第15話 兄妹らしからぬ距離間

「映画面白かったね」


「そうだな。想像以上だった」


 映画を観終えた俺たちは映画の下の階にあったフードコートで昼食を済ませた後、そのままフードコート内にあったアイスを食べて時間を過ごしていた。


 対面に座る綾乃はどうやら映画、ご飯共に満足しているらしく、期間限定のアイスを美味しそうに食べていた。


「……まだ手に綾乃の手の感触が残っているんだが」


「そ、そんな直球で言わないでよ」


 綾乃は映画館でのことを思い出したのか、満足げに緩んでいた顔を微かに赤くして視線を逸らした。


 映画館で隣同士の席だった俺たちは、二人の真ん中にあったひじ掛けを二人で使った。


綾乃は何を思ったのか、映画を観ている最中も手を繋いでいようと提案をしてきたのだ。


当然、初めは断ったのだが、カップル割りで観ている以上、怪しまれてはいけないとか言いだしてきた。


世のカップルはみんなやってると力説されてしまい、謎の勢いに押される形で、俺と綾乃は手を握ったまま2時間近く映画を観たのだった。


 結果として、なんかずっと手を握っていたせいで、手を放してご飯を食べているときも綾乃の手の感触が残り続けていた。


 どうやら、綾乃も俺と同じ感覚なのか、先程まで俺と手を握っていた方の手をじっと見つめていた。


 ……なんというか、そんなに見られるとこそばゆいな。


 俺は上がった体温を下げようと、目の前にある定番アイスをスプーンで掬って口に放り込んでいた。


「やっぱり、定番の味もいいよね」


「ん? まぁ、俺は基本的にこれしか食べないからな」


 俺達が食べているのは、三十数種類アイスがあるというチェーン店のものだった。


綾乃は毎回違う物を食べるのに対して、俺は毎回メロン味のシンプルな物しか食べなかった。


なんか中に色んなものが入っているカラフルなアイスもあるらしいが、それを自分で注文をしたことはなかった。


 まぁ、食べたことがないわけではない。そうというのもーー


「お兄ちゃん、少し交換しない?」


「まぁ、そう言うと思ったよ」


 途中まで食べ勧めたくらいのタイミングで、綾乃が毎回こういう提案をしてくるからだ。


 まぁ、俺としても一度で複数の味を楽しめるのは嬉しいので、特に断る理由もない。


「じゃあ、拓馬くん。はいっ」


「おう。……あれ?」


 アイスのカップを交換する気満々で手を伸ばすと、アイスのカップが逃げていった。


そして、代わりに目の前に突き出されたのは、一口分のアイスが乗ったスプーン。


「あーん、して?」


「え、こんな所でするのか?」


 フードコートという公衆の面前。自分達が見られているなんて思うのはおこがましいと思うかもしれないが。見られるかどうかだけが問題という訳ではない。


 こんな人前で二人だけの空気を醸し出すという行動自体が、恥ずかしいのだ。


 せめて自分のスプーンを使わせてくれとも思ったが、こちらに伸ばされたスプーンを放置し続けるというのもどうなのだろう。


「ほらっ、はやく」


 別に、綾乃との間接キスくらいしたことはある。それなら、今は間接キスの件は忘れて、この女の子に食べさせてもらっているという光景を対処すべきだ。


 おそらく、差し出されたこれを無視することできないだろう。


 ……ええい、ままよ。


 俺は必要以上の決意をして、綾乃が向けてきたスプーンを口に含んだ。当然、アイスを歯で食べることなどできるわけがなく、唇をスプーンに沿わせる形でアイスを口に運んだ。


「どう結構おいしいでしょ?」


「……甘いな」


「そりゃあ、アイスなんだから甘いよ」


 俺が必要以上に気にし過ぎているのだろうか?


 そう思って綾乃の顔を確認してみると、綾乃は羞恥の感情を無理やり押さえ込んでいるのか、表情を少し硬くしていた。


 綾乃は明らかに無理をしている赤い頬をそのままに、俺が使ったスプーンを見て口元をきゅっと閉じていた。


 ……兄が見るべき表情ではないな。


 俺以上に照れてしまっている綾乃から目を逸らして、一向に冷めない体の熱を冷やそうと、俺は目の前に置いてあるアイスをスプーンで大きめに掬い取った。


 しかし、俺がそれを口に運ぶより早く、アイスのカップを押さえている方の手をちょんちょんと突かれて、俺はぱっと顔を上げた。


 そこには先程よりも顔に熱を溜め込めた綾乃の姿があった。そして、綾乃は閉じていた口をそっと開いて言葉を続けた。


「おにっ、拓馬くん。私にも、ちょうだい」


 綾乃はそう言うと、髪を耳にかけるよう仕草を取った後、俺の方を向いて小さく口を開けた。


「あーん」


 小さい桜色の唇が開かれて、口の奥には柔らかそうな舌がちらっと見えた。俺が掬ったアイスをその口の中に入れるのを躊躇っていると、綾乃は急かすように微かに眉をひそめていた。


 ただアイスを妹に食べさせるだけ。それだけの行動なのに、その綾乃の表情があまり大衆に見せて良いものではない気がして、俺は慌てたようにスプーンをぐっと綾乃の口の中に押し込んだ。


「むぐっ。そんな強く入れないでもいいのに。……うん、おいしいね」


「そいつはよかったよ」


 綾乃の口から取り出したスプーンをじっと見ていると、羞恥の感情を押さえきれなくなった綾乃の顔が、ぽんと音を立てるようにして赤くなった。


 自分がそこまで恥ずかしがるくせに、なんでそこまでして食べさせ合いをしたかったんだよ。


 綾乃の恥ずかしがる感情が伝染したように、俺の体の奥の方がじんわりと熱くなっていった。


 互いにアイスを食べる速度が落ちて、口数が少なくなったのは気のせいではないと思う。その証拠に、隅の方にあったアイスは溶けていた。


 互いを異性として意識している。それが想像以上にはっきりと明確にはなったみたいだった。


 それから少しだけ気まずくなったのだが、綾乃がトイレに向かったので、少しだけ緊張した空気が緩む形になった。


 いや、なんで兄妹で出かけているだけなのに、こんなに意識してんだと思うと同時に、先程の綾乃の表情に対して、僅かばかり劣情に近い感情を覚えてしまったことを認めざるを得なかった。


 ……妹相手にその感情はマズいだろ。


 頭では分かっているのだが、不意に見せてくる無防備な綾乃の隙が俺のそんな感情を掻き立ててきていた。


 いけないものを見ていると思いながらも、目が離せなくなってしまう。


 俺は綾乃のことを女の子として見てしまっている。それ自体はもうすでに認めていることだ。


でも、それはただのクラスメイトに対する感情と何か違っているのだろうか。


 正直、クラスメイトと手を繋いでもドキドキはすると思うし、スカートの中を見れば興奮だってする。


 ……男の場合って、恋愛感情と性欲の違いって分けられるのか?


「それにしても、結構遅いな」


 妹の帰りが遅いと心配になる。それはシスコンとしては当然の感覚であり、これだけ関係性が変わっても、その感覚だけは抜けないらしい。


 俺は過保護だと分かっていながら、綾乃が向かったトイレのある方に向かっていった。



 ちょうどフードコートの角を曲がったところで、綾乃の姿が見えたので声をかけようとすると、そのすぐ側に俺と同い年くらいの男達がいた。


 二人の男が綾乃に話しかけており、綾乃は申し訳なさそうな顔で二人をいなしていた。


「綾乃っ」


 綾乃の顔が引きつっていて、無理をしているのはすぐに分かった。


 その瞬間、俺は考えるよりも先に綾乃の所に駆け寄っていた。


綾乃にちょっかいを出そうとする男たちに対する怒りの感情と、綾乃に嫌な思いをさせてしまった不甲斐なさ。


それらの感情によって、あまり心が穏やかな状態ではなかった。


「ちょっ、何だお前」


 突然、綾乃たちの間に入っていくと、綾乃に話しかけていた男たちが俺に睨みを利かせてきた。


 しかし、俺にはそんな男たちのことなど眼中に入っていなかった。


「あっ、お兄ちゃんっ……」


 俺が綾乃のすぐ前まで行くと、綾乃は俺の存在に気づいたようでそんな言葉を漏らした。心から漏れたような言葉だったので、男たちは俺が綾乃の兄であることをすぐに認めたらしかった。


「え、お兄さん?」


「妹に何か用ですか?」


「いや、別に用ってほどのことはないけどよ」


 ナンパをしている女の子の兄が颯爽と現れるとは思っていなかったのだろう。突っかかってきそうだった勢いは鳴りを潜めて、男たちは気まずそうにこちらから顔を背けていた。


「いくぞ、綾乃」


俺は綾乃の手を引いて、その男たちから離れていった。


しかし、どこか納得いってなさげな二人は俺たちの後ろで声量の大きな会話をしていた。


おそらく、わざと聞こえるように話しているのではないのだろう。それでも、それは俺たちの耳にまでしっかりと届いてしまっていた。


「え? あの歳で兄貴とお出かけなんかするか?」


「兄貴と出かけるのだけで、あんなにオシャレしないだろ。もしかして、あの兄貴と?」


「んなことあるわけないだろっ。普通に考えてありえねーだろ、そんなの」


 柄が良くないくせに、言っていることは確かに常識的だった。


 倫理観に反しておらず、世間一般的な常識。それに背きかけている俺たちにとって、その言葉は胸の深い位置まで刺さる言葉だった。


 喉と胸の間らへんがきゅうっと締まり、何に対する怒りなのか分からない感情が胸の中に渦巻いていた。


 世間的に悪いことをしているのは俺たちだ。そう思うと、その言葉に言い返すこともできず、俺たちはただ黙ってその場から離れることしかできなかった。




「……お兄ちゃん。やっぱり、私って変なのかな?」


綾乃を連れ出してしばらく歩いていると、少しだけ後ろを歩いていた綾乃はそんな言葉を口にした。


 きっと原因は先程の男たちの言葉だろう。


 先程までのデートの雰囲気はどこかへ消えて、綾乃の声のトーンがいつもよりも低くなっていた。


 ここで綾乃を元気づけるためには、綾乃の言葉を否定して受け入れてやればいい。でも、それはただ一時喜ばせるだけで、その先にあるのは深い暗闇だ。


 俺たちがおかしいことに変わりはないのだからな。


「まぁ、普通ではないのかもな」


 無責任にそんな返事をすることはできないという気持ちと、自分にも言い聞かせるように俺は自嘲気味に口を開いた。


「やっぱり、そうだよね」


「でも、安心しろ。変なのは俺も一緒だ」


「え?」


 俺が立ち止まって振り返ると、綾乃は俯いていた顔を上げた。悩んでいるような顔に微かに光が灯ったようで、徐々にその瞳が大きくなっていくのが分かった。


「元々過度なシスコンとブラコンなんだ、普通じゃないんだよ。だから気にするな」


 俺はそこまで言うと、綾乃の頭の上にぽんと手を置いた。軽く撫でてやると、落ち込んでいたような瞳の色が徐々に明るい何かに変わっていくのが分かった。


 普通ではないということは、それだけで非難の対象になる。でも、俺たちは今までだって普通の兄妹とは違っていた。


 過度なシスコンとブラコン。そもそも前からおかしかったのだから、今更気にするな。


そんな悩みは諦めてしまえという、アドバイスになっていないアドバイス。


それが、俺の兄としての立場でできる最大限の言葉なのではないだろうか。少なくとも、俺はそう思う。


「一人にはしないから、な?」


 さらりとしている綾乃の髪を撫でて、慰めるように頭を優しく撫でていくと、こちらを見つめていた綾乃の瞳が熱を帯びきた。


 揺れている瞳は何を考えているのか。いつもなら逸らしてしまう、まっすぐ見つめてくる視線。


兄としてこの視線から目を逸らして逸らしてはならないだろう。


そう思って、綾乃の瞳をしばらく見つめていると、頬をじんわりと熱くさせた綾乃がこちらからぱっと視線を逸らした。


「きゅ、急にそういうのは、あんまり心臓に良くないからっ」


 湧き出てきた恥じらいの感情を押さえきれなくなったのか、綾乃は微かに声を上ずらせながらそんな言葉を口にしていた。


 そのまま慰めるように頭を撫でて続けていると、綾乃は一方的にその行為を受け入れながらも、羞恥の感情によって耳の先まで赤くしていった。


「お、お兄ちゃん。も、もういいから」


 やがて、綾乃の方が恥ずかしさに耐えられなくなったのか、綾乃は俺の手を握って自分の頭から俺の手を下ろさせた。


 手を繋いだ手はそのままにして、恥じらいの感情もそのままにして、綾乃はじっとこちらを見つめてきた。


 熱の籠っている視線は目が合っていると、こちらの体温も上げてきそうだったので、俺は慌てたように視線を逸らした。


「そ、そういえば、呼び方戻っちゃったな」


 漂い出してきた甘い空気に耐えられなくなって、俺は空気を紛らわすように話の舵を強引にとった。


 綾乃は俺の言葉を聞いて微かに笑みを浮かべた後、いつもの調子で言葉を続けた。


「いいよ、このままで。やっぱり、お兄ちゃんの方が呼びやすいし」


 その笑顔は屈託のないようなもので、最近見てきた綾乃の笑顔の中で、昔の綾乃の表情に最も近かった。


 だからだろう。少しだけ昔の調子を思い出した俺は、おふざけの一環で繋いでいた手の指を絡めてしまった。


「じゃあ、せめてこっちで手を握るか。まだこっちの方が恋人らしな」


「~~っ! だ、だからっ、急にそういうのやるのはっ」


 指を絡める恋人繋ぎと呼ばれる手の繋ぎ方。軽い悪ふざけでやったつもりだったのだが、想像以上に手の密着度が高かった。


 不意を突かれたせいか驚きと羞恥の感情がぐちゃぐちゃになったのか、綾乃は頭が沸騰でもしたかのように顔を赤くしていた。


 熱に当てられて微かに潤んだ瞳は揺れていて、何かいけないことをしている気分になった。


そんな表情を前に、綾乃の細い指が絡むのが妙にいやらしく思えてしまい、俺は慌てたように口を開いた。


「あっ、これ凄いはずいな。やっぱり、やめるーー綾乃?」


 自分でしておいてこちらが恥ずかしくなったので、俺は絡めた指を解こうとした。


しかし、俺が指を解くよりも先に、綾乃の指がきゅっと俺の手を掴んで離そうとしなかった。


「……このままでいい」


「綾乃?」


「このままがいい」


 こちらを見上げている綾乃の表情を前に、俺は何も言えずにただ見つめ返すことしかできなくなっていた。


 言葉が出てこないどころか、頭が上手く働かない。


 それは綾乃も同じなのか、目も逸らせなくなった俺の瞳をじっと覗き込んでいた。


上がりきった頬の熱をそのままにして、しばらく俺のことを何も言わずに見つめていた。


「……なんだか、分かってきたかも」


「え? 分かってきた?」


「なんでもない。ほらっ、いこっ」


 綾乃は何かを諦めたようにそんな言葉を口にすると、俺の手を引いて歩き始めた。


 恋人繋ぎのまま俺の隣を歩く綾乃が何を思っているのか。それも分からないまま、俺は綾乃に引っ張られるように街を歩いていくのだった。


 多分、この手の繋ぎ方は仲が良いでは済まされないのだろう。


 そんなことを考えながら、ただ速くなった鼓動の音が確かに聞こえていた。

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