第3話 幽世の護人5

(いつか、私にも判る時が来るのかな……)

 そんなことを漠然と思いながら、私はみつねとやみね、二人と共に冥一郎さんの帰りを待つしかなかった――。


 ☽ ☽ ☽


 水墨の色よりも暗く。

 夜の闇よりもなお深く。

 幽世の空気が、重く身体にまとわりついてくる。

 ドロドロとした粘性を帯びた瘴気が、まるで括り紐のように首元を緩く締め上げていく。

 自分達が幽世と呼ぶこの世界は広大だ。

 向かう方角によって、情景や空気が一変し、一つ処として同じ場所は存在しない。

 ただ先代よりも遙か昔――久遠より〝護人〟の役目を担ってきた者達によって築き上げてきた知識を、情報を武器としてきた。言葉を交わし、酒を交わし、血を交わし――脈々と受け継いできた数多の武器を水泡に帰するつもりはない。こうして〝護人〟の役目を継いだ時から、覚悟している。〝護人〟としてのあり方を――。


「随分と奥まで来たな……」


 一呼吸するたび、肺腑の奥が濁るような錯覚を覚える。

 だが、その感覚は間違ってはいないだろう。

 これから向かう場所が、よりいっそう不快で醜悪な場所であることは違いないのだから。

 どれだけ清らかな水も、留まり続ければ腐れ水に変化するのと同様に、幽世も澱んだ場所はある。

 そしてその澱みの吹き溜まりこそが、他の魂魄を害する要因となる。

 まるで現世と合わせ鏡であるかのように、現世で起きたことは幽世にも影響を及ぼすのだ。

 殺人などの生死に関わる事柄。

 他者を怨み妬むような負の感情。

 悪意のない、悪意。

 無差別的な感情。

 そんな言葉に言い表し尽くせないほどの情報が現世から流れ込んできては、澱みの吹き溜まりとなる。

 だから、だ。

 あの日も――吹き溜まりの要因となりうる場所に赴いたのだ。


 ある山の麓に拡がる樹海。

 そこは、現世でも自殺の名所として有名な場所だった。

 鬱蒼とした木々に覆われた樹の海原は、昼間であっても常に薄暗く空気は湿っていた。

 樹海の入口。そこに辿り着くためには、決められた道を通る必要がある。

 けれどその道行く先々には、必ずといっていいほど目につく物が設置されていた。

「……。また同じ看板」

 一つの看板の前に立ち止まると、その文言を呟く。

「思い留まりましょう、か……」

 命の尊さを説き、自殺を防止するためなのだろう。

 より目に付きやすいよう看板という形で、設置がされている。

 だが残念ながら効果的かと言えばそうではないらしい。

 何故なら森の至る所には、死の残り香が色濃く漂っている。

 自殺を行使するために用いたと思われる道具の数々。

 土や枯れ草の上に混じった、もとは人間であったであろうモノの残影。

 人の身では解らぬであろう死の形。

 錆びた鉄。

 湿った土と草木。

 腐敗した骨肉。

 澱んだ水。

 様々な残り香が、森の中には渦巻き、そして抜け出せぬ死の螺旋の中で藻掻いている。

――山上他界。

 古来より死んだ魂は山々に向かい、他界……つまりは〝幽世あのよ〟に通じられた場所に行くと信じられてきた。山を神聖視し、現世の人間がそう説くのも無理はない。

 山も、海も――広大な自然物には確かに宿るモノはある。

 人が神だと崇め奉るモノも。

 人が悪霊や妖怪だと蔑むモノも。

 だが、そんなモノに大きな差異はない。

 善性も悪性も、結局のところ人の身の上での価値観で線引かれているだけで、そこに宿ったモノらにとっては微塵も関係のないことなのだから。

「ひぃ、ふぅ、みぃ……やはり簡単に連れて行けるものでもないか」

 一つの入口から樹海の奥に進むに連れ、闇がいっそう色濃くなっていく。

 風のさざめき、影の揺らめき。

 そしてそれに混じって身体に纏わり付いてくる魂魄に瞳を細めた。

「お前たちの居場所は、此処ではない。……それは充分理解しているだろう」

 幽世にも行けず、現世に留まることしかできなくなった残り滓。

 そういったモノに逃げ場はない。

 意味も理由もなく積もり、留まる。

 その様は、粉雪が降り積もりやがて古家や木々を押し潰すのと似ている。

 幽世に現れる穢れの吹き溜まり。

 現世と幽世の間では時間が傾ぎ、年月の概念などは関係がない。

 だがそれでも現世で起きたことは幽世にも必ず大きな爪痕を残す。だがら――、

「――導いてやろう」

 懐からおもむろに一つの道具を取り出した。

 それは一見どこにでもあるような盃だ。

 だが、それを足下に置くとすぐに盃に異変が起きた。

 カタカタと……まるで何かと呼応するかのように盃が細かく震えだした。

 そのまま割れてしまうかと思った刹那、カラカラに乾いていた盃の内側から液体が溢れ出す。

 同時に吟醸香にも似た芳しい匂いが周囲の死の香りと混ざりゆっくりと溶かしながら、並々と溢れて森を濡らしていく。


 みずしるべ はたて

 おちてしずむは ついのみち

 ねいなさりょ はたて

 むかいいれるは ついのみち

 うつしよ はたて

 かくりよ はたて

 あまつちわかつは とがのみち

 あわせねがうは けがれみち


 鎮魂の唄。

 それは薄暗い森の中に溶け、消えてゆく。

 誘いの唄。

 それは空めがけて開いた扇子によって更に広範囲に拡散していく。

 人知れず行われる儀式。

 それは人の世の裏に在る、秘匿されたもの。

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