第9話 あなたを待っていました
すぅっと、目が覚めていくような感覚。
見上げた天井に見覚えなんてあるはずもなく。
硬い
狭い、こぢんまりとした室内を見回す。そこには寝台と小机しかなく、薄く開かれた木製の窓から柔らかな光が零れていた。
視界の端の時計は、幻界時間で朝を示している。
「……帰ってきたんだ……」
じんわりと、胸があたたかくなる。
呟いた声は少しかすれていて、それで喉の渇きを思い出した。小机においた鞄から水筒を出したが、中身は殆どなく、喉を潤すには程遠い。
宿に頼めば補充できるだろうとあたりをつけ、荷物を手に部屋を出る。
扉の向こうは広々とした食堂になっており、今は人もまばらに見えた。他人のテーブルの黒いパンとコンソメに似たスープをチラ見すると、軽い空腹感も思い出す。
そう言えば、ろくに何も食べていない。
チュートリアルで多少演習があり、そこで倒した魔物の
ユーナが手近な空いているテーブルにつくと、受付にいた恰幅のいい女将が寄ってきた。
「おはよう、お客さん。よく眠れたかい?」
「は、はい」
「そりゃあよかった。今は朝食の時間でね、黒パンとスープとカローヴァの乳なら出せるが、どうするね?」
女将はスラスラと金額を口にし、黒パンが二個もつく朝食セットなら銅五枚だが単品だと高くつくことや、昼食を考えて朝食セットにしておいて、黒パン一個は手をつけずに持っていくのがいい旅行者だと売り込んだ。
その勢いに、ユーナはおススメの朝食セットを注文する。銅五枚を差し出すと、女将は「すぐに準備するからね」と言って、厨房のほうへ向かった。
――
いつかと同じ疑問を抱き、ユーナは目を凝らした。
やはりNPCなのだ。
ことばを違えることなく、女将は朝食の載った木のトレイを片手に戻ってくる。
「おまたせ、ごゆっくりどうぞ」
「ありがとう。……あ」
手早くテーブルに料理とカトラリーを並べ、愛想よく女将は食事を勧めてくれた。ふわりと香るコンソメの匂いに食欲を刺激されつつ、ユーナは肝心なことを思い出す。
「すみません、お水っていただけますか?」
「ああ、それならあそこにあるよ」
女将が指し示した先には、厨房への出入り口近くのテーブルに水差しと木製のカップが置かれていた。
「ご自由にお飲み下さい」ということだろう。だが、あの水差しからでは、とユーナはかぶりを振って、水筒を出した。
「いえ、あの、これにもほしいんですけど……」
「
どこの宿もそうなってるからね、とすげなく断り、女将は受付に戻っていった。新しい客だろうか。白いローブがまぶしい。
水筒の件はとりあえず、後回しにする。
とりあえず食事。意識をテーブルの上に戻して、ユーナは両手を合わせていただきますを呟いた。そして、カローヴァの乳とやらで喉を潤すべく、ユーナはコップを傾けた。あ、これ牛乳だわ。
黒パンを千切る。その感触から覚悟しつつ口へ運んだ。やはりなかなか噛みごたえがある。そのまま食べ続けるのはつらいので、ユーナはスープに浸しながら食べることにした。スープの中には玉ねぎが少し浮いているくらいで、他に野菜は使われていない。
これでサラダと卵がついてたらホントのモーニングセットなのに。
あれ? ちょっと割高?
食事を堪能していると、聞き覚えのある声が響いた。
「よーやく会えたわ。よかったーっ」
やや派手な音を立てながら向かい側の椅子に腰かけ、テーブルに頬をつけてこちらを見上げる女性が、ひとり。
もちろん、ユーナは知っていた。
ここにいるはずがない、ひとだ。
「――アシュアさん、どうしたんですか?」
「ふふっ。おはよー。んとね、メールしたんだけど、見てない?」
メール?と考えると、視界の端に封筒型のアイコンがあるのに気づいた。
その意識がメールを開く動作につながり、視界にウィンドウが開く。
『こんにちは! さっきの
受信日時を見ると、自分がログアウトした直後である。
ユーナは深々と頭を下げた。
「すみません、今見ました……」
「いいのいいの。まだ売ってないよね?」
顔を上げて頷く。
アシュアは身を起こして、再度「よかった」と口にした。
昨日は結局再ログインできなかったので、ユーナに割り振られた戦利品はそのままになっているのだ。
「実はね」
戦利品の中には、NPCに売却するよりも旅行者に販売するほうが価値が高いものもある。それは単なる売却スキルの差益でなく、何がしかの装備やアイテムの素材になるものだったり、スキルの触媒であったり、クエストを達成するために集めるべきアイテム自体であったりするのだ。先日分けた戦利品の中にもそういう類のものが含まれていたのに、どれが何ということは説明していなかったとアシュアは詫びた。
ユーナは大きくかぶりを横に振った。
「そんなのっ、アシュアさんが謝ることじゃないですよ! わたしもちゃんと覚えないといけないことだし……」
「まあ、いずれはそうなんだけどね。ユーナちゃん、まだそういうの詳しくないじゃない? 何だか騙しちゃったっぽくなったらイヤだなって思ったの。それだけよ」
私にもセットひとつくださーい、と大きな声で叫び、アシュアは女将を呼び寄せた。
その様子を見ながら、ユーナは黒パンにかぶりつく。
幻界の神様、ホントにありがとう。
黒パンはやはり噛みごたえ抜群で、自分との関係を大切にしてもらっている感覚がうれしくて、うるうるしそうな目元に気合いが入った。
もう一つの朝食セットが並び、食事をしたら二人で村の商店に行こうという提案まで受けた。ユーナはありがたく同意しようとした、その時だった。
「あ、ラッキー。プロがきたわ」
ちょっとごめんねーと断りを入れながら、アシュアの手が宙に舞う。
フレンドチャットだろう。
プロ?
その鮮やかな手つきを見て、ふと思い至る。
お互い、食事は終わっていた。今のうちにと、ユーナは出したままになっていた水筒を手に取った。
「わたし、水筒にお水入れてきますけど、よかったらアシュアさんのも入れてきますよ」
「え、いいの? 助かるー」
アシュアの分の水筒も預かり、ユーナは食堂の奥の扉から外に出た。目の前に井戸があり、釣瓶がつるされていた。昔話のようだと胸をときめかせながら、さっそく水を入れていく。
水の入った釣瓶は、想像よりも遥かに重い。少し手を痛めつつ、何とかユーナは二つの水筒を満たした。一応、水筒を濯いでから入れたのだが、よく考えなくともここは仮想空間である。雑菌が繁殖しようがないのではなかろうか。
それでも、ユーナにとっては水はとても冷たかった。また、感触もそのまま水だ。少し手にかかった部分や水筒自体も濡れている。今は切実に、タオルがほしいとユーナは本気で思った。
「タオルはないけど、布なら売ってるわよー」
席に戻って「手も濡れるんですね」と話していたら、ハンカチが差し出された。綺麗に畳まれたそれは縁がかがられていて、隅にはAのイニシャルが
「こういうのも作れるんですね、すごい……」
「私、お裁縫のスキル持ってるの。レベル低いけど」
今度作ってあげるわね、と言われ、ユーナは喜んで頷いた。先ほどはハンカチが本当に欲しかったのだ。最近物に弱いかもと内心反省していると、食堂に重い扉が開く音が響いた。先ほどは話に熱中していて気づかなかったが、あれならば来客がわかる。
新たに入ってきた客は、受付へ向かうことなく食堂へと足を向けた。
「あ、それでね、今からここにひとり来るんだけど、いいわよね?」
「いいわよねって、もう着きましたよ……」
「早いじゃないの。おはよ、レンくん」
歩み寄ってきたそのひとは、隣の空きテーブルから椅子を拝借し、お誕生日席を作って座る。
整えられた濃い栗色の髪と若葉のような緑の瞳よりも、テーブルに立てかけられた巨大なオノのほうが印象的なプレイヤーだ。
そんなの持てるの?
あまりの大きさに、ユーナは目を剥く。
「おはようございます。えーっと、はじめまして、シャンレンです」
「はじめまして! ユーナです」
礼儀正しいあいさつに応える。すると、シャンレンは目を瞬いた。
自分は知り合いか何かに似ているのだろうか。そんな素振りに、ユーナは首を傾げる。間違いなく初対面だ。あんな大きなオノは、見たことがない。
「レンくんはね、商人スキルを持ってるのよー」
アシュアのことばに、ユーナの目がお金に輝く。その煌きに、シャンレンはにっこりと営業スマイルを貼り付けるのだった。
ここからはある種、戦いだった。
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