第4話 幽冥の月に見初められし者6
ゼイゼイと肩で息をしながら、深く息を吸い、なんとか呼吸を整えようとする。
思い出すなと、自分自身に言い聞かせる。
今のままの幸せが続くなら――誰も、傷つかないでいてくれるなら。
たとえそれが偽善的な考えで、夢幻なのだと罵られてもいい。
「嫌な気持ちを、忘れさせて……!」
もし幽世に神様がいるというのなら、願いを叶えて欲しい。
「お願い、します。なんでもしますから……」
(このまま幸せな気持ちでいさせて欲しい……)
そう、切に願ったその時だった。
『ソノ願い――叶エテヤロウカ』
「え……?」
耳鳴りがする頭の中、直接届く声が在った。
思わず青白いまま、ゆっくりと顔を上げる。
するとそこには屋敷では見たことのない長身の男性が立っていた。
死人のような生気の失せた肌。
くぐもった、空気を奮わせ発せられるモノとは違う聲。
そして、なによりもヒトではないと思わせる存在感。
カタカタと身体が震えていることに、遅れて気づいた。
(怖い……)
禍津者という言葉が、一瞬脳裏を過る。
以前見た禍津者は蟲のような姿をしていた。
けれど禍津者が蟲だけとは限らない。
(逃げなきゃ……!)
そう思い、後ずさろうとした刹那、
「いた……っ!」
ズキリと脚に奔った痛みに声を上げる。
そして痛みが奔ったほうの脚を見ると、そこにはゾロリと節足を幾つも生やした蟲がいた。
「ひ――、」
悲鳴を上げた――が、言葉がそれ以上続かなかった。
全身が、声が、神経が、咬まれた場所から侵される。
(いや、誰か……)
助けてと上げられない声で助けを求め、動かない身体で力を絞った。刹那、
『小煩イゾ、蟲風情ガ』
びちりっと嫌に湿った音をたてて蟲の胴体が引きちぎれ足下に落ちたのが見えた。
「は……っ、ぁ」
緊張なのか、蟲に咬まれた影響なのか定かではない。
身体がフラつき、地面に倒れそうになるのを守る手があった。
冥一郎さんとは違う、逞しい腕。
(やっぱり、屋敷の人……?)
変な蟲からも、こうして倒れそうになった私を助けてもくれた。
だからつい錯覚してしまいそうになる。
けれど、違う。
直感だ。この〝ヒト〟は……この〝何か〟は、私の〝呼び掛け〟に応えたのだ。
だから――、
「あ、なた……は……?」
喉の奥から無理やり声を振り絞り、目の前の〝存在〟に問いかけた。
『
また、頭の奥で声が響く。
ジンワリと、水盆に墨が滲んでは溶けていくような聲だと思った。
「か、がり、のみこと……?」
冥一郎さんや黄泉月との話題には上がらなかった名前に困惑していると、『
『願イヲ、叶エテヤロウ。何モカモ、解ラナクナッテシマウガイイ』
「……なにも、かも……」
頭に生まれる言葉を反芻する。
意識が、ゆっくりと落ちていくのを感じるも、抵抗する気力もわかない。
ただ、私の身体を抱き留めた〝ソレ〟に身を委ねたまま、ゆっくりと絡んだ糸が解けていくように――意識を手放した。
薄暗い影の中に、一人男が佇んでいた。
『手ニ入レタ……』
その男は、誰に言うでもなく呟いた。
ずっと屋敷に囲い込んでいたモノ――『幽冥の月に見初められた者』は、思っていたよりもずっと『頭が足りない』のだろう。
なんのための〝徴〟であるのか。
なんのために『屋敷』に囲われていたのか。
その理由もかなぐり捨て、こうして自らの手の内に落ちてきた。
使い魔の蟲のせいで面倒なことになりかけた……が、もう問題ないだろう。
『使イ方ヲ知ラヌ愚者ドモガ……』
腕の中で眠る女を見下ろすと、その口唇に自らの唇を重ね〝徴〟を刻む。
甘美な体液の味に、自然と口角が上がる。
このまま内側から食い破ってしまえたら、どんなにイイだろう。
だがそんなことをしては、価値など失せてしまう。
『サア、愚カデ愛シキ花嫁ヨ――』
青白い指を、スッと女の頬に添える。
ゆっくりと舐るようなアイを刻もう。
偽りのアイと優しさを、幸福だと錯覚しているうちに……。
『――スベテヲ抉リ出シテシマウガイイ』
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