1.影

 1.影


 耳元で悲鳴が聞こえる。

 のろのろと顔を上げれば、辺りはごうごうと燃える炎に包まれていた。

 攫われてこの部屋に放り込まれた自分と同じ歳ぐらいの子供達が、次々に燃えていく。炎への恐怖と肌を焦がす苦痛による悲鳴が部屋を埋め尽くし、耳が痛い。熱さと煙に意識が朦朧とする中、部屋の奥へと目を向ければ、そこには大きな獣がいる。

 狼のような姿だが、体毛が炎のように揺らめき燃えている。大人の人間ほどもある体躯は、動けないようにと四肢が鎖で繋がれ、背には何本もの槍が突き刺さっていた。

 痛そうだ、と、思った。

 恐怖よりも先に、同情した。

 他人に優しいのは良いが自分のことを蔑ろにするな――と、兄からよく叱られていたのを思い出す。それでも、愛していたはずの人間たちに裏切られ、こんな風に捕らえられ、無理矢理に力を奪われて……そしてその力の容れ物を選別する為にと、殺したくない子供達を焼き殺してしまっている。そんな、かの神の心情を考えれば、当時は幼く無力だった自分は、ただただ同情することしかできなかった。

 そうしている内に、気が付けば、動けるのは自分だけになっていて。

 気が付けば、狼のすぐ傍にまで、無意識に自分の足は動いていた。

 弱っている狼に、手を伸ばす。炎のように逆立っている体毛に触れ、熱さを忘れて狼の額を撫でた。

 その時、狼と目が合った。

 狼の瞳はゆらゆらと揺れていて、瞳の中にも炎があるのか、とぼんやりと考えた。


「駄目よ」


 ハッとして、意識が引っ張られる。

 景色は変わり、自分は雪の中で蹲っている。頭を持ち上げれば、辺りは打って変わって一面の雪景色だった。

 ただし鉄格子はない。景色が似てはいるが、自分が捕らえられていたあの牢獄ではない。


 ここは、ああ、記憶の夢の中ではない。


 勢いよく立ち上がって辺りを見渡す。

 視界に映り込んだのは、足跡一つ無い雪原と、そこに佇む、白い外套を頭から被っている女性の姿。

「駄目よ、ロアン。起きて」



 がばりと飛び起きた。

 いつもの部屋と、いつもの景色。窓の外に目を向ければ、まだ日の出前だ。

 ぜぇぜぇと息を切らしながら、胸を押さえる。何百年も前に兄から与えられた古傷がズキズキと痛む。

 そして悟った。


 もうおそらく、時間が無い。

 早く、自分が死ねる方法を探さなければ。


 ふらつく足で、小屋の外へと出る。

 泉へと向かえば、そこには力なく水面に浮かぶ水神の姿があった。


 ×××


 ロキ・エルドランによって軍に身柄を拘束されたアルクハイト・グレイスは、放心状態のままに拘置所へと移送されていた。

 移送する為の軍用車に乗せる際に何事かを叫び喚いていた老人が、車を走らせた途端に静かになり、車内は異様な空気が流れていた。運転手席と助手席に座る軍人の二人は、グレイスを刺激しないようにひそひそと会話をする。

「……なぁ、何か聞こえないか」

「何がだ? ……ああ、じいさんか? 確かに、何かブツブツ言っているな。何を言っているのかまではわからないが」

「いや、それもあるんだが、何か外の方から――」

 と、運転手が突然急ブレーキを踏み込む。

 激しく車内を揺らしながら急停止し、助手席に座っていた軍人が思わず声を上げた。

「どうした!?」

「わ、わからない! 何かが飛び出してきたように見えたんだが……何も、いない? いや、確かに、人影のようなものが……」

 運転手が困惑しながら車から降りて前方を確認しようとする。

 が、その時、後部座席にいるグレイスが突然叫び声を上げた。

「やめろ、来るな! 来るなっ!」

 驚いて二人とも後部座席を振り返る。先程まで放心状態だった老人が、顔を引き攣らせて窓の外を見ている。

「なんだ? どうしたんだ?」

「お、おい、前見ろ、前!」

 助手席に座っていた一人が気が付き、前方を指差す。

 気が付けば車の周りを、何かが取り囲んでいた。

 人の形をしてはいるが、ゆらゆらと揺れている。実体が無い影が、まるで燃えているかのように、ゆらゆらと。

 それらを見た運転手が、顔を強ばらせる。

「あ、ああっ……」

「よくわからないが逃げた方がよくないか?! 車を出せよ、早く!」

「あれ……あれは、俺か? 俺なのか?」

「おい、どうしたんだよ!」

 真っ青になって硬直する運転手を揺さぶりながら、助手席の軍人は前方を見る。

 そこに、自分そっくりの顔を、見たような気がした。



「――グレイスを移送していた軍人二人が重体だと?」

 報告を聞き終えたロキは怪訝な表情で聞き返した。

 ロキにその報告をしたのはユークリッド・アドソンだ。そのユークリッド自身も眉をしかめながら、速報を纏めた報告書を読み上げる。

「命までは無事だったようですが、全身火傷、だそうです。アルクハイト・グレイスが車内から消えていた為、『赤の使徒』が軍用車を襲撃してグレイスを奪取し、被害者達へ火を放ったのではないかと、軍本部は推測しているようですが……それにしては車内に火を投げ込まれた形跡はなく、ただ全身火傷状態の二人が車内から這い出た状態で倒れていたそうです。それに、グレイスが乗っていたはずの後部座席の扉は鍵がかかったままだったとか」

「重体の二人は? 意識不明の状態なのか?」

「発見当時は辛うじて意識があったそうですが、酷く錯乱していたようです。何かに怯えている様子で……発見時の発言が、しきりに炎が見えると訴えていたのと……『死んだ自分に殺される』、と……? どういう意味ですかね?」

 読み上げながら首を傾げるユークリッドだったが、ロキは何か思うことがあるのか僅かに視線を落とす。暫し考え込み、「全身火傷か……」と呟く。

「……その二人の経歴はわかるか? 顔写真があれば助かるのだが」

 ロキの問いかけに応えたのはユークリッドの弟であるフィル・アドソンだった。自分の机をごそごそと探ったかと思えば、一枚の写真を取り出してくる。

「二人なら俺の同期だったんで、同期内で撮った集合写真であればあります。この二人です」

 指し示された二人の顔を、ロキはじっと見つめる。瞬時に考えを巡らせ、フィルへ写真を返すと事務所内にいる全員を見渡した。

「詳細が判明しない限りは対処のしようがないが、軍に重傷者が出たことは事実だ。グレイスの行方がわからないことも含め、暫くの間は全員警戒するように。勤務外でも一人での行動は極力避けるようにしてくれ」

 全員が頷いたことを見届け、ロキは事務所を後にする。


 泉へと繋がる扉を潜った瞬間、バサリと真黒の鳥がロキを目がけて飛んできた。ロキが腕を出せば、その腕に停まり、器用に肩へと飛び移ってくる。

「風神、何が起きているんだ」

 鳥が嘴を開くよりも先に、ロキが素早く問いかける。

 真黒の鳥――風神は、嘴を開けると言葉を発した。

「わからないよ。こんなことは初めてだ。繰り返してきた今までで起きたことはない」

「全身火傷を負った二人は、ローシュの記憶で覚えている限り……世界崩壊の際にあいつの炎で焼け死んでいた者たちだ。歴史が繰り返された影響だとしても、まだ時期ではないはず。あまりに突然で不自然じゃないか」

「やったのは影だよ」

「影?」

 ロキが聞き返せば、風神は小さな頭を傾げ、「うーん」と唸る。そして、風神にしてはやけに歯切れ悪く答えた。

「そうとしか言いようが無いんだよね。旧世界の残留思念、と言うべきか……歴史を繰り返させる為に、旧世界で死んでいった人間たちの思念が影となって、今の世界の人間を引きずり込もうとしている……あの二人は、その影に旧世界の自分たちを見てしまったのさ。だから、この先に起こりえる自分たちの死因に引っ張られて、予定よりも早く炎を引き寄せてしまった、こうなってくると、歴史が加速するだけじゃなく、順番すら歪んで来ちゃうだろうね」

 風神の言葉を黙って聞きながら、ロキは険しい顔をする。

 つまり、今回の事件は人為的なものではなく、神の力が関わってくる災害だというのだ。敵は『赤の使徒』のような人間ではなく、崩壊した世界にいた、かつての自分たちの思念そのもの――

「……その影が発生する条件は」

「まだわからない。でもボクの風で浄化した場所には近付かないみたいだ。影に襲われた二人も、ボクが飛びつけたおかげで何とか生きてはいただろ? とりあえずは手始めに泉と、ついでにこの観測所周辺は浄化しておいたから、まずは安心しなよ。あと何処を浄化しておけばお前は助かる?」

「それなら孤児院を。あそこは街の避難所にもなっている」

「ならそうしよう。じゃ、ボクは忙しいからこれで。水神とチガヤのこと、よろしく頼むよ」

「は? 水神?」

 咄嗟に聞き返したが、その前に風神はロキの肩から飛び降りて羽ばたき、森の向こうへと飛んでいってしまう。

 どういうことだと風神の姿を眉をしかめながら見送ったロキは、今度は泉方面から走ってくる者がいることに気が付いた。

 駆けてきたのはチガヤ・アルベルネだ。少女はロキの姿を見ると、息を切らしながら声を張り上げた。

「ロキさん! 大変なのです、水神様が!」


 ×××


 泉の傍には青年がいた。

 淵に座って水面を見つめている。二人分の足音がこちらに近付いてくるのを聞き、一瞬だけ顔を上げてチガヤとロキを見上げたが、すぐに視線は水面へと戻された。

「火神様っ、水神様は……あぁ、まだ意識がないままですね……」

 駆け寄ったチガヤが青年の隣で膝をつき、同じように水面を覗き込んで不安げな声を上げる。

 少し遅れて追いついたロキは、後ろから二人の様子を窺う。そして遠巻きに水面を見て、一人で首を振るとチガヤへと声をかけた。

「チガヤ、落ち着いて聞いて欲しいんだが」

「え、な、なんですか?」

「そこに水神がいるのか」

「え?」

 きょとんとして、チガヤはロキと水面を交互に見る。

 チガヤの目には、水面に力なく漂う真白の魚が映っている。時折ゆらゆらと長い尾が揺れているが意識は無いようで、今にも水面で弱った魚のようにひっくり返ってしまいそうだ。

 だというのに、ロキは怪訝そうに目を細めて水面を見るだけで、再び首を横に振る。

「……水面の波紋で、そこに何かがいることはわかるんだが……」

「えぇっ、水神様が見えないのですかっ? 本当に?」

 思わず聞き返してしまうチガヤだったが、ロキの真剣な表情はそれが嘘では無いことを物語っている。

 おろおろとするチガヤに、ロキは息を吐くと忌々しげに呟いた。

「そういうことか、あのバカ鳥め……」

「え、あ、あの」

「すまないがチガヤ、水神が今どういう状態なのかを説明してくれないか」

「あ、は、はい、えっと……」

 なんとか言葉を探し、身振り手振りも加えてチガヤは水神の状態を説明する。最初に水神を発見したのは青年であることも説明すれば、ロキはじっと青年へと目を向けた。

「なるほど、それでこいつが此処にいるのか」

「でも、火神様……水神様を見つけてからずっとここを動かなくて……なんだか顔色も悪く見えますし、お休みした方が良いのではないかと……」

 チガヤがおずおずと言えば、自分のことだとわかったらしい青年が僅かに視線を二人に向ける。

 その目の下には黒々とした隈があり、チガヤが言う通りに顔色は悪い。ロキが手を伸ばせば何も反応することもなく、大人しく頭をわしゃわしゃと撫でられる。

 ふむ、とロキが思案する顔をした。

「確かに、調子悪そうだ。余裕がある時は俺の手を避けたり払ったりするしな」

「時々ロキさんが火神様の頭を撫でるのって、体調確認の意味もあったのですか……」

 納得と呆れを半分ずつ込めながら呟くチガヤには構わず、唐突にロキは青年をひょいと肩に担ぐ。

 突然のことに青年はジタバタと暴れたが、すぐに力では敵わないと悟ったのか大人しくなる。ロキはチガヤを振り向いて小屋を指差した。

「こいつを寝かしつけてくる。話はその後にしよう、少し待っててくれ」


 ロキが小屋から出てきたのは、それから十分程度だった。青年を布団の中に押し込めれば案外すぐに寝落ちたのだという。

「寝付きは良いんだよ。ただ、毎回夢見が悪いようでな。またすぐに起きてくると思う」

「そうなのですか……何か安眠できそうなものをご用意したらいいですかね。材料ならありますし」

「それは良いな。頼んで良いか、チガヤ」

 と軽く会話をしたところで、ロキは話を戻す。

 今一度じっと泉の水面に目を凝らし、やはり駄目だと息を吐いた。

「ローシュは気配ぐらいなら感じられていたんだがな……俺が生まれ変わりだからか、それとも水神の気がそれほど弱っているのか……」

「あの、もしかして神様たちが見えるのって特殊だったりするのですか? でも火神様のことは皆様見えていらっしゃいますし……」

 おそるおそるチガヤが聞けば、ロキは水面から目を離してチガヤを見る。腕組みをし、少し思考を巡らせてから口を開いた。

「……あいつの場合は、器がロアンだからだ。中身がどうあれ器は人間なのだから、姿だけなら他の奴らでも見える……しかし、神々は本来人の目には映らないものであり、見えたのはごく一部の人間だけだった。だからこそ崩壊以前の世界では神々を見ることができる者が重宝され、神官と呼ばれるようになり、後に王となったんだ」

 そう言いながら、ロキは顔を顰める。

 彼の脳裏にはグレイスのことが思い返されていた。前世では、神々を見ることができる王でありながら火神を邪神へと落とした元凶となった、かの老人のことを。

 とは言え、今は老人のことを考えても仕方が無い。すぐに思考から追いやり、咳払いをしてチガヤを見る。

「チガヤが水神だけでなく風神も見えていることを考えると、神官になれる素質があるんじゃないか。世が世なら王にもなれていたのかもしれないな」

「えぇっ? む、無理ですよ私には……それに、ロキさんも風神様は見えているじゃないですか」

「俺の場合は条件が違う。俺が風神を見ることができるのは、ローシュが風神と契約して加護を受けていたからだ。つまり俺は風神しか見ることができない。まぁ、そのおかげでバカ鳥と関わることができたから、神特有の気配を感じ取れるようになっていたはずなんだが……」

 と、ロキはふいに口を閉ざす。

 急に黙り込んだロキにチガヤが首を傾げていると、彼は口元に手をやり、「もしや……」と呟いた。

「……チガヤは、ローシュが何故『勇者』と呼ばれるようになったのか、理由を聞いたことがあるか?」

「え? えーと……いえ、知りませんね……おとぎ話でも、勇者がローシュという名前だったことしか語られていませんし」

「そうか、おとぎ話ではそこまで語られていないか……理由の一つに、風神との契約がある。元々は神官の素質がなく神を見ることができなかったローシュが、邪神と化したあいつと対峙する為に風神と交渉をして加護を得ることに成功した、という話が広まってな。その話を聞きつけた対邪神連合軍に半ば拉致されて脅される形で入隊させられて、それで勇者の肩書きを……って、いや、それは今は関係ないな。言いたいのは、神を見ることができないローシュに、風神を仲介した人がいたことだ。『ミツ』という名の、女性だった」

 チガヤはきょとんとしてロキを見つめる。

 そんなチガヤを、ロキもじっと見つめて何かを探るように言葉を続ける。

「ローシュの前に突然現れ、風神との仲介役を買って出たのが、彼女だった。彼女は自身のことを『神官のようなもの』と言っていたが、詳細はわからない。顔も、ずっと隠していて見ることはできなかったからな」

「顔を見ることができなかった?」

「常に白い外套を頭から被っている人だったんだ。あとわかる事と言えば、外套の隙間から見えた髪色が、君と同じ赤毛だったことぐらいしか――」

「白い外套……あ、その人、たぶん知っています。この前会いました」

 ぽん、と手を叩いてチガヤは言う。

 あまりに軽々しく言ったチガヤの言葉に、ロキはぽかんと口を開ける。が、すぐに我に返って「はぁ?!」と声を上げた。

「会った?! どういうことだチガヤ!」

「え、あ、そっか、まだロキさんが不在だった時のことを言ってませんでしたっけ。え、えっと……」


 ロキのあまりの剣幕にしどろもどろになりながら、チガヤはロキ不在の時に何があったのかを説明する。

 水神の神域へ行ったこと、そこで水神が記録したという過去の光景を見たこと。

 そして、最後に見た、雪景色のことを。

「その雪景色の中で会ったのが、白い外套を来た女性だったのです。私と同じ赤毛だったのが印象的だったので、おそらくその、ミツさん? というのは、その人のことじゃないかと……」

 チガヤの説明を受け、ロキは頭を抱える。

 まさか自分が不在の時に、水神と風神が共犯でチガヤにそんなことをしていたとは。盛大に息を吐き、頭を抱えていた手で自身の頭をガシガシと掻く。

「……彼女も過去の映像だったのか?」

「いえ、えーと、その人は映像ではなかったと思います。私の名前を呼んでいましたし」

 思い出しながらも必死に説明するチガヤに、気を取り直したらしいロキは腕を組んで険しい顔をする。

「彼女についての話を君にしたのは、もしかしたら君の前世が彼女だからではないかと、思ったからだったんだが……違うようだな……」

「へ? 私の前世?」

 びっくりしてチガヤは聞き返す。

 ロキは「先に風神に聞こうとしていたんだが」と前置きをしてから、腕を解いて改めてチガヤを見た。

「いいかチガヤ。今の世界は、崩壊する以前の歴史を繰り返しているんだ。その歴史には人と人との関係性も含まれている。前世で何かしらの関わりがあれば、多少の違いはあっても今の世界へと引き継がれているはず。だから、俺と君も前世で何かしらの関わりがあったんじゃないかと思うんだ。しかし、ローシュの記憶をいくら振り返ろうとも、君に該当するような人物が思い浮かばない」

「ああ、それでミツさんが私の前世じゃないかと思ったと……えぇ? でも、私とあの人、雰囲気が全然違いませんか? ローシュさんはすぐにロキさんだとわかるぐらいでしたのに」

「そうなんだよ……それに、君が会ったのが本当にミツだとして、姿はローシュが見たそのままらしいし、君の名前を知っていたということが気にかかる……」

 ロキは溜め息を吐く。

 しかし、ここで考えていても答えは見つからない。ロキは泉の水面へと目をやる。

「とにかく、今は水神か……まだ意識は戻らない様子か?」

「あ、はい。ずっと同じ調子です。悪くなっている様子でもないので、それが逆に安心ではあるのですが」

「なら、暫く様子を見よう。水神に異変があれば都度報告してくれ。俺も気にはかけるが、こちらも少し立て込んでいる状態でな……それと、チガヤ。観測所内では大丈夫だと思うが、街に出る時はいつも以上に用心するようにしてくれ。出先も孤児院だけにしてくれると助かる」

 真剣な様子で、ロキは言い含めるようにチガヤに言う。

 チガヤは内心首を傾げながらもコクリと頷いた。


 ×××


 また、炎の記憶の夢を見た。

 燃える城の、玉座前。自分を元凶が、断末魔を上げながら燃えている。

 それを呆然と眺めるだけの自分は、確かにその瞬間、人ではなく神だった。元凶だけでなく世界の全てを巻き込んで、一時の感情だけで力の制御を無くし、世界を壊している。

 辛うじて残っていた人としてのロアンの心を砕き、堕ちた邪神に全てを乗っ取られた結果の、一時の感情だけで。

 燃えている元凶が何も言わなくなり、崩れ落ちた頃に、ようやく僅かだけ体の自由が戻ってくる。視線を逸らし、這いつくばって、彼女の元へと行く。

 彼女が倒れている床は、赤い血で濡れている。彼女の顔を見下ろせば、もうすでに生気のない肌は白く、瞼は眠るように閉じられている。

 そんな彼女の体を起こして、抱きしめる。

 制御の効かない周りの炎は、やがて彼女の体に燃え移り、彼女すらも燃やしていく。



 ――そこで目が覚める。


 青年は暫く天井を見上げ、これが過去の夢ではなく、今の現実であることをゆっくりと確認する。

 ロキがチガヤに言っていた通りに、寝入りは良くても眠りが浅い。窓の外へと目を向ければまだ日は高く、おそらく一時間ほどしか経っていないのだろう。青年はのそのそとベッドから降り、小屋の扉を開ける。

 泉の傍には、少女がまだ残っていた。

「あ、火神様。もう起きてこられたのですか?」

 少女の周りには何かの道具が広げられており、それらを使って少女は忙しなく手を動かしている。青年が近付いても少女は手を休めず、よく見れば、今まさに作り終えて糸を切っているところのようだった。

「できた……! 火神様、あの、火神様の髪を弄らせて頂いてもいいですか? すぐに終わりますのでっ」

 少女に手を引かれ、よくわからないままに青年はその場に座らされる。

 そして、少女の指先が首元に触れるのをくすぐったく思いながらもされるがままにしていれば、気が付けば青年の伸ばしっぱなしになっている白髪が首の付近で紐で括られて纏められていた。

 どうやら先程作っていたのが、この髪紐だったようだ。少女は満足したようにニコリと笑う。

「ロキさんから、火神様は夢見が悪くてすぐに起きてしまうと聞きましたので。これ、お守りです。私の故郷では、赤い糸を編んだ紐で髪を括っておくと悪い夢から守ってくれる、という言い伝えがあるのですよ」

 無邪気に言う少女を見て、括られた髪紐に触れる。

 礼を言う声は出ない為、手を伸ばして少女の頭を撫でた。少女は笑顔で撫でる手を受け入れた後、泉を覗き込む。

「水神様、まだぐったりしていらっしゃいますね……元気になってくださると良いのですが……」

 水神は泉の水面で漂っている。未だ意識は戻っておらず、そんな水神のことを少女はずっと見守っていたようだ。


 水神がどうして急に、意識不明になったのか。

 その理由を察している青年は、しかし言葉を持たないため、それを少女に伝える術は無い。

 ただ、どうすれば自身が死ねるのか。

 どうすれば、少女を守れるか。

 あの炎の夢を思い出しながら、それだけを考えることしか、できなかった。


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