第2話

「お待たせいたしましたぁー。こちらホットミルクのお客様ぁー」


「ハイ! ありがとうございます」


「ホットコーヒーのお客様ぁー」


「あ。はい」


「ごゆっくりどぉーぞぉー」


………ごゆっくり?

嫌味か。

こんな可愛い子と俺みたいな冴えない陰キャが一緒にいられるなんてラッキーですね時間の許す限り一生に一度あるかないかのこの逢瀬をお楽しみくださいっていう―――。


「………ォルさん」


失礼だ。接客が悪いと、金落とす気にもならな―――。


「トオルさん!」


「はいッ」


「あの、大丈夫ですか?」


返事の代わりに咳払いをする。

あの後、人目を避けるように裏門を出て、少し離れた喫茶店に彼女を連れて行った。

そして今、俺は彼女と向かい合うように座っている。

栗毛色の柔らかそうな髪、目鼻立ちの整った品のある顔立ち、チャームポイントと言ってもいいぱちりとした垂れ目。カップに少しだけ口をつけた目の前の女の子が、あのビスコだとは今でも信じられない。


「まだ私のこと、思い出せないんですか?」


キョトンと首をかしげる仕草も、あざとく見えない自然な愛嬌がある。


「トオルさん?」


「いや、大丈夫。思い出しました。半年前、確かに君は俺の前に現れて、ビスコと名乗りました。俺が小さい頃に飼っていたビスコだと。でも………、わかりますよね? 思い出すことはできたとしても、その、信じられないっていうか。だって、現実的にありえないだろう、君が、その―――」


「転生したってことをですか?」


そう、あの時彼女は俺の目の前でこう言ったんだ。


―――私、転生して、人間に生まれ変わったんです。


「アニメとか漫画の世界なら理解できる。でも現実ではあり得ない。だから初め聞いた時は冗談か、その………」


「なんですか?」


「詐欺………」


「クスッ。人を騙すのは、タヌキや狐です。安心してください。私は正真正銘の小型犬、ビスコです」


そういう問題じゃ………。

という言葉の代わりに、コーヒーを飲んで喉を潤す。


「トオルさん、足に火傷の痕ありますよね?」


「えっ!」


「小さい頃、湯たんぽが割れて、足に熱湯がかかって」


「どうしてそれを………」


「私、必死にペロペロしたんですよ。早く治りますようにって」


「確かに、そうだった………」


「初恋の相手は小学校の時のクラスメイト、朝日千春ちゃん」


「ええっ!」


「ノートに名前、何回も書いてましたよね。正月の書き初めにだって、朝日千春って、堂々と書いてました」


「あの頃はまだ若かったんだ………」


「悲しかったんですよ。私の片想いなんだって」


「片想いって………」


「トオルさん、改めて言います。私、トオルさんのこと、ずっと好きだったんです。生まれる前からずっと」


半年前、家の前でも同じことを言われた。思えばあの時、生まれて初めて告白というものをされた。

でも、全く信じられず、大学に合格したらって、適当に誤魔化して帰したのだ。


「今、壺とか水を売られたら、言い値で買ってしまう自信がある。間違いなくね。でも、正直に言おう。俺は今27歳だ。5浪してようやく大学に入って、もう4年生だ。その間、出会いなんて何ひとつなかった。女の子とまともに話したことさえがなかった。察しがつくだろ」


「………」


「全然かっこよくないし、頭の性能も運動神経も人並み以下。背だって高くない。性格は根暗かつ卑屈。それにね、俺は女の子が根本的に苦手だ。信用していないと言ってもいい。朝日千春のことだってそうだ。あの後ノート見られて、言いふらされて。結局クラスの女子全員から気持ち悪いって言われた。いつしかそれが学校中に広まって、自分の居場所は完全に無くなった。ああ、古傷が疼くぜ」


「………」


「つまり、四半世紀ほど生きてきて、彼女がいたことなんて一度もなかったんだ」


「………私だって、まだ誰とも付き合ったことないです」


「やめてくれ。そういう嘘をつかれると、余計に惨めな気持ちになる」


「………」


「………」


沈黙が訪れた。彼女も下を向いている。

ここまでだな。

そりゃそうだ。結局のところ、俺なんかと付き合う女なんて、この世に存在するはずがない。

俺は伝票を掴み、残ったコーヒーに口をつけた。


「私………、初めての相手は、絶対にトオルさんだって決めてましたから」


「ブフォーッ‼︎ ォホッ、ゴホッ‼︎」


「トオルさんッ! 大丈夫ですかッ⁉︎ 熱くないですかッ⁉︎」


「大丈夫、大丈夫だ」


「脱いでください。ペロペロしますから!」


「ペロ………、ペロは遠慮する。ゴッホ、ゴホッ!」


彼女は持っていたハンカチを、俺の濡れたスーツに当てがいながら、こう続けた。


「トオルさんは、絶対に、絶対に優しい人です。何より捨てられてた私を拾ってくださったじゃないですか」


「それは俺に友達がいなかったからだ」


「夜はいつも散歩に連れてってくれました」


「夜ならいじめっ子に会わなくてすむ」


「遠足の時だって、そばにいてくださいました」


「班行動が嫌だったから仮病使って休んだんだ」


「とにかく! トオルさんは犬の気持ちがわかる優しい人なんです‼︎」


「………………犬?」


微妙な空気が俺たちを包み込む。俺はこの後、何を話すべきなのか思い浮かばなかった。ただ、彼女は一心に俺の目を見つめていた。


「わかりました。今日は出直します。でも、ひとつだけお願いがあります」


「何?」


「撫で撫でしてください」


「………へ?」


「あの頃みたいに、ビスコ〜、ビスコ〜って言いながら」


「聞いてくれ。俺はな、異性にまともに触ったことさえない。ましてや、な、撫で撫でなんてハイレベル過ぎて――」


「撫で撫でしてください。早く」


彼女は頭をこちらに傾け、俺を待っている。

ゴクリ。

思わず唾を飲み込んだ。周りを見ても、俺たちを見ている客は誰もいない。

俺は恐る恐る手を伸ばし、そっと彼女の頭の上に手を置いた。

彼女の体温が手の平に伝わってくる。

知らなかった。人って、こんなにあったかいのか………。

驚きに近い感動があった。

そのまま頭の後ろへ流すようにゆっくりと手を動かした。

初めて触るはずなのに懐かしい。小さい頃、ビスコを撫でている時のことを思い出した。


「ぐすっ………、ひっく、………ひっく」


彼女の肩が震えていた。


「ビスコ………」


「トオルさん」


彼女の顔が上がる。

垂れ気味の目尻から大粒の涙がこぼれ落ちた。

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