第316話 兄
オルトゥスの身体から力が、髪の色が抜けていく。黒銀が白銀へと、その瞳に
神術陣が消え、
ソレアードの墓室前の術石は、すべて使い切った。本来は聖域の加護のために撒いた石だったが、この世に未練を残す
「――かぁさま……っ」
身を起こしたオルトゥスは、母の胸に頬を寄せた。もはや自身の髪がどこにあるのかもわからない白銀の髪に指を通し、エスタトゥーアはことばもなく抱きしめる。
だが、それはほんの一瞬だった。
すぐに愛しい娘を離し、エスタトゥーアは立ち上がる。
そう。
彼女の娘はひとりだけではない。
笑みの形に口元を象るソレアード王の向こうで。
既に、黒銀の髪をなびかせ、ルーキスは駆け出していた。
「待ちなさい、ルーキス!」
「案ずるな。この闇から逃れる術など我らにはない」
母のことばは届くことなく、その後ろ姿は闇に融けていく。
エスタトゥーアは追えなかった。見下ろすと、そこには白の術衣の端をにぎった、オルトゥスがいる。なぜ止めたのかと、彼女は問わなかった。ただ、もう一度膝を屈め、オルトゥスを抱きしめる。
「確かに、先ほどとはちがうが……ただの子どもではないか」
ソレアードはふたりのもとへ歩み寄り、
母の肩越しに、オルトゥスはその銀のまなざしを向ける。グラスアイは青白い肌を持つ不死王を映し出した。
「――にぃにさま?」
不思議そうな呼びかけに、ソレアードの表情がこわばる。
わずかな逡巡のあと、ソレアードは口を開く。それは彼らしくないほど、意味のない確認作業だった。
「おぼえているのか?」
「にぃにさま」
オルトゥスは破顔し、呼びかけを繰り返すことで兄に応えた。
娘から身体を離し、エスタトゥーアは場を譲ろうとした。しかし、やはり白の術衣をにぎりしめたまま、オルトゥスは離そうとしない。そのようすに、ソレアードが膝をついた。
星明かりの加護に照らされ、青白い肌の色がより一層うすく見える。濃い緑の双眸が静かに銀のグラスアイを見た。小さい吐息とともに、その視線は外される。
「――父上の、ご意思を確認せねば」
「ととさま……?」
舌足らずな物言いを繰り返すオルトゥスの背を撫でながら、エスタトゥーアはうなずいた。
「わたくしも、お伺いしたいと思います。なぜ、この子たちの心を縛るような真似をなさったのかと……」
「それの答えは既に出ていようが?」
「いえ、取るべき手段は冥術ではなかったかと。この子たちに、正面からおたずねいただければ、あるいは」
「何言ってんの」
心を軋ませるように言いつのるエスタトゥーアに、メーアはあきれ返った声で指摘した。
「エスタといっしょに決まってるじゃないか。訊けば、悩んじゃうだろ? だから訊かなかったんだよ、あの王様。そんな心なんていらなかったから、呪いかけたんじゃないの?」
「王の真意を測ろうとは、不遜よな」
ソレアードはそれでも舞姫のことばを否定しなかった。
立ち上がり、外套の裾を払う。
「エリーヴァ、我が妹よ。
――かつて、父上はこの者たちにそなたたちの命を委ねたと聞く。あの時はよもやこうして相まみえる日が来ようとは思わなかったがな。
父上は、限りなく正しい選択によって必要な結果を生み出す御方だった。例えその御心が闇に囚われておられようとも、愚昧なる道を選ばれはせぬ。ただ……」
朗々と語られていた不死王ソレアードの言が、不意に詰まる。迷いが生まれ、それこそが彼の、心そのものだった。
「父上は、情に厚い御方だ。遠く旅立ったはずのそなたたちを見て、心揺れたことは想像に難くない。この兄が言うのだ。わかるな?」
カードル伯は、その光景に目を伏せた。
三歳だった、と聞いている。
この世に生を受け、その生を終えるまでの短い間に。
幾度この兄妹は
自身がつき従った回数はそれほど多くなく、だがそのわずかな間で、腹違いであることや妹姫の体調を思えば奇跡にも思えるような時間を過ごしていたのをおぼえている。
年が離れている上に、すぐ下の兄弟が男であったため、誕生したのが姫と聞いて嬉々として祝いの品を選んでいた。ふたりならば同じ本が二冊要ると写本させようとした時、まだ読めないからと全力で止めた。フェリーシュの史書など、結局姫君らが読むことはなかっただろうが、「昼寝だと? ならば寝物語をしてやる」と息巻いて暗記している内容を語っていた日もあったのだ。双子姫は嫌そうな顔をしなかった。二人そろって体調が良い時でなければ、兄王子には会えない。そのことをよく知っていたのである。もっとも、話が難し過ぎて即寝入ったが。
「にーさま、だっこ」
「にぃにさま、だっこ」
毛足の長い絨毯の上で転がる兄王子に、一気に抱き上げられるのが好きな姫君だった。
どれほど軽くとも回数が増えれば腕にくる。その兄王子が音を上げるのをごまかすように、代わりの人身御供……代理としての大任を果たした日は輝かしい記憶のひとつだ。
王家の姫として。
その心根を熱く言い聞かせた折と同じように、ソレアードは確認した。
オルトゥスは神妙な顔をしてうなずく。
兄王子が大好きな妹姫は、兄王子のことばにそろってうなずくのも大好きだった。そうすれば、満足げに兄王子が笑って褒めてくれるからだ。わかっていてもわかっていなくても、わかったふりをする。幼いながらの処世術を悟り、兄妹の会話に目を細めながら聞いていた。
あれも、同じだろう。
久々に聞くだろう兄のことばを、オルトゥスがどれほど理解できたのかと言えば、正直難しかったと思う。だが、オルトゥスはそれをおくびにも出さなかった。銀色のまなざしで兄王子を見返し、言いつのる。
「にぃにさま、ルーキスが心配なのです」
「――エリーシェか」
「ルーキスがお話できないの、かなしいです」
かよわい双子姫につけられた名は、口にすればそのまま神を呼び、その御許に旅立ちそうで、あのころは誰も呼ぶことができなかった。兄王子も同様だったが、呼ばれることのない名であっても、道をこれほどたがえようとも、おぼえていたらしい。
聡明な第一王子に仕えた日々が、そのことばの端々から蘇る。
「わかった。ルーキスのところへ……父上のところへ行って、お話をしていただくか?」
「はい!」
簡単な敬語であればという配慮は効果を奏し、ためらいなくオルトゥスは笑顔で同意を示した。飛び上がるように立ち、母と……兄の手を、にぎる。
「てって、つなぐのです!」
うれしそうな声音と同時に――ルーキスが消えた先で、爆音が響いた。
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