第19話 どっちの本能が勝つのか

 綾乃に後ろから抱きついた状態でしばらくアニメを観ていたのだが、互いにアニメに集中できなくなってきたのだ、中断して早めにお昼を取ることにした。


 少しの気まずさを感じつつも、徐々に甘い空気がほぐれていったようだった。


 お昼ご飯を食べた後に、何気なしにテレビを観ていると、芸能人の親子特集というテレビ番組が放送されていた。


 仲の良い親子もいれば、悪い親子もいて、一人の娘が父親の匂いが臭いとか言ってスタジオを沸かせていた。


「……そういえば、遺伝子が近い人の匂いって、本能的に嫌うらしいな」


「え、そうなの?」


 食後にソファーでくつろいでいると、俺の隣にぼすんと座ってきた綾乃が意外そうな反応をしていた。


 ピタリとくっつきそうな距離はいつも通りの距離間なのだが、さっきの件があったせいで余計にその距離を意識してしまっていた。


 俺はその意識から目を背けるために、昔テレビで聞いた話を思い出しながら言葉を続けた。


「近い遺伝子だけで子供を作ると、何か病気が広まったときに一気に滅ぶから、できるだけ自分で違う遺伝子を好むとか、好まないとか」


「へー。でも、別に周りで『お父さんの匂い嫌い!』っていう子、そんなに多くない気がするけど」


「え? そうなの?」


 勝手なイメージで娘というものは、父親の匂いを毛嫌うものなのかと思っていた。そういえば、綾乃も特に父さんの匂いを嫌っているようには見えないな。


 それに、昔は義母の兄妹間での普通に結婚はあったって聞いたことあるし、実際はそんなことないのだろうか?


「それに、私お兄ちゃんの匂い……嫌いじゃないし」


「え? 俺って匂いするのか? 無臭だと思ってたんだが」


「いや、無臭の人間なんていないでしょ」


 綾乃は俺が本気で驚いている様子を見て、目を細めてそんな言葉を口にしていた。どうやら、自覚してなかっただけで俺は匂いを発しているらしい。


「まじか。え、もしかして臭かったりする?」


 今まで匂いなんて気にしたことがなかったので、急に不安になって来た。


 一シスコンとして、妹に嫌われたくないという思いが抜けずにあるのだろう。心の底から心配したような声が漏れ出ていた。


 綾乃は一瞬答えるのを渋ったようだったが、俺があまりにも真剣に聞いたせいか、頬を微かに朱色に染めながら言葉を続けた。


「だから、別に嫌な臭いじゃないって。嫌な臭いだったら、べたべたしたりしてないから」


「そ、そうか。そうだよな、なんか安心したわ」


 確かに、俺たちはずっとブラコンシスコンとして側にいた。さすがに、今までそんな距離にいたのに、『実は臭いと思ってました!』とはならんか。


 俺はテレビで臭いと言われている芸能人の父親に対して、少しのどや顔を浮かべながら安堵のため息を吐いていた。


「……お兄ちゃんの考えでいくと、私達は本来なら嫌い合う匂いを発しているってことだよね」


「まぁ、そうなるな」


 仮に遺伝的な話が正しいならそういうことになるだろう。


 綾乃の匂いを嗅いで女の子を意識して、鼓動を速めてしまう俺には当てはまらなそうな話ではあるが。


「じゃあさ、試してみる?」


「試すって、何をだ?」


 話の先が見えなかったのでそんな返事をすると、綾乃は何やらソファーの上で膝立ちになった。


 そして、綾乃は羞恥の感情で頬を赤く染めたと思ったら、視線をこちらから逸らして、俺の上に跨ってきた。


「よいしょっと。上ごめんね」


「え、あ、綾乃? え?」


 突然、綾乃は俺の脚を跨いで、俺の目の前で腰を下ろした。


 俺の太ももの上にショートパンツ越しの綾乃のお尻が乗せられて、その柔らかさと距離の近さに俺は驚くあまり言葉が出てこなかった。


 対面に座った綾乃は俺との距離の近さに後から気づいたのか、俺とぱちりと目が合うと恥ずかしそうに目を逸らしてしながら言葉を続けた。


「そのっ、一時間くらい匂い嗅ぎ合えば、もしかしたら、異性として意識しなくなるかもしれないでしょ?」


「い、いや、あくまで科学的な考えであって、それが正しいとも言えないだろ」


「科学的なら問題ないでしょ」


「いや、さっき映画観ているときにすでに結構――」


「結構、なに?」


「……なんでもない」


 さっき映画を観ているときに十分に匂いを嗅いでしまっていた。


 そして、その匂いのせいで余計に綾乃のことを意識してしまっていることは分かっていたので、こんなことは確かめる意味がない。


 しかし、それを口にできるはずがなかった。


 アニメを観ているときに、ずっと妹の匂いを嗅いでいたなんて言ったら、そんなのはただの変態兄貴の所業だ。


 不可抗力で許させるこうどうではないだろう。


 綾乃は俺がそれ以上言葉を続けないでいると、それを了承の合図と勘違いしたらしく、ポケットからスマホを取り出して言葉を続けた。


「それじゃあ、今から一時間ね」


 綾乃はスマホを操作して、タイマーをセットした画面をこちらに見せると、そのスマホをソファーに投げた。


 そして、前方に体重を傾けて俺の肩に手を置くと、頬を熱くさせたまま俺の瞳をじっと見つめてきた。


 挑発するようでありながら、今の状況を楽しんでいるかのような高揚感でその瞳は熱を帯びていた。


「どうなっちゃうか、楽しみだね。お兄ちゃん」


 含みのありそうな笑みを浮かべた後、綾乃は俺の頭に顔を近づけて、深呼吸を始めた。


 聞こえてくる綾乃の息遣いに合わせるように、俺は近づいてきた綾乃の首元の匂いを嗅ぐような形になってしまった。


 呼吸をしないで一時間を過ごすことなどできるはずがなく、俺は勢いに押される形で綾乃の首元で呼吸をすることになったのだった。


 親のいないリビングのソファーで、妹の首筋の匂いを嗅いでいる。たまに動く綾乃のお尻の感触が太ももに伝わり、肩に置かれた手がきゅっと時々強く掴んでくる。


「……っん、あっ」


 俺の呼吸に合わせるように漏れ出てくる小さな声。その声は湿り気を帯びていて、我慢をしようと堪える声が妙にいやらしい。


「あっ、はぁっ……」


 向かい合って匂いを嗅ぎ合う中で、肺の中にある空気の全てが綾乃の匂いがする空気と入れ替わったんじゃないか、そう本気で思ってしまうぐらい長い時間だった。


 その長い間、ずっと心臓の音がうるさかった。深呼吸をしても落ち着くことなく、むしろ速くなる鼓動の音。


 綾乃の声と香りと感触が、俺が必死に蓋をしようとしている感情を悪戯に開けようとしてくる。


 踏みとどまることだけを考えて、俺はある意味拷問のような時間を耐えることになったのだった。


「はぁっ、はぁ……一時間終わった」


 やがて、綾乃のスマホのタイマーの音が聞こえて、強くつぶっていた瞳を開けると、綾乃が俺の上に乗ったまま少し距離を離していた。


 どうやら、何事もなく一時間が経過したらしい。速まった鼓動と大きくなった心音を無視すれば、何もなかったと言っても過言ではないだろう。


 綾乃が後ろに体重を乗せたことで、お尻の感触が強く太ももに押し付けられて、俺は思わず声を漏らしそうになる声を押さえながら口を開いた。


「綾乃……おまえ、わざと変な声出してなかったか?


 一時間も匂いを嗅ぎ続けるという羞恥プレイを受けたので、俺は非難をするように綾乃の方を睨みつけた。


 しかし、こちらに向けられたのは、長時間辱めを受けた被害者のような目だった。


 潤いと熱を帯びた瞳を揺らして、なぜか綾乃側がこちらを非難するように睨んでいた。


「お、お兄ちゃんがずっと首筋に、鼻息吹きかけてくるからでしょっ」


「えっ」


 綾乃は俺が匂いを嗅いでいた首元をきゅっと押さえながら、余裕のなくなった顔をこちらに向けていた。


 しかし、俺がしばらくポカンとしていると、こちらに向けられていた視線は徐々に弱まっていった。


「え? 無意識だったの?」


「いや、ごめん。そんなことになってるとは思わなかった」


「あんなに、いやらしく息を吹きかけてきたのに?」


「い、いやらしく?! いや、全くその気はなかった。すまん」


 どうやら、途中から綾乃の声が怪しくなってきたのは、俺の息遣いが原因だったらしい。


 そう言われれば、呼吸をしたときの吐いた息の行方など全く考えていなかった。


 そう思うと、長時間綾乃の首筋に息をかけていたということが申し訳なくなってきた。


「お兄ちゃんって妹の匂い嗅いで、無意識で鼻息荒くしちゃうんだ」


 綾乃は俺の返答を聞いてしばらく考え込んだあと、そんな言葉を漏らした。


 俺が弁解をしようと顔を上げると、こちらに下目遣いを向けていた綾乃は、頬の熱をそのままに妖艶な笑みを浮かべていた。


「……お兄ちゃんのえっち」


 手玉にでも取られてしまいそうな表情を向けられて、俺は何も言うことができなかった。


 ただの妹としてしか見ていなかったときには、見ることのなかった表情。その表情を前に、胸の奥の方が跳ねた気がした。


 熱っぽい瞳で見つめられて、その温度で体が熱くなっていく。誤魔化せるはずがないその心音を聞いて、俺は徐々に綾乃に向けている感情の正体に気づきつつあった。


 結局、匂いを嗅ぎ合っても、互いにを嫌いになるようなことはなかった。


 遺伝子的にどうであっても、何事にも特例はあるのだろう。


 そう説明づけないと、この速まった鼓動について説明をすることができなそうだった。

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