第17話 両親の前でのいちゃつき

「あれ? 母さんがいる?」


「本当だ。靴あるね」


 家に帰宅すると、そこには見慣れた靴が置かれていた。


 普段は朝早く家を出て帰りが遅い。だから、家に帰ってきても休日以外はほとんど会わないのだが、今日は珍しく玄関に母さんの靴が置いてあった。


 親が突然帰ってきただけ。それだというのに、心なしか気持ちが落ち着かなくなっていた。


 先程玄関を開けるまで綾乃と手を繋いでいたからだろうか。俺たちの関係はバレていないはずなのに、不思議と怒られるんじゃないかという考えが湧いてきた。


 少しの緊張感を抱きながらリビングの扉を開けて中に入ると、そこには珍しく平日の夕方だというのに母さんの姿があった。


「あ、おかえり。今帰りだったの」


「ただいま。母さんこそ珍しいけど、何かあったの?」


「おばあちゃんが体調壊してって言うから、午後休み取ったの。支度したら、おばあちゃんの家に行ってくるから」


「え、それって大丈夫なの?」


 母さんが会社を休んで駆け付けるほどとなると相当のことだろう。おばあちゃんだって、結構高齢なはずだし、そんな悠長には構えていられない。


「大丈夫、大丈夫。ちょっとした風邪だから。この機会に色々おばあちゃんの家のこともしておこうと思って、休み取っただけ」


「あっ、そういうことね」


「それで、どうする? おばあちゃんの家一緒に来る?」


 そういえば、最近おばあちゃんの家に行っていないような気がする。そこまで具合が悪くないなら、少しくらい顔を出してもいいかもしれない。


 綾乃はどうするのかと思って視線を向けると、綾乃はただじっと俺を見つめていた。


 最近、平日も休みの日も綾乃とどこかに行くことが多い。それも全部、自分達の抱いている感情が恋愛感情なのかを確かめるため。


 このタイミングで母さんがいないということは、一気にそれを確かめるチャンスかもしれない。


 逆に、おばあちゃんの家に行ってしまったら、休みの期間はそれを確かめることもできないだろうし、おばあちゃんにどんな顔をすればいいのかも分からない。


『実は最近互いを異性だと意識しておりまして』なんて言えるはずがないしな。


 そうなると、堪えは自然と出てきた。


「いや、俺はいいや。母さんが風邪うつされたときに、看病できる要員が必要だろうし」


「じゃあ、私もお母さんにから風邪をうつされたお兄ちゃんを看病するために、家に残ることにする」


 綾乃はいつのブラコンの調子で、俺の返答に乗る形でそんな言葉を口にした。


 綾乃は母さんの前では普段のブラコンのフリをしなければならないわけだし、元々選択権はなかったのかもしれないな。


 それでも、どうしたいかの意思は伝えたかったのだろう。


 綾乃の視線からそれを感じ取った気がしたのだが、それは勝手な思い込みかもしれない。


「うつされないとは思うけど、さすがに孫に風邪をうつしたくないだろうしね。そうね、今回は行かない方がいいかもね」


 母さんはおどける綾乃の調子に笑みを浮かべながら、さらに言葉を続けた。


「それじゃあ、お父さんも会社終わったら直でおばあちゃんの家向かうらしいから、休日の間家を空けることになるけど、よろしくね」


「「え?」」


 思いもしかった返答に、思わず俺たちは驚くくらい素の声が漏れ出てしまった。


 俺たちは兄妹は兄妹でも、互いを異性だと意識してしまっている。そして、仮の状態とはいってもお付き合いをしているという状況。


 そんな不安定な状況だというのに、同じ屋根の下で丸一日二人きりで過ごさなければならなくなった。

 

 それも予期しないタイミングでいきなり。


「なに、何かマズいことでもあるの?」


「い、いやっ」


 俺たちがそんな反応をするとは思っていなかったのだろう。母さんは微かに訝しげな物でも見るかのように瞳の色を変えた。


「……とっ、父さん、土日休み貰えるんだなって」


 なんとか誤魔化そうと思って、俺はそんな言葉を漏らした。


 母さんは俺の返答に目を丸くしていたが、すぐに噴き出すような失笑をして言葉を続けた。


「うちのお父さんは、本来土日休みの会社員よ」


「え、でも、いないことの方が多いよ?」


「……サービス残業よ」


「「あっ」」


 何か触れてはならない所に触れてしまったみたいだった。


 俺と綾乃がハモるように声を漏らすと、母さんは少しだけ遠くの方を見た後に、小さく咳ばらいを一つした。


「とにかく、そういうわけだから、戸締りはしっかりしてね。ご飯代とかはリビングに置いていくけど、足りなかったらまたあとで教えて」


「……了解」


 どうやら、一瞬こちらを疑った視線は、父さんがブラック企業勤めだったおかげで有耶無耶になったらしい。


まさか、こんなところでブラック企業勤めが役立つとは。


 妹との関係がバレない様に、父さんを理由に使うという中々親不孝なことをしていると思いながら疑いの目を逸らした俺は、鞄を置くために二階にある自室に上がっていった。


「お兄ちゃん」


 自室に入ってすぐ、軽いノックがされたので返事をすると、そこにはすでに鞄を自室に置いてきた制服姿の綾乃がいた。


 頬が微かに朱色に染まっており、何かを言い出したそうな顔をしている。


「ん? どうした?」


「えっと、お母さんいるし、一緒にいないと変かなって」


「ああ、そういうことか。それなら、いちおうリビングに行っとくか」


 俺たちは俺たち以外の前ではただのブラコンシスコン兄妹なのだ。その俺たちが、別々の部屋にいることはおかしいと思われる。


 これから家を空けようという母さんに、変な心配をされないためにも一緒にいる所を見せた方がいいだろう。


 そう思って綾乃と共に自室を出ようと思ったのだが、綾乃が扉の前に立って動こうとしなかった。


「綾乃?」


 綾乃はしばらく顔を伏せていたが、やがて意を決したように顔を上げた。先程まで微かに赤かった頬に、さらに多くの熱を帯びている。


「おばあちゃんの家に行かないって言ったのって、どうして?」


「理由ならさっき言っただろ?」


 先程、風邪がうつらない要員が必要だからと説明したはずだった。しかし、その説明をする前に向けられた綾乃からの視線を受けて、俺が何を感じていたかは口にしなかった。


 というか、母さんがいる状況で口にできるはずがなかった。


 口にしなくてもある程度伝わっているだろうと思っていたのだが、綾乃はそれを言葉で聞きたいのか、こちらに向けた目を逸らそうとはしなかった。


「……綾乃との問題を解決してない状態で、おばあちゃんの家に向かうのはどうかと思ってな」


 今の状態で血の繋がりのある人に会いに行くのは少し抵抗がある。確かにそう返事をしたはずなのに、綾乃はまだ納得いっていない様子で、俺の瞳の奥を見つめてきた。


「本当にそれだけ? わ、私と一日中一緒にいたかったって、ことは考えなかったの? まったく?」


 俺が全くその考えをしなかったのか。そうと問われれば、否定はできない。


 それでも、その言葉に頷けるほど、まだ自分の感情が整理できていなかった。


「い、いや、別にそう言う訳じゃーー」


 俺が綾乃の言葉に首を振ろうとしたとき、突然部屋の扉が叩かれた。


「は、はいっ?!」


 突然ノックされて驚いたせいか、俺の声は微かに裏返っているようだった。いや、確実に裏返っていただろう。


「それじゃあ、お母さんもう行くから、後よろしくね」


 しかし、ドア越しということもあってか、母さんは俺の声の違いには気づかなかったらしい。


 下手に気づかれたら面倒だったかもしれないから、気づかれないでよかった。


そう思って安堵のため息を漏らしたとき、目の前にいた綾乃が俺の手をきゅっと握ってきた。


 以前、映画を観た帰りに握ったときと同じ恋人繋ぎ。両手の指を絡めると、綾乃はその絡めた指を俺の胸元に優しく置いた。


 ドアを挟んで母さんがいるという状況で、綾乃は体をぐっと近づけて俺を上目遣いで見つめてきた。


 扉を開けられれば終わってしまう。社会的にも倫理的にも。


そんな緊張感と背徳感が俺の鼓動を大きくして、脈拍数を跳ね上げていた。


「兄妹仲良く外食してきてもいいからね、日曜日の夜には帰ってくるから」


「わ、わかった」


 絡められた指がきゅうと少し強くなった。近くなった綾乃から仄かに甘い香りがしてきて、いたずらに俺の鼻腔をくすぐる。


 熱くなった体は互いの手のひらを通じて熱を伝え合って、じんわりと互いの頬を朱色に染めていった。


「それじゃあ、戸締りはしっかりよろしくね」


「い、いってらっしゃい」


 微かに弱くなった俺の言葉は無事に扉越しにいる母さんに届いたようで、母さんは俺の言葉に返事を残して、その場を後にした。


 大きくなり過ぎた心臓の音がうるさくて、廊下から階段を下っていく母さんの足音が聞きづらい。


 玄関の扉を閉める音がするまでその大きな音は鳴り続けていた。母さんが家から出ていったのを確信して、安堵のため息を吐いた時には、繋いだ手は互いの汗でぐっしょりと濡れていた。


 絡めっている細くて長い指、湿っている手のひら越しに伝わる確かな温かさ。そして、上がった体温によって熱しられた瞳。


「……ドキドキしたね、お兄ちゃん」


 緊張感と背徳感と羞恥の感情と言葉にできない感情の数々。それらが渦巻いて、綾乃は耳の先まで真っ赤にさせていた。


 そんな余裕がないはずの状況で浮かべていた綾乃の笑顔は、どこか大人びていて妖艶な雰囲気が漂っているような気がした。


 そして、今の状態にも綾乃の笑顔にも、心を惹かれそうになっている俺の心情はとても不健康な物だということは分かった。


 徐々に倫理観から外れていく。そんな状況に対して、俺は生唾を呑み込んでいた。

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