第213話 ミュージカル
よりにもよって、このタイミングで。
あの時はまさか、
地下鉄が、停まる。扉が開くと同時に、柊子は足早に降りて一番出口を目指して歩き出した。同じ方向に進むひとは、ひょっとしたら同じミュージカルを見に行くのかもしれない。そう思えば、「同類かも」と少し楽しい気分になる。
そのチケットを見つけたのは、まったく偶然だった。たまたまオフ会ならぬおしゃべり会帰り、金券ショップの前の看板に出ていたタイトルと、燦然と輝く半額の赤いポップのまぶしさに目を奪われた。二枚一組で一枚の正規チケット代よりも安い価格にまで値下がりしていたのは、もうあと二日に迫った上演のためだったのだろう。その割に、最前列から三列目中央というとんでもなくいい席で、なぜこれが金券ショップに並んでいるのか、首をかしげるほどだった。
そのミュージカルのタイトルは知っていた。好きな歌い手が主演、更に別の知っている歌い手が脇役になっている上に、主題歌の作詞作曲家がデビュー作から買い求めているアーティストなのだ。好きだらけがそろっていておどろいたが、残念なことに、知った時にはチケットが
が、さすがに半額以下、しかも良席ともなると心惹かれる、どころではない。即、購入した。
開場が午後6時、開演が午後6時半。仕事上がりの相手でも誘えてしまう、なかなか悩ましい時間帯である。彼に声を掛けたのは、単純に会ったことのない相手だったからだ。ひとりだけ仲間外れというのも気の毒で、とりあえず、「気に入らない相手だったら、ミュージカルを見てサヨウナラしよう」と考えた。感覚的に問題なければ、夕食くらいは付き合ってもいい。ついでに、ゲームショウのチケットも渡してしまおう。
柊子は、自分の「人を見る目」を信じていた。そして、もしも自分の目が曇っていた時には、自分だけが責任を取ればいいと割り切っていた。どのようなことが起こったとしても、全部、自分のせいだと。彼に声を掛けた時も、同じ覚悟を決めていた。
だからこの時、一番出口の前で待っていた彼を前にして……柊子は自分の引きの良さに、素直に感心していた。長身で、
「はじめまして! じゃあいこっか」
満面の笑みを浮かべた
パンフレットを購入して、席へ向かう。それまでの一連の所作で、かなり柊子は彼を高く評価していた。年上らしく慣れたようすでエスコートしてくれるので、いつか聞いたことのある「彼女いない歴=年齢」は嘘ではないかと思ってみたり、逆に彼女にしなかっただけかなと考えてみたり、要するに、高く評価はするものの、その分警戒しまくりである。
「えーっと、セルヴァって呼んだらいいのかしら?」
「さ、さすがにちょっと……
「私は
劇場内のエスカレーターに乗り、ふと振り向いて呼び方についてたずねる。はっきりカタカナ名は気になるのか、
ミュージカルはとても素晴らしい作品だった。主演のせつなげな歌声も、脇役の溌溂としたキャラクター性も魅力的で、何よりも主題歌が最高に良かった。柊子は既にその曲をDLで購入済みだったので、あらためてエンドレスで聞きたくなったほどである。以前、歌だけを聞いた時に感じたことと今なら、また印象がちがう気がした。
つらつらとミュージカルについて語る彼女は、時折、颯一郎にも感想を求めた。颯一郎はことばを選びながら、良かったところを述べる。それに気をよくして、柊子もまた深くうなずくのだった。
「おなか、すいたよね。何か食べていく? チケットのお礼に奢らせてくれるとうれしい、かな」
店を探すまでもなく、颯一郎はちゃんと近場の完全禁煙のイタリアン居酒屋を予約済みで、その手際のよさに思わず笑ってしまったほどだ。なるほど、すぐ帰すつもりはないということか。仕事上がりで疲れているところを引っ張ってきた自覚はある。柊子はありがたく奢ってもらうことにした。
こじんまりとした店内は、GWさなかというよりも祝前日の様相で混雑していた。予約は大正解である。半個室になっている席につき、まず飲み物を注文すると、メニューを開きながら柊子はたずねた。
「こういうとこ、割と来るの?」
「実は、昨日も下見にひとりで」
「はあ?」
「時間なかったから、ゆっくり食べてないんだけどね」
ミュージカルの話をしたのは、バージョンアップ前夜である。つまり、一昨日。
昨日はバージョンアップということで、夜には皆勢ぞろいしてクランを結成していた。
ということは、夕方仕事上がりにダッシュして居酒屋に来て料理を食べて即帰宅、である。
話の中身を理解して、柊子は吹き出した。
「ご、ごめんね。何だか申し訳ない感じ」
「いえいえ、変なとこ連れていくわけにもいかないし」
ありがたい気遣いではあるが、二日連続で無理をさせているということがわかり、柊子はことば通り申し訳なくなった。以前より散々タバコ嫌いを公言している関係だろう。確かに、もし分煙できていない居酒屋などに連れてこられていたら、即回れ右していたのは間違いない。我慢などできない性分である。
お通しの前菜はカナッペで、軽く乾杯してから摘まんだ。モッツァレラチーズとプチトマトと小さなバジルが乗っていて、なかなか美味しい。
「枠なのに、飲まないんだ?」
「このあとも
「あ、そっか」
クラン結成の夜、
「で、オリジナルクエストの進捗は?」
来た、と思った。
結局、クラン結成の翌日以降、アシュアは
「厳しいわねー。正直、終わる気がしないっていうか、時間経過させるしかなさげっていうか」
「そんなに?」
「うん……」
もうひとつ、クエストを全面的に失敗させる方法も考えた。だが、それは最悪の手段であり、アシュアとしても選びたくないので、選んでいない。
その時、注文した料理がすべて運ばれてきた。そこそこ混雑しているのに、手際のいい店だなと思う。従業員が下がったあと、颯一郎はあらためて切り出した。
「ひとりじゃ厳しい、っていうだけじゃないの?」
柊子は悟った。颯一郎は落ち着いていたのではなくて、ずっとこのタイミングを計っていたのだ。このことを、言いたかったのだと。
「あのさ、どうにもならないなら早めに話してもらえないかな?
外からだったらできることがあるかもしれないし、みんな……待ってるんだよ。アシュアを」
――どんなクエストなんだ?
――大神殿、迎えに行こうか?
――お困りでしたら、いつでもご連絡下さい。
――帰れなくなっていませんか? あなた……。
――アシュアさん、だいじょうぶですかー!?
いくつも。
いくつも、メッセージを受け取った。
そのどれもに、「うん、ありがとー」くらいしか、アシュアは返せなかった。
自分がどうしたいのか、もうわからなくなってしまっていて。
大神殿や大聖堂にいる面々を見ていても、技術はあっても力がない状態の神官ばかりだ。聖女という肩書が、神への祈りを届ける近道になるとは思えない。もしそれが可能なら、大聖堂は聖女だらけのはずだからだ。まして、アシュア自身、本当に「聖女」になりたいかと問われると……その肩書の重さゆえに「イラナイ」という答えしか出なかった。柄ではない、と思う。その一方で、
ログインしても、あの場所に帰れないことが、ただつらかった。
柊子の視線が、カクテルのグラスに落ちる。
透明感の全くない、黄色の色合い。鍵のかかった部屋を示すそのカクテルの名は、今の
そして、
「うん……ありがと」
泣きそうだった。
きっと、みんな、同じ気持ちでいてくれていると、わかるから。
同じことばで紡がれた感謝だったが、
「早く、帰りたいな……」
「そうだね。じゃあ、とっとと食べて、早く帰ろう?」
数々の料理を彩りよく取り分けながら、「先に言わなきゃよかった、ごめんよ」と謝る彼に、
結局、
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