2
メルキアデスは、ぽつんと置かれていた真っ白なテーブルとイスの方に進んで行く。
「アリス、座って。紅茶を淹れよう。アリスの好きなオレンジ・ペコを。それから焼き立てのアップルパイもあるんだ」
ふわりと柑橘系の爽やかな香りが漂い出す。テーブルの上には、彼が言った物がすでに用意されていた。
「アリス、僕は君のことを観察させてもらっていたんだ」
「やっぱり。そうだったのね」
「ははっ。今のアリスには全てお見通しかな」
メルキアデスは、どうぞ、と私の前に淹れ立てのカップを置いてくれた。
「あらゆる世界で、全ての世界で、アリス・君にだけは、この僕・メルキアデスでさえ干渉することができなかった。だから僕は君に鍵を預けた。それから六年が経ち、再会した時の君には、まだマコンドの間を開けられる力は備わっていなかった。それでアリスにその力を身につけてもらおうと、旅をしてもらうことにしたんだ」
メルキアデスは、私にアップルパイを勧める。一口食べると甘酸っぱくて、どこか懐かしい味がした。
「ねえ、メルキアデス。あなたの旅もこれで終わりかしら」
「ひとまずの目的は達成できたからね。この世界……、いや、全ての世界が本来なら消滅する予言になっていたんだ」
メルキアデスは翡翠色の瞳を揺らして言う。「僕が作り出した世界──、子供の領分だけを残してね」と。
「今の君には分かるだろう。この世界は破滅へと向かっていた。だから僕はメルキアデスの書を記した、世界を崩壊させないために。でも鶏が先か、卵が先か──。この因果性のジレンマと同じ、世界の消失を防ぐために書を記したのに、書が存在したことによって世界の崩壊は確実なものとなってしまった」
メルキアデスはカップをテーブルに戻すと、「お願いがあるんだ」と切り出した。
「アリスにこの書を燃やして欲しいんだ」
燃やす? メルキアデスの書を……?
私は、じっとメルキアデスの瞳を見つめる。彼は首を小さく横に振った。
「この書は存在していてはいけないんだ。聡明な君には分かるだろう。僕には、この書を消すことができない。いいや、アリス、君以外にはね」
だから、とメルキアデスは繰り返す。確かに今の私になら、この書を燃やすことができる。だけど。
「本を燃やすなんて私にはできない」
「でも、この書がある限り、世界の崩壊は止められないんだ。お願いだよ、アリス」
メルキアデスの言う通りだ。この本が存在する限り、またアイスクリームの皇帝のような人が現れて、似たような歴史が幾遍も繰り返される。でも、やっぱり……。
私はメルキアデスから書を受け取ると、トランクに視線を向ける。ゆっくりと目を瞑り、頭の中で念じる。その思いに呼応してくれたトランクは私の日記帳を出してくれた。
メルキアデスの書の上に私は日記帳を重ね、ぎゅっと抱き締めて強く念じる。本が眩い光を放ち出す。
「これは……!」メルキアデスの視線を受け、私は小さく頷いて見せる。
「そう、書き換えたの。私の日記と、あなたの書を組み合わせて。これは、新しいメルキアデスの書よ──」
生まれ変わった書物を前にしてメルキアデスは、ははっと小さく笑う。
「へえ。タイトルは、『百年の冒険』か。書を書き換えるなんて思いも付かなかったよ。ありがとう、アリス。これで僕は百年の孤独から解放されたよ」
「ううん、私も今まで本を読んでばかりだったから。書きたくなったの、私の物語を」
「アリス、君は全ての世界の中で、この僕、全ての事象一の魔術師であるメルキアデスにすら干渉することができない唯一の存在だった。その理由が、今、ようやく分かったよ」
「ええ、私も」どうしてあんなにも、あなたに胸をときめかせていたのか。
私とメルキアデスは同時に頷いて、
「アリス、君は、もう一人の僕だ」
「そう。メルキアデス、あなたは、もう一人の私よ」
私たちの意識が今一つに繋がった。一ミリの狂いもなく、ぴたりと重なり合う。懐かしい感覚に包まれる。
初めまして、そして、おかえりなさい、もう一人の私──……。
そう言い合うと私たちは、自然と笑い合った。
「ねえ、メルキアデス。これから、どうするの?」
「そうだなあ。また旅をしようかな」
「えっ。旅を?」
「もしかしたら僕の知らないことがまだあるかもしれないし、別の世界のアリスに……、もう一人の僕に会えるかもしれないしね」
メルキアデスは、ふわりと宙に浮かび、
「じゃあね、僕のアリス」
「ええ、私のメルキアデス。よい旅を」
天高く飛んで行き、その姿は、やがて何億光年と離れている星のように白い点となって見えなくなってしまう。
「行っちゃった……」でも、あの人らしい。さようなら、もう一人の私──……。
私はもう一度、真っ青な空に向かって微笑んだ。
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