5
「もしかして、あなたがメルキアデス……?」
こんなこと、聞く必要なんかなかった。
「そうだよ。黄金の午後以来だね、僕のアリス」
だって一目見ただけで分かったんだもの。この人が図書館の君──、メルキアデスだって。
この世の真理を説いているような翡翠色の瞳に、月みたいに神秘的な輝きを放つ柔らかな銀色の髪。細い線で描かれた肢体は、あの日の姿と一ミリの狂いもない。
メルキアデスは、くるりと一回転してから、すとんと私の前に降り立った。あの日と同じ、優しく揺れる波のような穏やかな笑みを携えて。
「どうして私の名前を……?」
メルキアデスと違って、私は変わっている。身長だって三十センチくらい伸びている。
「ふふっ。僕は全ての世界の、全てのことを知っているからね。君が誰かも──、アリスだってことくらい、すぐに分かるよ。その鍵、大切に持っててくれたんだね」
メルキアデスは私の首から下げている鍵を指差して、にこりと微笑んでくれる。
会えた、本当に、本当に会えたんだ、図書館の君に、メルキアデスに……!
自然と頬に熱が集まり、鼓動が、どくん、どくんと速まり出す。絶対におもしろいに違いないって、読む前から確信できる本に出会えた瞬間のようだ。
言葉が出てこない。なにを言ったらいいんだろう。ただまた彼に会えることばかりを望んで、その先のことなんて私にしては考えてなかった。
だけど知りたい、メルキアデスのことを。そして、この鍵のことを。
どくどくと鼓動が高まり続ける中、けれど、
「メルキアデス……!」
横を向くと、レオが鋭い目付きでメルキアデスのことを睨み付けていた。
「お前の持ってる鍵を寄越せ!」
「鍵って、なんの鍵?」
「とぼける気か! マコンドの間の鍵だよ」
「マコンドの……。ああ、あの鍵か。嫌だと言ったら?」
「力尽くで奪い取らせてもらうだけだ!」
レオは、メルキアデスに突っ込んで行く。だけどレオの指先がメルキアデスに触れる寸前、彼の体がふわりと宙に浮かび上がった。まるで花びらが風に舞うように。
レオは、ぴょんぴょんと高く……、自分の身長の二倍くらい高く飛び続けるけど、メルキアデスには寸でのところでかわされてしまう。
「どうして僕が君に鍵を渡さないとならないんだい?」
「そっ、それは……」
突然そんなことを訊かれて、レオは迷ったみたい。さっきまでの威勢は薄れて、ごにょごにょと言い淀む。
すっかりレオとメルキアデスに夢中になっちゃっていたけど、ハンプティ・ダンプティもメルキアデスを捕まえようとしていた。レオに意識を向けているメルキアデスにチャンスだと思ったんだろう。一斉に拳銃の先を彼に向け出した。
危ない──! そう叫ぼうとしたけど、
「へえ、君たちも動き出したんだね」
メルキアデスは、パチンと一つ指を鳴らした。すると大きなフライパンが空中に現れて、ずどんっ……! ハンプティ・ダンプティの上に覆い被さった。もしかして今のは魔法……?
メルキアデスは宙を移動して私の前にまた降り立った。「ちょっと休憩」なんて、いたずらっ子みたいに笑って。
横からレオが捕まえろとかなんとか叫んでいたみたいだったけど、私の耳には届かなかった。フィルターがかかっているみたいに聴覚が遮断される。全ての意識が鼻先にいるメルキアデスに注がれる。手を伸ばせば触れられそうなほど、近い。
「あのっ……」
喉奥からやっと声が出かかるけど、「おい!」という乱暴な音がそれを遮った。
「オイラを無視するんじゃないっ!」
あっ。カーターのこと、すっかり忘れてた……。
蚊帳の外にいたカーターは、地団駄を踏んで怒り出す。ジャケットの懐から拳銃を取り出すと銃口を私へと向けた。
あっ、撃たれる──。
なのに体が動かない。私の視界には真っ青な空が映り込んだ。遠くの方で、バンッ──! と乾いた音が轟いている。次に襲ってきたのは、背中に鈍い痛み。「うっ……!」と呻き声が降ってきた。
「レオっ……!??」
近くの地面には真っ赤な鮮血が飛び散り、左腕を押さえ込んでいるレオの顔が痛みからか、歪んでいる。
「レオってば、お人好しだなあ。そんな女を守るなんて。おっと、動くなよ。動いたら今度こそ急所を外さないからな」
カーターは銃口を再び私たちに向ける。
「それとも、こっちの方がいいかな?」
そう言うと銃からマガジンを取り出し、中の弾を入れ替え出した。
「その銃弾は……!」
「ああ、そうさ。今度の弾は、トロイメライと同じ成分だ。ハンプティ・ダンプティにもらったんだ。撃たれたくなかったら、さっさと鍵と時計を渡すんだな」
レオの表情が強張り、下唇を噛み締める。
カーターは銃口を私たちに向けたまま、視線はメルキアデスへと移す。
「それから、そこのお前。お前が世界一の魔術師・メルキアデスなんだろ。お前の鍵も渡しな。ははっ、これで鍵が二つ揃う。これでメルキアデスの書はオイラの物だ。書が手に入れば、鏡の世界は……、いいや、全ての世界だって手に入れられる!」
カーターの嘲笑がいやらしくも反響する。このままだとカーターにメルキアデスの書を取られちゃう。どうしよう。鍵を渡したくない。だけど、このままでは私だけでなく、レオの身も危ない。レオは私を庇ってくれた。そのせいでケガまでして……。
私は鍵をぎゅっと握り締め、カーターの方に歩いて行く。けれど数歩進んだところで、突然がっと腕を掴まれた。
「渡すな、アリス!」
「レオ、でも……!」
「悪かったな。それと、ありがとう」
「え……?」
「さっき、あんな風に言ってくれただろ。国を復興させるなんて、本当は無理だって自分でも分かってた。なのに……。アリスのあの言葉だけで救われた。それだけで十分だ」
レオは、にっと白い歯を覗かせる。琥珀色の瞳がゆらりと不安気に揺れたけど、その奥に秘められた強かな炎は決して消えてはいなかった。
瞬きを一つするとレオは先程以上に瞳を輝かせ、
「これ以上、トロイメライの犠牲者を出す訳にはいかない! だからアリス、絶対に鍵を渡すな──!!」
と叫ぶ。
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