第3話 幽世の護人11
トクトク、ドク……
衣服越しに伝わる心臓の鼓動。
それはとても早くて、熱い。
濡れた衣服すら、その熱で乾いてしまうのではと錯覚してしまうほど熱くて、冥一郎さんが言葉にしない感覚が伝わってくる。それでも、頭の片隅はどこか氷水でも被ったように冷静で、このまま押し倒されたら抵抗なんてできないな……と諦観している自分がいた。
(求婚……? 私が、なんで……?)
〝幽冥の月に見初められた存在〟――それは、この人にとってどれほどの利益をもたらすのだろう。そうでもなければ、私がこんなにも優しい人に求婚される筈がない。
自分自身でも、なんて酷い邪推だろうと思う。
(冥一郎さんは、そんな人じゃない)
それは、今までの言動から伝わってくる。
私を傷つける刃のような言葉も、力で屈服させるような威圧も、一度として感じたことはない。
(でも……、やっぱり駄目だ)
そう思わずにはいられない。
そう思わなければならないほど、今の今まで〝不幸〟という名の汚水に浸かってきた。
だから、疑ってしまう。
それがどんなに優しい人で在ったとしても――。
「なんで、私なんです……? その〝幽冥の月〟が、貴方にどんな意味を与えるの?」
震えそうになる声を無理やり抑えながら、ギュッと濡れた衣服越しに爪をたてた。
このまま流されてしまえば楽なのかも知れない。
知らなくてもいいことを、有耶無耶にしたまま――ぬるま湯のような〝幸せ〟に浸かっておけばいい筈なのに、不安症な私は、思ったことを感じたことをそのまま言葉として形作る。
「だって、まだ……会って間もないです。私はお世話になってばかりで……貴方たちに貰ってばかり――」
まだ、何一つ返せていない。
無償の愛が、怖い。
損得勘定のない
「――私には、私が愛される理由が分からない」
一つの言葉を紡ぐ度、ズキリと胸の奥が痛む。
一つの感情を吐き出す度、喉の奥が詰まる。
それはまるで、感情という名の海の中に溺れ沈んでいくようだ。
「貴方の優しい
だから、冥一郎さんの顔を見ることすら恐ろしい。
「…………」
言葉はない。
ただただ静寂を噛み締めるかのように、重い重い沈黙が室内を満たしていく。
冷水に触れたものとは別の震えが、身体の芯から湧き上がる。
零れ落ちそうになる涙を堪え腕の中から逃れることもできないまま、息遣いを、気配を猫のように慎重に気取ろうとする。
「……っ」
いったい、どれほどの時間が経っただろう。
不意に、低い声が頭上から降ってきた。
「みことは――幸せを享受するのが怖いのだな」
大きな掌が後頭部に添えられた。
「よく今まで、頑張ってきたな」
そして二度三度、優しい手つきで頭を撫でられる。
(なんで……)
密やかな努力を、認めてくれる言葉。
酷いことを言っているのに――それを拒否することなく言葉をまっすぐに受け止めてくれている。そして、私を認めてくれた。
(なんで……、この人は……)
「そんなに優しいんですか……」
グッと胸元に額を押し当てる。
『頑張った』――たったそれだけの言葉の筈なのに、全てを認めてくれたような気がした。
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