3

 ちゅんちゅんと小鳥のさえずりが遠くで聞こえている中、突然、

「アリス、起きろ!」

という声が私の脳内を揺すった。目を覚ますと、切迫としたレオの顔が目の前にあった。

「くそっ、いつの間にか寝てた。足音が近付いてきてる」

 警戒するよう、レオは銃を構えて言う。足音なんて私には聞こえないけど、レオは耳がいいんだな。やっぱりウサギみたいな耳があるからかな。

 レオは顔を強張らせて扉の方を見つめていたけど、

「消えた……?」

と呟いた瞬間、

「くっくっくっ……」

と奇妙な笑い声が部屋の中に響き出した。

 私はレオにしがみつき、室内を見回す。本棚の上に黒い影が現れた。

 ん……、あれ、ネコ……? それは、ネコのようなシルエットだ。

 その影が晴れていくと、

「チェシャーじゃないか!?」

とレオが素っ頓狂な声を上げる。チェシャーと呼ばれたネコは茶虎柄の毛をしていて、歯茎をむき出しにするほど、にやにやと笑っている。まるで三日月みたいな口だ。

「このネコ、レオのペットなの?」

「いや、ペットじゃない。でもオレの国にいたんだ。

 おい、チェシャー。なんでお前がここにいるんだ?」

「さあ。なんでだろうね」

 チェシャーは、レオの質問に答えない。「いるからいる訳さ」と曖昧な答えをする。

「吾輩は吾輩である。ある時は扉と呼ばれ、ある時はピートと呼ばれ。また、ある時は世界と呼ばれ、ある時は猫とも呼ばれた。そして今はチェシャーと呼ばれている」

 チェシャーは、「くっくっくっ……」と笑い出す。

 なにがおもしろいのかな……って、あれれ。チェシャーの姿がだんだん薄くなっていって……、とうとう始めからいなかったみたいに、きれいに消えちゃった。

 レオは、先程までチェシャーがいた所を見つめながら、

「こういうヤツなんだよ」

とあきれた調子で言う。

 チェシャーがいなくなったと思ったら、今度はコンコンとノックの音が鳴る。開かれた扉の隙間からジャンヌさんが顔を見せる。

 ジャンヌさんは、これからオーリアンズに出陣すると私たちに告げる。

「本当に行くの?」

 自分の身は自分で守る、とレオが返すと、ジャンヌさんはついてくるよう言った。

 私とレオもその一軍に加えてもらい、緑の深い森の中を騎士団は進んで行く。

 ジャンヌさんには大丈夫だと言ったけど、やっぱりちょっと……、ううん、すごく怖い。この行く先に命を狙ってくる敵がいるのかと思うと緊張する。ぎゅっとトランクを握る手に自然と力が入る。

 どくどくと心臓が不規則に鳴っている中、レオが私の空いている左手をつかんだ。

 どうしたんだろう。ちらりとレオの顔を見ると、

「落ち着け。アリスのことはオレが守る」

 レオは前を見つめたまま、ただ一言そう告げる。その声に、手から伝わってくる温もりに、乱れていた鼓動は次第に鎮まっていった。

 どれくらい歩いたんだろう。前を歩いていた兵が、不意にぴたりと歩を止めた。

「アンジュ国の兵だわ。こんな所にいるなんて、こっちの情報が漏れたのかしら。オーリアンズまで、あと少しなのに……」

 ジャンヌさんは声を潜めて言う。どうにかしてこの包囲網を突破して、一刻も早く先陣を切っている仲間に加わらなくては、と歯がゆそうだ。

 今にも勃発しそうな戦いに、また心臓が乱れ出す。覚悟はしていたけど、本当に始まるんだ、命を懸けた戦いが。

 ……あれ。そう言えば、この辺りって……。

「ジャンヌさん、地図はありますか?」

「地図? ええ、あるけど……」

 借りた地図を広げて見ると、やっぱりそうだ。私は、地図のある箇所を指差して示す。

「今、私たちがいる所から少し北に行くと、深い沼地があるはずなんです。だから敵をこの底なし沼に誘い込めば……」

「なるほど、容易に敵を封じ込めるわね」

 ジャンヌさんは、やってみましょう、と指揮を取る。

「沼地があるなんて、よく知ってたな。この世界には来たことないだろ」

「昨日、読んだ本に書いてあったの」

 うまくいくといいんだけど……。

 そう願いながら私は木陰から行く末を見守る。しばらくするとフランカ国の兵が、アンジュ国の兵を引き連れて目の前を通り過ぎて行った。

 底なし沼まで、あと少し。目を見張って兵の後ろ姿を見つめていると、

「やった……!」

 作戦は成功だ。アンジュ国の兵士たちは、気付いた時には手遅れだ。ずぶずぶと底なし沼の餌食になっていた。

「このままオーリアンズを目指すわよ!」

 ジャンヌさんは一部の兵士をその場に残すと、勢いよく馬を走らせる。私たちも借りた馬に乗って、ジャンヌさんの後に続く。

 レオってば、馬に乗れるなんて。知らなかった。レオは慣れた手付きで馬を走らせる。私は落ちないようレオの背中にしがみ付いた。

 馬は疾走を続け、目に入る景色が一瞬の内に流れていく。あっという間に森を抜け、都市が見えた。あそこがオーリアンズね。話に聞いていた通り、この時代にしては盛えている街だ。

 街中に入ると、赤いバラと白いバラの紋章が入った旗をそれぞれ旗めかせている一団が見えた。赤いバラを掲げた兵士と白いバラを掲げた兵士とが対立して刃を交えている。

 だけど赤いバラの兵士たちは、先頭を切るジャンヌさんの姿が目に入った瞬間、

「ジャンヌ様だ!」

「ジャンヌ様がいらしてくれたぞ!!」

 ジャンヌさんの登場にすっかり士気が上がった赤バラ隊は、白バラ隊を押し始める。すっかり分が悪くなった白バラ部隊は徐々に後退し出し、終いには一人残らず撤退した。

 その光景に、赤バラ兵たちはまた歓喜の声を上げる。

「ジャンヌ様は勝利の女神だ!」

「ジャンヌ様はオレたちの英雄だ!」

 無事オーリアンズを守り抜いたジャンヌさん率いる赤バラ騎士団。彼女を賞賛する声は止まらない。

 だけどその中心にいるジャンヌさんは、なんだか浮かない顔をしている。

 けれど、その影を振るい落とすと私たちの方を振り向いて、

「アリス、あなたの作戦のおかげよ。いち早くオーリアンズにたどり着けたから、この地を守ることができたわ」

 ありがとう、とお礼を言ってくれた。

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