空想上のきみだけが

サトウ・レン

この世界で、

 玄関のドアノブに手を触れた時、嫌な予感がした。

 鍵は閉まっているのに、扉の向こうに誰かがいる気配がする。その気配にはどこか懐かしいにおいがした。


 妻ではないはずだ。もしも妻なら僕が不在の部屋に鍵を掛けるようなことはしないだろう。もしかしたら、うっかり、なんて可能性もあるかもしれないし、そっちのほうが嬉しいのだが、大体こういう嫌な予感は当たるものだ。


 ポケットから自分の鍵を出し、扉を開ける。僕の手はかすかに震えていた。

 見知らぬ靴は特にない。僕か妻の靴だけだ。リビングへと向かう足取りは重い。なんで自宅の中を歩くのに、こんなにも怯えなければならないのだろう。


 少女が、いた。小学校低学年くらいの、幼い少女だ。

 僕はこの少女を知っている。怖い、と同時に、懐かしい、と思った。会いたくなかったはずなのに、久し振りに彼女の顔を見れたことにほっとしている自分がいる。


 久し振り。

 電源の付いていない真っ黒なテレビ画面に目を向けていた彼女が、僕に向きを変え、にこり、とほほ笑んだ。


 久し振り。

 もう一度、彼女が言った。


「もう会うことなんてない、と思っていたよ。きみと」

 こめかみから、すぅっと、ほおをつたっていくように、汗が流れる。汗はひんやりとしていた。幼き頃の思い出がよみがえる。いつかもこんな残暑厳しい八月の終わりで、少女はいまと同じような涼し気な顔をしていた。おとなになり、背丈も伸びてしまった僕と違って、彼女は何ひとつ変わらない。


 僕と友達になってください。

 うん。いいよ。でも、ずっと友達だよ。途中で、私の前からいなくならないで、ね。


 その少女と出会ったのは、僕が小学生に入ったばかりの頃だったはずだ。いやそれよりも前から、類する存在とは出会っていたのかもしれないが、あまり覚えていない。人見知りで周りとうまくとけこめない僕にとって、何よりも彼女は特別な存在で、あの頃の僕はそれが永遠に続くと信じて疑わなかったし、あの頃の僕はそれが永遠に続くと心の底から願っていた。その願いが、怯えに、後悔に変わってしまうのは、もうすこしあとの話だ。


 あれ、その顔は。私のことを思い出そうとしている? ひどい、勝手に忘れちゃうなんて。


 無邪気なあどけない表情を装って、彼女が僕を見る。そこに邪気を感じ取ってしまうのは、もう僕にとって、少女がどんな存在なのかを知り尽くしてしまっているからだろう。その表情を剥ぎ取った先に、どんな顔が待っているのか、知ってしまっているからだろう。妻はあとぐらいで帰ってくるか。その時までに、この過去からの闖入者は僕の前から消え去ってくれるのだろうか。


 あっ、いま、ひどいこと考えたでしょ。


 その見透かすようなまなざしに、僕はどきりとする。あぁそうだった。僕が彼女を知り尽くしているように、彼女も僕を知り尽くしているんだった。


「なんで、ここに来た」

 なんで、って。おかしなこと、聞くんだね。あなたに会いに来たに決まってるでしょ。それ以外に私が現れる理由なんて、本当にあると思っている?


 確かに彼女の言う通りだ。目的があるとすれば、僕しかいない。正しくは、僕以外に彼女の目的があってはならない、だろうか。ふいに部屋のカーテンが揺れ、窓が開いていることに気付いた。窓なんて開けっぱなしにするだろうか。そんなはずはない。僕も妻もそんな不用心な性格ではない。だとしたら彼女が開けたのだろうか。いやそれこそもっとありえない。あぁこの感覚、久し振りだ。何が正しくて何がおかしいのか、何も分からなくなってくる。


 会いたかったよ。本当に。


「あぁそうだろう。きみは僕に会いたかったことだろう。だけど僕はきみになんて会いたくなかった」

 寂しいこと言わないで。


 彼女が悲し気な表情を浮かべる。その表情は僕が最後に見た、彼女の表情に似ている。彼女の表情とともに、ぼやけていた記憶が輪郭を持ち、気付けば僕は静かに記憶をたどっていた。

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