思った以上に気持ちが溢れてしまって、どうしようもない感情が溢れてきてしまったからだと思う。
綾乃の気持ちに気づいて、自分の気持ちを知って、その気持ちを成就させたいという考えだって生まれた。その先を考えなかったと言えば嘘になる。
でも、それは妹を不幸にする選択で、その選択を許せない兄としての俺の気持ちが勝った。
「ごめんな、綾乃。俺はやっぱり、どうしようもないシスコンみたいなんだ」
妹の笑顔が見たいし、ずっと幸せであって欲しい。その気持ちは俺の恋愛感情よりも大きくて、ずっと昔からある気持ちで、何度も堕ちてしまおうかと思う気持ちを否定した。
男として情けないかもしれないけれど、俺は自分の気持ち以上に綾乃の、妹の幸せを優先してしまうシスコンだったらしい。
「ううん。どうしようもなくなんてないよ。お兄ちゃんは、私の大好きなお兄ちゃんだから」
無理やり作った笑顔は、悲しい表情をしているのに笑っていた。そんな綾乃のちぐはぐな表情を見て、その言葉を受けて、俺は目頭が熱くなってしまった。
綾乃が泣いていないというのに、ここでお兄ちゃんの俺だけが泣くわけにいかない。
そう思って、俺は涙が湧き出てこない様に必死に堪えた。
「……ありがとうな」
「こちらこそだよ、お兄ちゃん。私の気持ちを聞いてくれて、お兄ちゃんの気持ちを教えてくれて、ありがとう」
じんわりと涙が瞳を濡らしていくのが分かった。
今ここで顔を上げたらそれがバレてしまう。そう思った俺は、俯いて顔を隠していた。
俺の返答を聞いて、綾乃は少しの間何も言わずに俺の前に立っていた。
顔を伏せてしまった俺に見えるのは綾乃の足元だけだった。その足元が少しもじりと動いて少し経つと、綾乃は言葉を続けた。
「えっと、一つだけ確認してもいいかな? お兄ちゃんは私が妹だから、お付き合いとかはできないってことだよね?」
少し毛色が変わった綾乃の声。微かに緊張しているような声に対して、俺は顔も上げられずに返答をした。
「……ああ。そうなるな」
「うん。そういうことなら、わかった」
俺の返答を聞いた綾乃の声は、微かに明るさを取り戻しているように思えた。いや、そんなはずはないか。
失恋をした女の子が明るくなるはずがない。きっと、無理をして明るく振る舞ってくれているのだろう。
多分、顔を上げたら綾乃の顔は色んな感情でぐちゃぐちゃになっていることだろう。涙だって流しているかもしれない。
そう思うと、俺はこのまま顔を上げるべきではないと思った。
強がっている女の子の顔を見るのは失礼な気がして、俺は自分の感情も隠すためにそのまま顔を伏せていた。
「じゃあ、おやすみ。お兄ちゃん」
「……おやすみ。綾乃」
綾乃の足が廊下の方に向かって歩き出した。それからしばらくして、綾乃の部屋のドアが開かれる音がして、そのドアを閉めた音が静かな廊下に響いていた。
俺は力なく自室の扉を閉めて、そのままその扉に背中を預けて腰を下ろした。
脱力したようにうな垂れていると、頬に何かが伝ってきた。
確認するまでもない。ずっと堪えていたのに急に力を抜いたから溢れてきただけだ。
その日、俺は初めて失恋をして涙を流した。
そして、この瞬間、妹との仮の恋人関係が正式に終わりを迎えたのだった。
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