きみだけが、
小学校の時、僕はいわゆるカギっ子だった。母親とふたり暮らしで、母がいつも仕事で家にいなかったから、学校から帰ってくると、帰宅して夕方くらいまでは部屋にひとりという日が多かった。父親は、幼い頃に母と離婚してしまって、実は顔さえもほとんど知らない。話を聞く限り、あまり良い父親ではなかったみたいだ。
鍵を開けようとすると、誰もいないはずの部屋にひとの気配を感じて、そこにいるのが彼女だった。リビングでくつろいでいる姿は、まるで生きている人間のようだった。
あの時期、僕の友達は彼女だけで、それが空想上の友達、イマジナリーフレンドなんて呼ばれている存在だ、とはまだ知らなかった頃の話だ。
「きょう、小林くんに後ろから、叩かれた」
ひどいね。
「きょうの席替え、佐野さんに『となりは、嫌だ』って泣かれちゃった」
気にすることないよ。
「きょう、授業中、ぼーっとしてて、先生に怒られた」
そういう日も、あるよ。
彼女は僕の愚痴をいつも優しく聞いてくれて、絶対に僕の言葉を否定することはなかった。僕が創り出したものなのだから、当然の話なのかもしれないが、僕にはそれが嬉しくて嬉しくて仕方なかった。彼女さえいれば他には誰もいない。この世界に、たったふたりだけでいい。クラスのやつらなんて別に要らない。消えてしまえばいいのに。そんな時期が、確かにあったのだ。いまでは信じられないけど。
彼女は長い黒髪に、すこし細い目、目尻の下にはほくろがあって、いつも変わらず水色のワンピースを着ていた。
実際には存在していないのだから、服装が変わることはない。当時の僕の理想が反映されていたのだろう。近所に住んでいて、幼稚園の頃から知っているクラスメートの小野さんにどこか似ていた。小学校の低学年の頃は、恋愛のことなんて何も分かっていなかったわけだけど、たぶん僕は小野さんのことが好きだったんだ、と思う。そして僕が好きだったばかりに……。
家に帰ってきて、母が帰ってくるまでの数時間、たったふたりだけの彼女との空間、誰にも邪魔されないあの時間が好きだった。
大体イマジナリーフレンドがどのくらい年齢まで続くのか、その平均を僕は知らないが、小学校四年生になっても彼女を認識できていたのだから、結構長い期間、関わり合っていたのではないか、と思う。
でも小学四年生くらいになると、すこしずつではあるけれど、僕にも友達と呼べるような存在ができてきた。男子も女子もぽつりぽつりと。その中には、小野さんもいた。ちいさい頃から知ってはいたけれど、それまではあまり話す機会もなかったのだ。男女分け隔てなく接してくれる、柔らかいほほ笑みが印象的な女の子で、その笑みがときおり、空想上の彼女と重なる時があった。
「あっ、これ、山田くんがゲーム貸してくれたんだ」
ふーん。
「明日、小野さんに家に行くことになってさ」
へぇ。
その頃の僕の言葉に、彼女が不機嫌になっていたことは気付いていた。
変だな、と思ってはいたのだ。当時はその違和感をうまく言語化できなかったのだが、いま改めて考え直すと、本来自我を持たないはずの彼女が、僕の空想から切り離され、独立した生物になってしまったような気分になっていたのかもしれない。
もうあなたにとって、私は要らない存在なのかな?
「何言ってるんだよ。そんわけないじゃないか」
そう口にした、僕の声は震えていた。僕自身があまりその言葉を信用していなかったからだ。あの時点で、僕は彼女の存在をそれほど必要していなかった。だったら何故、彼女は僕の目の前にいたのか。僕の心が創り出したものなのに。やっぱり僕から独立して、一個の幽霊のように、そこに〈存在〉していたのか。僕の声の震えには、その恐怖も混じっていたような気もする。
嘘ばっかり。
「本当だって」
そう言って、彼女は消え、一週間近く、彼女は僕の前に姿を現さなかった。毎日いるのが当たり前で、いままで一度もなかったことだ。
その間に、僕は小野さんから相談を受けた。
小野さんは真っ青としか表現できないような顔色をして、僕に話しかけてきた。
「私、最近、変なんだ」
「変、って?」
「なんか、家にいる時がほとんどなんだけど、私にそっくりな女の子が見えるの。お化けかな。私を見て、ずっとにやにや笑ってて、たまに口が動いて、何か言ってるみたいなんだけど、何を言ってるのか、は全然分からなくて。ただ私、怖くて」
「それって」
「何か知ってる?」
「あっ、ううん。そんなわけじゃないけど」
そう返しながら、僕は間違いなくそれが彼女だと確信していた。だけどそんなわけない、と僕は心の中で、必死に首を横に振っていた。だってあれは僕だけの存在で、彼女のもとになんて現れるはずがない。
「怖いよ……」
小野さんはいまにも泣きそうだった。
「大丈夫、それはただの妄想だから」
小野さんに、そして自分自身に言い聞かせるように、僕は言った。その言葉が虚しい響きを持っている、と知りながら。
一週間ほど経ち、学校から帰ってきて、玄関のドアを開けようとして、また彼女の気配が戻ってきたことに気付いた。ふたたび僕の前に顔を出した彼女は、変わらずにこやかな笑みを浮かべたまま、
ただいま。
と、ほほ笑んだ。
「どこに行ってたんだよ」
小野さんのところに行ってたのか、と聞きたくて聞けなかった。肯定されて、事実になってしまうのが怖かったからだ。
うん。ちょっとね。色々。ねぇ、私のこと大切にしてね。大切にしないと、友達がいなくなっちゃうよ。
その場にいるのに、僕たちは無言だった。彼女にいままで感じたこともない得体の知れない不気味さを覚えていた。
翌日、小野さんが学校を休んだ。
先生がプリントを届けてくれる生徒を探していたので、家が近所の僕が名乗り出た。小野さんの家へ行くと、小野さんのおばあちゃんが家にいて、あらボーイフレンド、と茶化すように言って、僕を部屋に上げてくれた。小野さんの部屋のドアを開けた瞬間、
「ひっ」と小野さんが怯えたような叫び声をあげ、そのあと、ようやく僕だ、と認識したのか、「あぁ、なんだ、良かった」とほっとしたような息を吐いた。
「大丈夫。体調?」
「あぁ、うん。熱とかはないから。ただ、私……。この間、話した私に似た女の子のこと、覚えてる?」
「うん」
「いまでもずっと私の前に現れるんだ。声は聞こえない、って言ったけど、声も聞こえるようになってきて。『私から友達を奪わないで』って。『にせものにせものにせものにせもの。おまえがにせものだ。きえろきえろきえろしねしねしねしねしね』ってどういうこと、私、何のことか分からなくて」
泣き出す小野さんを見ながら、僕は何も言えなかった。
家に帰ると、彼女はリビングにいた。
おかえり。遅かったね。
僕は彼女の言葉を無視して、いまの僕の気持ちを伝えた。
「もうきみなんか友達じゃない。消えろ。消えてくれ。きみなんか必要ない。お願いだから、僕の前から消えてくれ!」
僕の叫び声に、ただ一言、「そっか」と彼女が言った。
薄く笑って、彼女が消えていく。
その三日後、小野さんが死んだ。僕の住んでいたマンションの屋上から転落して。自殺だ、と言われている。
「きみがやったのか」
小野さんが死んだ後、一度だけ僕の目の前に彼女が現れたことがある。たった一度だけだ。彼女は僕にほほ笑みかけ、何も言わなかった。ただ優しい笑みを僕に向け、それが小野さんの折り重なり、僕の心をさいなんでいった。
「きみがやったのか」
僕はもう一度、言った。だけど彼女はやっぱり何も答えてはくれなかった。ただ表情だけを、悲し気なものに変えて。
そして僕の前から消えた。以降、彼女と会うこともないまま、長い月日が経ち、僕はおとなになり、結婚をし、そしてもう会うことはない、と思っていた彼女がいま僕の目の前にいる。あの頃と、何ひとつ変わらない姿で。
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