後編 ボコボコ


、殴った。



 人を殴ることには単純な快楽がある。暴力で人を傷つける。その単純な物理接触に僕は未知の快感を覚えてしまう。きっとこの官能は僕の知らない何かに似ていて、それでも、今日この夜の震えるような背徳感が焦がすものをずっと忘れずにいるだろうと思った。

 僕の拳がマハラの顔面を殴れば、自然の物理演算としてマハラの頭は後ろに傾いで、僕の行動が結果として反応される。反応されることは快感で、その快感が手のひらの中で熱くなる。肉をぶつけたみたいな、ひらがなの羅列で表現されるような、形容のしがたい不気味で心地よい音が一寸遅れて耳朶に響く。バッドをサンドバッグに振りぬいたような鈍い爽快感。

 一瞬、冷静に戻りかけてしまう。暴行恐怖がマハラの顔で上書きされる。


 マハラは笑った。唇を横に薄く引き伸ばして、嬉しそうに笑みを浮かべている。


「えー、」


 僕はその間延びした声の意味を今知った。肯定。 


「良いじゃん」


 マハラの整った鼻から明るい鮮血がどろりと垂れる。手の甲で拭うと唇の上に真紅の跡が残る。その血で湿る赤い唇から称賛の声が漏れる。


「めっちゃ良い」


 血で濡れた唇を赤い舌が舐める。マハラは四本のごつごつした指を丁寧に畳んで、親指をしっかりと握り込む。拳を固めて振りかぶる。殴ったなら、殴られる。僕らは対等だった。


 頬に衝撃が来る。頭が揺れて体の芯がふらつく。クリーンヒットだ。さぞ気分が良いだろう、僕と同じように。二人の距離は手が届くほど近しかった。ぼんやりする頭を軽く振って、僕は告白する。


「僕、喧嘩するの初めてなんだよね」


「いいじゃん、忘れられんぜ」


 マハラの口元を汚す赤い血を見て、アドレナリンが分泌されるのを感じる。心臓が興奮するのを抑えられない。衝動を抑えきれずにマハラの襟首に掴みかかる。獣のような怒号が自分の肺から噴き出す。本心のままに言葉を吐き流すのは、初めての経験だった。


「ムカつくんだよなぁ! マハラぁ! 何で! お前みたいな奴がモテるんだよ!」


 怒りのままに放った右のストレートが今度は防がれる。返しで左のフックが僕の脇腹に刺さる。


「良いことばっかじゃねンだわ! 面倒くせぇトラブルがバカみてぇに起こってんだよ!」


 呼吸が乱れる。めり込んだ拳に顔が歪む。痛い。でもばくばくと唸る心臓と体を巡る血流がその不快感を打ち消して、それを上回る快感だけが脳を動かす。


「だとしてもさぁ!」


 力任せにマハラを押し倒す。背中を打ったマハラが苦悶の声を漏らし、それに乗じて追撃を加える。


「羨ましいんだよぉ!」


 マウントを取り、顔面に拳を振り下ろす。勢いのまま何度も両の拳で殴りつける。マハラは両腕を顔の前に並べて僕の連打を防いでいる。僕は荒く息を吐いてタガが外れたような乱打を続ける。この乱れた呼吸の間を見抜いて、腕の間から眼光がぎらりと光る。


「羨ましいとか言う前にやることがあるよなぁ⁉︎」


 勢い任せが災いした。振るった両腕を掴まれ、そのまま体ごと捻られる。僕たち二人は夜の歩道の隅で掴み合って転がる。次にマウントを取ったのはマハラだった。マハラは僕の首に手を掛けた。大きな手が僕の首を包んで、力強い指が喉を締め付ける。首を通る神経が圧迫されて脳がチカチカする。マハラは囁く。


「ちゃんとした美容院行けよ。サトル、オマエ顔は良いんだからさ、自分では気付いてないだろうけどさ。お前みたいな顔好きなやついるよ、絶対に」


 マハラの顔が近づく。マハラの長いつけまつ毛が取れかかっていることに気付く。意識が飛びそうになる。嫌だな。まだ伝えてないことがある。まだこの喧嘩が終わるのは嫌だな。

 力を抜いて、頭を後ろに倒す。指の締め付けは更に強くなる。マハラの笑みが支配者のケダモノじみて凄絶に歪む。僕だって口角が上がる。楽しいね。気持ち良いね。

 倒した頭を大きく振って前に! ヘッドバットがマハラの鼻先にクリティカル。「ぁアがっ!」悲鳴が上がる。喜悦。ぼた、と垂れた真っ赤な鼻血がマハラの顔をびしゃびしゃに汚す。僕は唾を呑む。モテる顔だと今思う。血は闘争の色、高揚の色。

 手痛い一撃を食らったマハラは距離を取って顔を拭う。僕は激しく吸って吐いて脳に酸素を補充する。

 まだこの行為は終わらせられない。すっかり怖くなくなった一歩前に、を始める。

 距離を測るような牽制は打たない。全身全霊を拳に乗せて打ち込み続ける。踏み込んで、ストレート。もう一歩、ストレート。更に前、ストレート。近すぎる? エルボー!

 僕は吠える、猛る。暴力と同源であるコミュニケーションの惨禍の中で言葉とこぶしが止まらない。

「僕はさぁ! ナンパなんかしたくなかったんだよねぇ! ホントはさぁ! 情けないけどさ! 僕のマンガが好きって言ってくれるメガネで黒髪ロングの子となんか偶然いい感じに知り合ってマイナーなマンガの話題で徐々に親睦を深めながら最後にラブレターで告白してもらって付き合いたかったんだよね! あはははは馬鹿みたいだ!」

 マハラは僕と逆の側で殴り返す。僕が攻めればマハラは悠然と受ける。僕が左から打てば右から。僕が上から捻じ込めば下から這い募る。僕が立ちはだかってマハラがみ相対する。

「俺はオマエにナンパやって欲しかったんだよなぁ! 軽薄で利己的でクソカスなナンパ野郎になって欲しかったんだよなぁぁ! 俺だって自己嫌悪みたいなのはあってさ! オマエが一緒に誰かを殴るようなカスやってくれたらよぉ! 救われる気がしてさ! 今こうして、こうして!」


 掴み合うような至近の殴り合いはお互いの体を痣まみれにしていた。抱き合う距離と変わらない二人は相手を掴んで、拳をめり込ませて、離さないまま、先に尽きたのは言葉だった。ボコボコになった二人は掛け値なしに満身創痍だった。


「他に言うことある……?」


「あー、もうねぇな……」


 マハラは笑うことすらやめていて、顎から垂れた赤い雫が打ち込んだ言葉の切実さを伝えている気がする。気がする、だけだったら絶望しちゃうなと思った。これだけ言葉を交わして、拳を交えて、お互いに伝えようとしたのに、結局のところ本当に伝わっていないのだとしたら、それは絶望的だった。でも今回は、僕はマハラのなにかに踏み込んだ気がして、マハラも僕のなにかを受け入れた予感があって、じゃあ今はこれでいいと思えて、納得することが出来た。


「ごめん。ありがとうね」


「いいって」


 二人の喧嘩は次の一撃で最後になるだろうな、という感覚があった。足ががくがく震えて、目の前が霞がかったようの朧気で、それでもお互いは対等なのだから、お互いを倒すために全霊を尽くしたいと思っていて、お互いの為に体を動かす。胴を捻って、腕を引いて、拳を固く握り閉める。お互いに肉薄して、最大の効果が狙える地点まで四肢を振り切る。お互いの利益がお互いの利益になるノンゼロサムの肉体行為。

僕の目に映るマハラの拳がゆっくりと目の前に近づいてくる。マハラの太い首から肩に繋がり流れるようなアウトラインの腕の筋肉が今更に美しく見えて、僕はここまで力強く殴れるかなぁと擦り切れるような視界のなかで考えた。でもここまで来たら振り抜くしかなくて、顔面に迫る並んだ四本の指と視界の端に映る親指以外のものは何も見えなくなっていた。

 クロスカウンターの形でお互いにぶち抜いた。

 気付いた時には首が捻じれていて、僕の唾と血が夜空にまき散らされている光景が見えた。意識がフルスイングされて吹っ飛んでいく直前だった。死ぬときってこんな感じなんだと思って、それは天に昇るような心地がして、

 あぁ、最高だ。










 次に目覚めた時の僕らは、薄汚い都会の裏路地に寝転がっている不審者そのものだった。夜闇の中で、僕たちは酔いつぶれた大学生と大差なく、幸か不幸か誰の目に留まることもなかったらしい。

 隣のマハラが目をぱちぱちさせながら鼻の下を手のひらで拭う。鼻血は止まっているらしい。マハラが呻く。

「今、何時だ?」

 僕は頬に手を当てながら、スマホを取り出す。口の中を切ったようだ。甘いイチゴのような味が舌に回っている。

「午前5時41分だね」

 随分と寝ていた。財布を盗られなかったのはツイてる。

「始発まで結構時間あるな」

 マハラはそう呟いて何事もなかったかのようにケロリとしていた。彼は明るくなってゆく空をぼんやりと眺めている。夏の日の出は早く、薄い陽光がビルの谷間から差している。夜が明けた。

 移り変わる薄明に二人で見惚れながら、僕はどうでもいい話を始める。

「マハラって名前なんていうの」

「名前? マハラだよ」

「いや、そうじゃなくて。マハラって苗字でしょ? 下の名前は」

「マハラだよ」

「え?」

可間かま真原まはら。マハラが名前」

「そうなんだ。僕ずっと名前で呼んでたんだ。知らなかったな」

「だから俺はサトルって呼んでたんだが」

 それっきり言葉が続かない。ビルの影が時計の針のように傾いていく気がして、それはそれでなんとなく心地よかった。マハラは僕と同じく頭に血が回っていない様子で再び話しかけてきた。

「どうする、どこで時間潰す?」

「あぁ、それね……」

 体がだるい。痣と血にまみれた体に陽光が染み入るように降り注ぐ。

「ってかナンパ失敗じゃね」

「そうだね……」

「カノジョ出来なかったじゃん」

「諦めるよ」

 重いけれど、すっきりした頭で答えを出す。僕はもう諦めることが許せる。でも、全てを諦めることは出来ない。せめて、ガラス張りのシャワールームの構造だけでも目にすることは叶わないかなぁ、と考えたところで、ふと気付いた。言葉にするには勇気がいるけど、今はもう。


「ねぇ」


 僕が欲しかったのは、コミュニケーションの相手だった。明るい空に目を向けて立ち上がる。マハラの方へ一歩踏み出す。 


「ラブホテル行かない?」


「えー、」


 答えたマハラの表情はまだ見えない。別に返事はどうだって構わない。つまり、一歩踏み出すことには暴力性があって、今それが出来るということが、僕にとって大事なことだから。

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ドロドロボコボコ 技分工藤 @givekudos003

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