2.崩壊の足音

「こんにちはイリス先生!」

「あらあら、いらっしゃい。チガヤさん」

 チガヤが訪れたのはアルベルネ孤児院である。孤児院から頼まれていた品を鞄に詰め込んできたチガヤは、孤児院の入り口に立っていたイリス・アルベルネ院長へと声を掛けてから鞄を降ろし、ふぅふぅと肩で息をした。

「毎回、この坂道が……ぜぇっ……」

「ごめんなさいね、丘の上にある孤児院で。あら、アルテさんは護衛かしら? お疲れ様ね」

 イリス院長がチガヤの後ろへと会釈をすれば、少女の後ろにいたアルテ・ベルリアが苦笑しながら軽く敬礼をする。

「だから荷物を持ってあげると言ったのに、チガヤちゃんったら」

「い、いえ、これは私のお仕事なので……っ! それに、調子に乗って余分に作ったものも詰めてきちゃったので、自業自得ですし、体力もつけなきゃですし……」

 なんとか息を整えたチガヤが室内へ入る為に荷物を抱え直したその時、孤児院の中からもう一人見知った女性が出てきた。

 その顔を見て、チガヤはパッと顔を明るくする。

「プリシアさん! こんにちは!」

「チガヤさん……ふふ、いらっしゃい。会いたかったわ」



 プリシア・ハードンは現在、アルベルネ孤児院に居候をしている。

 ロキからの頼みなのだそうだ。プリシアの実家であるハードン家が現在取り調べを受けている最中であると同時に、グレイスの行方が未だにわからず、狂信者集団『赤の使徒』が今度どのような動きをするのか未知数であるため……と、ロキは言っていたが、おそらくそれ以外にも様々な理由はあるのだろう。とにもかくにも現状のプリシアは、エルドラン邸の使用人夫婦と共に孤児院へと身を寄せ、イリス院長の手伝いをしているそうだ。

「ということは、今はお屋敷に誰もいない状態なのですね」

「オルドさんご夫婦が庭の手入れをしに通っているだけの状態ね。主人も荷物を取りに度々戻ってはいるそうだけれど……」

 孤児院のキッチンで茶菓子の用意をするプリシアを手伝いながらチガヤがそう聞けば、彼女は少し寂しそうながらも笑って答えた。

 うーん、とチガヤは唸る。

 ここ最近のロキは、ほぼ観測所から出ない生活をしているのだ。眠るのは観測所内の仮眠室を利用しているようであり、食事はどこからか買い込んできた携帯食料で適当に済ませてしまっている。それを見かねたチガヤと、ロキと同じく観測所に寝泊まりするようになったジャンが、当番を決めてロキの分まで料理を振る舞っている状態だ。あまりにもロキが観測所内に留まってる為、彼がプリシアに会いに行けていないのはチガヤから見ても明白だった。

「あの、ロキさんはお仕事が忙しいみたいで……っ! 決してプリシアさんのことを心配していないわけではなく……っ!」

「大丈夫よ、心配しないでチガヤさん。あの人がわたくしやオルドさん夫婦のことを思って孤児院へ頼み込んだということは、わかっているの。最近は物騒な事件ばかりだものね。あの人の立場としても、少しでも人目があって安全なところに居て欲しいと思うのは当然でしょう」

 物騒な事件、というのはチガヤも聞いている。

 各所で原因不明の重傷で病院に運び込まれる者が突如増えた、という話だ。全身に焼け爛れたような症状が現れ、運び込まれた患者は口々に「炎が見える」と幻覚症状を訴える。グレイスが行方不明になった途端に発生するようになった為、『赤の使徒』が何かしら関わっているのではないかと噂されているようだが。

 その時、窓がガタガタと鳴る。外を突風が吹き付けたようだ。外にいる子供達がきゃあきゃあと騒いでいるのが気になってチガヤが窓から外を見れば、突風に煽られて干していたシーツ類が飛ばされそうになっており、傍にいたらしいアルテが子供達と一緒に押さえているところだった。チガヤも慌てて窓を開けて身を乗り出す。

「アルテさん、大丈夫ですかっ?」

「危ないところだったけれど大丈夫! あ、院長さん、乾いているみたいなので取り込んじゃいましょうか?」

「助かるわぁ、お願いしてもいいかしら? ……にしても、ここ最近の風は変ね。こんな吹き方をするような季節でもないのに」

 イリス院長が不思議そうに空を見上げる。

 そんな中で、チガヤは物干し竿に真っ黒な鳥が留まっているのを目撃していた。

 あ、とチガヤが小さく声を上げる。風神だ。先程の突風は風神が起こした浄化の風だったのだろう。風神はじぃっとアルテやイリス院長、それに子供達を見下ろした後、羽ばたいてどこかに飛んでいってしまう。

「風神様のこと……本当に誰も見えていないみたい……」

 ボソリと呟く。

 ロキから話は聞いていたが、改めて神々が見えている自分は少しおかしいのかもしれないと、チガヤはこの時こっそり自覚した。


 ×××


「確かにチガヤに任せるとは言ったが……増えたな、いろいろと」

 いつもの見回りとして泉へと足を運んだロキが、感心したように呟いた。

 泉の淵に座り込んでいた青年が胡乱げにロキへと目を向ける。そんな青年の白髪は、チガヤが出かける前にしていったのか、ゆるやかな三つ編みにされており髪紐で括られている。更にはここ最近は冷えるからと、青年の肩にはショールが掛けられたままになっていた。

 他にも青年の寝床には余り物の布を継ぎ接ぎしたようなクッションが新たに置かれていることを知っているロキは、苦笑しながら青年の頭をわしゃわしゃと撫でる。

「チガヤは凄いな、これをたった数日で作るなんて。ずいぶんと張り切ったんだな……まぁ俺としては、殺風景すぎたお前の周りに物が増えてくれて、かえって安心するよ」

 青年は少し不服そうだったが、ロキの手を振り払うことはしない。視線を戻し、泉の水面を眺めている。

 ロキの目には見えないが、そこには水神がいるのだろう。青年の様子からして、未だ意識は戻らないままのようだ。

 そして、青年自身の不調も依然として改善されたわけではない。目の下の隈は数日経過しても黒々としていて消える様子もなく、相変わらずあまり眠れていないようだ。

 普段から不眠の傾向があった青年だったが、ここ最近の不眠状態が今までとは違うようであることは、ロキも気付いている。手を離し、こちらを見ようとしない青年にやれやれと息を吐く。

 その時、泉へと駆けてくる足音が聞こえてきた。

「火神様! ロキさんも! ただいま戻りました!」

 パタパタと駆け寄ってきたのはチガヤである。孤児院から帰って来た少女は、笑顔で駆けてきてはぺこりと頭を下げた。

「ロキさん、さっきジャンさんが気晴らしに外へ出たいって言っていましたよ。ぐったりした様子でした」

「あー……ジャンの護衛まで任せられる人数がいないからな。ただでさえ一人欠けて人員不足だし……とは言え、ジャンもずっと缶詰状態だし、仕方ないな。チガヤと入れ違いでアルテと行ってきてもらうか」

「あと、それから、これ! プリシアさんからです!」

 と、チガヤが肩に掛けていた鞄から紙袋を取り出す。

 中身はプリシアが作った焼き菓子だ。ロキは少しだけ驚いた顔をすると、すぐに目元を和らげた。

「……彼女は、元気だったか?」

「はい。孤児院の子供達ともすっかり仲良くなったそうで。あの、でも、ロキさんと会えなくて寂しそうでした。なのでロキさんも会いに行かれては」

「そうできたら良いんだが」

 チガヤから紙袋を受け取りながら、ロキは苦笑する。

 その顔からは、今はまだ会えない、という意思が感じられる。それほどに多忙ということなのかと、ロキの意図が読めないチガヤはがっくりと肩を落とす。

「あ、そういえば、孤児院で風神様を見かけましたよ」

「そうか、それなら余計に安心だ。まだ暫くは何が起こるかわからない。チガヤも用心していてくれ」

 そう言い置いてから、一旦事務室へ戻る、とロキは泉を後にする。おそらくジャンとアルテに指示を出しに行ったのだろう。


 そんなロキの手元には、先程チガヤが渡した紙袋と、チガヤにも見覚えのある杖のような棒が握られている。

 チガヤの故郷へと向かった先にもロキが持っていた、あの細長い棒だ。チガヤが後から聞いたところによると、あの棒には内部に剣が仕込まれているのだそうだ。

 つまり、それを泉の見回り時にまで持ち込む程に、ロキにとって今は厳戒態勢だということで。


 泉へと目を向ければ、そこには未だ意識が戻らずにぐったりしたままの水神がいる。そんな水神の姿と、ロキの様子に、物騒な事件の噂も相まって、どうしても言い知れない不安感がじわじわと心の内に湧いてくる。

 と、着ているワンピースの裾をくいっと引っ張られた。

「火神様……? どうされました?」

 青年がこちらを見上げている。

 目線を合わせるべくその場にしゃがみ込めば、青年は口を開くことなくチガヤの頭をわしゃわしゃと撫でてきた。

 きょとんとするチガヤだったが、それが青年の気遣いだとすぐに理解する。無自覚だったが、不安感が顔に出ていたようだ。撫で方が多少乱暴なのは、参考にしているのがロキだからだろう。

 チガヤはふふ、と小さく笑う。

「ありがとうございます、火神様……あの、またお隣で仕事をしてもいいですか? 道具を取ってきますね」

 青年から返答はなかったが、嫌そうではなかったので大丈夫なのだろうと解釈する。チガヤは立ち上がると自分の小屋へとパタパタと駆け入った。

 孤児院へと持って行っていた鞄をまず片付け、裁縫箱を用意する。それからいくつかの材料を準備し……ふと、小屋に運び込んでもらっていたクローゼットを、そっと開けた。


 クローゼットの奥の方には、真白のドレスが掛けられている。

 この泉に最初に来た時に着用していた、生贄用の花嫁衣装だ。


「……」

 生贄になることをやめて生きている現状、本来ならば処分するべきなのだろう。しかし、どうにも捨てられず、夜中にこっそりと修繕を繰り返している。

 それに、ドレスを修繕している間は、冷静に物事を考えられる気がするのだ。

「……神様たちへ、私が、できること……」

 ドレスに触れ、呟く。

 小さく息を吐いて、パタンとクローゼットを閉じ、裁縫箱を抱えて小屋を出る。


 泉の傍にいる青年は、同じ場所で座り込んで俯いていた。

「火神様? ……眠っていらっしゃる?」

 チガヤが顔を覗き込めば、青年は目を瞑ってうつらうつらとしていた。

 そっと肩を引き寄せてみれば、力が抜けているのか簡単にチガヤに寄りかかってくる。

 チガヤは小さく微笑んで、裁縫箱を横に置くと青年の体を倒し、彼の頭を自分の膝に乗せた。


 ×××


「なんで私があんたの用事に付き合わないといけないのよ」

「所長命令だよ! いいじゃん、俺だって偶には外出たい!」

 チガヤの護衛として一緒に観測所へ戻った途端、再び街に繰り出す羽目になったアルテが不満気な声を上げ、それに対してジャン・ユライドが両手を上げながら言い返した。

 ジャンはロキと同時期から観測所内で寝泊まりしている。アルテやアドソン兄弟と違って軍人ではなく、泉に流れ着くものを調べる研究者として観測所に勤めているジャンは、戦う技術がなく自分で護身ができない。それ故に、ロキから騒動が静まるまでは観測所内に避難していろと指令を出されている。

 しかし、普段は出不精であるジャンとしても、観測所に何日も軟禁状態なのはさすがに堪えていたようだ。久々の街の空気に、ジャンは凝り固まった背筋を気持ちよく伸ばす。

「アルテ、本屋行こう、本屋! 取り寄せてた論文書が大量に届いているはずなんだよ。持ちきれないから手伝って」

「はぁ? 私に荷物持ちさせる気? というか、ここ最近はひたすら本を読み漁ってるみたいだけど、どうしたのよ。しかも医学書ばっかり。あんた、医者になれっていう親からの圧力が嫌で家出同然で研究者になったとか言ってなかった?」

 呆れながらアルテが一気に言えば、ジャンはむすりと口を尖らせる。だが目は真剣だった。

「最近のロキ所長ってさ、いろいろと無茶しすぎじゃん? チガヤちゃんとか泉の御方のことなら所長の立場的にも、まぁわかるけど……エリックのことだって……」


 エリック・ハードンは現在、ロキ・エルドラン殺害未遂犯として、軍の拘置所に拘留されている。

 エリックが軍に拘束されたことについて、観測所内で一番に動揺したのがジャンだった。ジャンから見て、エリックとロキはお互いに確固たる信頼関係が築けていると思い込んでいたからだ。

 だというのに、エリックはロキの信頼よりもハードン家からの命令の方を取り、ロキを殺害しようとした。

 そして、それに対してロキはというと、事前にエリックが自分の命を狙ってくるとわかっていながらエリックを確保する為に、事もあろうか自分自身の命を囮に使ったと言うではないか。


「前々からその気配はあったけど、所長は自分の命を蔑ろにしがちだよ。見ていてヒヤヒヤするっていうかさぁ。だから、不本意ではあるけど、俺が医療方面で支えられるようになれたらいいなって思っただけ。不本意だけど。本当に不本意だけど」

「へぇ、意外とちゃんと考えてるじゃない、アンタ」

「いやニコニコすんじゃないよアルテ、俺は真剣なの! というか、自分のこと粗末にする所長も所長だけど、エリックもエリックだよ。実家のことで悩んでるなら、俺たちにちょっとぐらい相談してくれても良かったよね! あいつ、帰ってきたら一発殴ってやるんだ!」

 悔しい気持ちを思い出したのか、ジャンは拳を握って声を張り上げる。

 そして勢いのまま、本屋まで早足で行ってやろうと大きく一歩を踏み出す。

 が、そんなジャンの気持ちとは裏腹に、唐突にアルテに襟首を掴まれてしまった。

「ぐぇっ?! げほっ、ごほ、ちょ、何だよアルテ……」

「ちょっと黙ってジャン。何かおかしい」

 抗議しようと振り返ったジャンは、アルテが表情を引き締めて辺りに警戒の視線を向けていることに気が付き、慌てて口を閉じた。ジャンも周りを見渡して、すぐに異変に気が付く。

 誰もいないのである。普段はそこそこに人通りがある道だというのに。

「……あのさ、アルテ。俺、ちょっと嫌な推測立てちゃったんだけど」

「私もなんとなく察したけれど、喋って」

「最近流行っている事件ってさ、全身火傷状態の被害者が倒れているのを発見されて事件が発覚してるらしいけど、実際に燃えている現場は誰も目撃してないじゃん? それってさ、もしかしてだけど」

「この状態になっていたから、誰にも目撃されなかったんじゃないか、って……?」

 ジャンとアルテが、お互いに顔を見合わせる。

 次の瞬間、二人は踵を返して走り出した。これから向かう予定だった方角から、突如として黒い靄のようなモノが建物の影や隙間から溢れるように湧いて出てきたからだ。

「何アレ何あれ?! お化け?!」

「わからないけど、とにかく肉弾戦で勝てそうな部類じゃないわ! とにかく逃げるわよ!」

「逃げるってどこへ?!」

「とりあえず観測所!」

 言い合いながらも足を止めずにいれば、四方八方から黒い靄がどんどんと湧いてくるのを見てしまう。それらの靄は次第に人の形へとなり、しかし輪郭が定まらずに揺らめいていて、まるで黒い炎が人の形になりながらも燃えているかのようだ。

 もはや後ろを振り返ることはできなかった。今振り返れば、道いっぱいに黒い影がひしめき合っている光景が容易に想像できてしまうからだ。

「ちょっ……待って……! 俺、そこまで走れないし……っ!」

「踏ん張りなさい! 肉弾戦が通じる相手だったとしても、これだけの数、さすがに私でも――」

 その時、アルテの声が途切れた。

 ジャンの腕を引っ張ろうと僅かに視線を後ろにした時、真横によく見知った顔があり、ソレと目が合ってしまったからだ。

 その顔は知っている。毎朝、鏡で見ている、自分の――

「え? わた」

「アルテ駄目だぁ!」

 走る足を緩めかけた時、ジャンが突進するようにアルテの背を押した。

 おかげで視線が外れた。驚いてジャンを見れば、ジャンはほぼ目を瞑りながらアルテの背中を押し続けていた。

「よく、わかんない、けどっ! こういうのって、目を合わせちゃ駄目だ! たぶん!」

「っ! アンタってば、時々変に勘が働くわよね……! 助かったわ、このまま観測所に逃げ込むわよ!」

「う、わ、わっ!」

 ぐいっとジャンの腕を引っ張り、アルテは全速力で走る。

 ジャンは転ばないように必死に足を動かした。


 ×××


 飛び込むように観測所へと駆け込んできたジャンとアルテを、驚きながらユークリッドとフィルが出迎えた。

「どうしたんだ二人とも」

「何かあったのか?」

 駆け寄って問いかけるアドソン兄弟には答えずに、倒れるように床に手をついた二人は同時に後ろを振り返った。

 そこには黒い影はなく、どうやら振り切れたようだと、二人はホッと胸をなで下ろす。

「ぜぇっ、ぜぇっ、ぐへ、きっつい、息がっ」

「さすがに、私も……っ、ちょっと、水くれない……?」

「おいおい、本当にどうした」

「動けそうにないか? ちょっと待ってろよ」

 ユークリッドが二人の背を撫で、フィルが慌てて水を取りに行く。そしてカップを二つ持ったフィルが戻ってくるのと一緒に、騒ぎを聞きつけたロキも駆けつけてきた。

「ジャン、アルテ、何があった。話せるか?」

 ロキが片膝をついて二人に目線を合わせれば、水を受け取って一気飲みしたアルテがなんとか息を整え、口を動かした。

「正体不明の、何かに、追われました」

「なんか黒い炎みたいな、影みたいなやつ! ぜぇっ、囲まれそうになって、逃げてきたっす!」

 続いてジャンも息絶え絶えながらも報告し、水を飲みきると「もう一杯!」とフィルにカップを押し返した。

 その間に、追われたという言葉に反応したユークリッドがすぐに観測所の外を確認しに行く。が、何も見つけることはできなかったようで首を捻る。

 ロキは険しい顔をした。影、と呟き、立て上がって腕を組む。すぐに思い出したのは、風神の言葉だ。


 旧世界の残留思念。

 旧世界で死んでいった人間たちの思念が影となって、今の世界の人間を引きずり込もうとしている――



「……歴史の歪みが、大きくなっている……」

 小さく呟き、手のひらを握る。

 風神ですら詳細がわかっていないという影が、風神の浄化を受けているはずの部下にまで襲いかかってきたのだ。この歪みを止めるための手立てが未だ見つかっていないというのに、事態は刻一刻と悪化している。

 しかも、追われていた二人の様子を見る限り、観測所のつい目の前まで迫ってきていた可能性がある。

 ハッとして、ロキはすぐに顔を上げた。

「フィル、ユークリッド、屋上へ行って観測所周辺を確認してくれ。アルテとジャンは事務室で待機、俺は泉へ向かう!」


 ×××


 一方、泉の淵では、青年が唐突に目を覚ましていた。

 ガバリと体を起こし、素早く辺りを見渡す。青年に膝を貸していたチガヤは、驚いて裁縫をしていた手を止めて顔を上げた。

「わっ、火神様、起きられて……ど、どうしました?」

 慌てて針を仕舞って縫い物を横に置き、青年へと向き直る。そして、寝起きにしては異様な様子である青年を見て、首を傾げた。

 何故か、辺りを警戒している。今ここにはチガヤと青年しかいないはずなのに。

「火神様? どうされたのですか? ロキさんなら今は事務室の方に――」

 言いかけた時、青年が突然チガヤの体を抱きしめた。

 驚いて声を上げかけたが、チガヤの声を遮るように、パァンッと発砲音が響く。

 その音は何度か聞いた。何度も聞きたくない音だ。

 チガヤの目の前で、青年の右肩から鮮血が爆ぜるように飛び散った。

「ひっ……火神様っ!」

 飲み込みかけた声で、青年を呼ぶ。

 一体何が起こったのか。あの音は、銃の発砲音だった。それがわかった瞬間、チガヤは泉がある広場の、さらに奥、周りの森がやけにざわついていることに気が付いた。

 よく目を凝らせば、森の木々の影が、不自然に揺らめいている。得体の知れない何かが森の中にいて、それも大群で、広場を取り囲んでいるのだ。

 青年もそれらに目を向けているようだった。撃たれた右肩から一瞬だけ赤い炎が上がり、瞬時に傷口を再生させながら、チガヤを守るように強く抱きしめる。

「待って、火神様、それだと火神様が……っ」

 言い終わらない内に、今度は何発も発砲音が鳴り響く。その全てが青年へと集中し、青年の背に銃弾が撃ち込まれる振動がチガヤにも伝わってくる。

「火神様! や、やめて、どうして、こんな」

 青年の血はすぐに炎となり傷を再生していくが、それでも耐えきれない様子で顔に苦痛を浮かべる。

 そして、チガヤを抱きしめていた腕の力が抜けた。

 その瞬間に、また、発砲音が――

「チガヤっ」

「え」


 泉から声がした。

 それと同時に、水しぶきが降りかかり、そして、どさり、と何かが地面に落ちる音。

「水神様……?」

 声は、水神だった。

 しかし泉の中に水神の姿がない。おそるおそる何かが落ちた方角へと目を向ければ、そこには少し大きくなった水神が、打ち上げられた魚のように横たわっていた。

「み、水神様!」

 咄嗟に水神の体を掻き抱いた。

 まさか、泉から飛び出して銃弾を受けたのか。抱き上げた水神の体からドクドクと流れているのが真っ赤な血だと気が付いて、チガヤはざっと青ざめる。

 そうしている間に、森の中の気配がより深まっていく。ガチャガチャという音は、次の銃弾を装填している音なのか。

 恐怖で震えるチガヤが顔を上げた、その時突風が広場を吹き付けた。

「お前たち、伏せてろ!」

 ロキの声だ。先に動いたのは青年であり、水神ごとチガヤを抱きしめ直して地面へと伏せる。その刹那、ロキが手にした棒から刃を抜き放ち、大きく真横へと薙ぎ払った。

 ゴウッと突風が吹き荒れる。突風は森へとぶつかり、存在感を増していた何かを吹き飛ばすように霧散させた。

 その間にロキが二人の元へと到着する。刃を森へと向けながら、ロキは声を荒上げる。

「風神! どうなってるんだ!」

 ロキの呼びかけに応えたのは、空から急降下してきた鳥だった。風神は羽ばたきながら宙に留まり、嘴を開く。

「駄目だ、浄化が追いつかない! あいつらの狙いはこいつと、チガヤだ! とにかくチガヤを逃がさないと!」

 唐突に名指しされ、チガヤは息を飲む。それと同時に、青年が抱きしめる腕により一層力が入った。

 何故かはわからない、が、チガヤはこの時、青年が何をするのかわかってしまった。

「ま、待って、火神様、それなら火神様も――」


 チガヤの静止は聞き届けられない。

 水神ごとチガヤを抱き起きた青年は、勢いよくチガヤを泉へと突き飛ばした。

 チガヤが片手を伸ばすも、青年には届かない。バシャンと泉へと背中から落ちたかと思えば、そこはもう水の中だ。

 そしてチガヤは水神を抱いたまま、引きずり込まれるように泉の底へと流されていった。



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