第5話 紫髪の少女
それから数日間、エルーシアは辺境伯家のことをもっと知りたくて人々との交流に努めた。
一番接する機会が多かったメイドの彼女はトリシャという名前で、この街で生まれ、彼女の母も辺境伯家に勤めていた過去があり幼い頃から辺境伯家とは関わりがあるそう。
他にもトリシャと同じような使用人は多く、領民と辺境伯家は古くから良好な関係を続けていることがよく分かる。
彼らがただの主人と使用人ではなく家族のようだとエルーシアが感じたことは正しかったようだ。
エルーシアにとって仲の良い家族と言える人はアルだけで、手紙でやり取りはしていても顔を合わせたことはないので彼らを少し羨ましくも思った。
「もう城には慣れたかい?」
朝食の時、ふとヴィンフリートに尋ねられた。
エルーシアは頷く。
本当はまだ全然慣れていない。
城に、ではなく人に優しくされることに、だが。
(上手く笑えているかな……ああ、いつも鏡が目の前にあればいいのに……)
精一杯微笑んで見せるが、不気味な薄ら笑いになっていないかが心配だった。
「今日は少し城外を散策してみないか。大丈夫、俺だけじゃなくて護衛も何人か連れていくから瘴気や魔獣の心配は無いよ」
「城外を、ですか……?」
「ずっと引きこもってお茶会ばかりしていても飽きてしまうだろ?もちろん、君の気分が乗ればの話だよ」
ヴィンフリートはにっこり笑って、エルーシアの返事を待っている。
城の中だけじゃなくて外も歩きたいとずっと思っていた。
そもそも、これまでのエルーシアは滅多に外を歩けない。
歩いただけで花を枯らしたというのは、幼さ故に能力の制御ができなかったためのもので、それ以来同じ失敗はしないようにしているものの、一度印象付けられてしまえばなかなか覆すのは難しい。
エルーシアが外を歩くのを歓迎する人は宮廷にはもうずっといなかった。
もう一度同じ失敗をしたら、今度こそ辺境伯は自分を嫌うだろうか。
でも、外の世界を見てみたい。
恐怖と好奇心を天秤にかけたエルーシアは、ゆっくりと口を開く。
「お出かけ、行きたいです……!」
そういうわけで、エルーシアはヴィンフリートと共に城下の街へ出かけることとなった。
もちろん、先日のコートを身につけて。
視察を兼ねてということだが、実質はエルーシアに楽しんでもらうための外出だ。
馬車に乗り街へ来た後は、二人でゆっくりと街を歩く。
エルーシアが興味を持ちそうなものがあればすぐに買い、王都に較べたら見劣りはするが、ブティックや宝飾品を見て回りエルーシアに楽しんでもらおう。
ヴィンフリートはそういったプランを考えていた。
しかし、すっかり街の人々に顔を知られているヴィンフリートが外を歩けばすぐさま人が寄ってきて、あっという間にエルーシアは人の波に押し流されそうになる。
「皆!伯爵様だ!」
「まあ!急に街にいらっしゃるなんて、知っていたらもっと準備したのに!」
店が並ぶ賑やかな通りにある、住民たちが集まる中央広場。
いつものように食べ物を売る露店やお喋りに興じる人々が、ヴィンフリートたちの姿に気づいて一斉に駆け寄ってくる。
老若男女問わず、ヴィンフリートを嬉しそうに歓迎し、街は途端にお祭り騒ぎのように。
(辺境伯様は領民に愛されているのね)
人々に囲まれたヴィンフリートも、少し照れくさそうではあるが楽しそうに笑い、皆と話している。
「そちらのお嬢様は、もしかして伯爵様のお嫁さんかしら?」
そっと離れて傍観するつもりだったエルーシアは、急に話しかけられてびくりと驚く。
途端に皆の視線がこちらに集まってしまい、エルーシアは思わず後ずさろうとしてしまう。
「わ、わたしは……」
だがそこを、エルーシアの背に手を回し、ヴィンフリートが抱き寄せる。
「紹介しよう!彼女は俺の妻、エルーシア・ノインライト王女殿下だ!……いや、正式にはエルーシア・クラルヴァインだな。皆、この美しい辺境伯家夫人を歓迎してくれるだろう?」
怯えるエルーシアを安心させるように優しく包み、彼は高らかに宣言した。
途端にわぁっと歓声が上がり、口々に祝いの言葉が飛んでくる。
「もちろんですよ!」
「こんなに素敵な奥様なんて素晴らしいわ!素敵よ!」
「あのヴィンフリート様がもう結婚するお歳になられたなんて、長生きはするものだねぇ」
自分のことのように大喜びする領民に、涙ぐむ老婦人まで。
受け入れて貰えた。
ヴィンフリートが民に愛されていることが分かるほど、嫌われ者の自分には不釣り合いなのではないかと不安でいっぱいだったがその心配は不要だったようだ。
その事が分かりエルーシアはほっと一安心できるかと思ったが。
「え?でもエルーシア王女って呪われていて外に出られないんじゃなかったっけ」
一人の青年がそんなことを口にした。
戸惑いは瞬く間に伝播し、ざわめきが広がる。
呪われた王女。それはこの国の人間なら誰もが知る話だ。
エルーシアはさあっと背筋が冷たくなっていくのを感じた。
やはりここでも自分が受け入れられることはない。
分かっていたが、この数日、溢れるほど人の優しさに触れてきたおかげでその覚悟を忘れそうになっていた。
ヴィンフリートに申し訳なくて、今すぐ消えてしまいたいという思いが頭の中を埋め尽くす。
だがヴィンフリートを振り払ってどこかに逃げようにも、この街のことは何も知らないし、そんなことをしたって迷惑をかけるだけだ。
今は、どんな批判でも耐えるしかない。
エルーシアはそう覚悟したが。
「おいおい、あの小さなお嬢様のどこが呪われてるって言うんだよ。女神に祝福されたの間違いじゃないのか!」
「え……?」
聞こえてきたのは暴言ではなく、エルーシアを讃える言葉だった。
「そうよ!綺麗な紫色の髪で、本当に女神様みたいだわ」
多くの人が最初に疑問を口にした青年に反論している。
信じられない光景だった。
今まで誰もがエルーシアを当然のように蔑んでいて、それを失礼だと思う人すらいなかったというのに、これはどういうことだ。
エルーシアを疑うどころか、女神のようだとさえ言っている。
「まったく、クラルヴァイン領が王都でなんと言われているのかをもう忘れたのか?このような無礼な態度は、領主として見過ごせない」
ヴィンフリートの顔色が変わっている。
穏やかな笑顔から、初めて見る冷たい表情だ。
腰に提げた剣に手が伸ばされる。
きっとヴィンフリートはあの青年を罰するつもりだと気づいたエルーシアは、慌ててヴィンフリートの腕を引っ張る。
「いいんです。ほとんど事実のようなことですから」
「エルーシア。いい、これ以上は……」
ヴィンフリートはエルーシアが耐えていると思っているのだろう。
はっきりと怒りの感情が滲み出ていた。エルーシアは青年を捕らえてほしいなど微塵も思っていない。
むしろ、驚かされたのはそれに対する周囲の反応だ。
「ありがとう……。呪いではなく祝福だなんて言ってもらえたのは初めてで、わたし、とても嬉しかったです」
ほんの小さな声だけれど、今のエルーシアは、心から笑うことができた。
戸惑うだけじゃなくて、その気持ちを受け取りたい。
まだ拙くて取りこぼしてしまいそうだけれど、ようやくありがとうと言えた。
「……女神、か。どうやら、皆考えることは同じらしいな」
ヴィンフリートは表情を緩めて、剣の柄から手を離した。
同じ、とはどういうことか。
首を傾げるエルーシアに、ヴィンフリートは説明してくれる。
「クラルヴァイン領にはある伝承が残されているんだ。七百年前の魔族との戦争で、王国軍が窮地に立たされた際、紫色の髪を持つ魔導師の少女が颯爽と戦場に現れ魔獣たちを魔法で払い除けたと言われている。その少女は女神エルーシアの生まれ変わりで、民を守るために再び降臨したのだと。君は紫色の髪を持ち、女神と同じ名を与えられた人だ。不思議な縁を感じるのは当然のことなんだ」
どうりで、皆が口々に女神という言葉を使うわけだ。
本当に女神だったらどれだけ良かっただろう、なんて卑屈なことは思わないが、エルーシアにとってその話はある種の羨望を抱かせるものだった。
(もし、わたしにそんな力があれば……)
幼い頃、何度も願った。
王に連れられ神殿で『祝福』を鑑定された時から、ずっとずっと願っていた。
もし自分に与えられたものが少しでも違ったのなら。
もし自身の名前に相応しい女神のような力があれば。
それは叶わないと分かっているからこそ、エルーシアはその願いを忘れるようになったのに、今になって思い出すなんて。
「奥様!この花束を受け取ってください!私どもからのお祝いです!」
ふと、花売りの少女から花束を差し出される。
宮殿の中に閉じ込められていたエルーシアは初めて見る花だ。
(でも、わたしが触っては……)
エルーシアは一度、王妃から贈られた花を能力の暴走で触っただけで枯らしたことがある。
もし、また同じことが起きたら。
エルーシアは手袋を握りしめ、迷ってしまう。
「エルーシア。不安なら、手を貸そう」
そっと、ヴィンフリートから囁かれた。
彼は躊躇うことなくエルーシアの手を取り、二人で花売りから花束を受け取る。
「きれい……」
薄桃色の鮮やかな花束は、春のような暖かい色をしている。
それを見ると、エルーシアは宮廷の薔薇園を思い出した。
エルーシアの母が残した薔薇園は、国王が魔導師に命じさせ保存魔法をかけ続けられていることで永遠に姿を変えず美しさを保っている。
幼い頃に見たきり二度と立ち入らせて貰えていないが、記憶の中にある薔薇は世界で一番綺麗な花だと思っていた。
けれど、どうだろう。
今目の前にある花束は、いつかきっと枯れてしまう。
それでも、この花はエルーシアにとって記憶の中の薔薇園には叶わないものがある。
受け取った花束を抱えて、そんなことを思った。
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