第2話 恋する王女
(はぁ……ヴィライト様)
赤い月が浮かぶ夜の空を、アンは二階の自室のバルコニーからぼーっと眺めていた。
ふと、フローリア王国では、雲ひとつない赤い満月の夜に、月に向かって想い人の名前を呼ぶと、その人に会えるという言い伝えがあることを思い出す。
「ヴィライト様……」
アンは月に向かって小さく、その名前を口にした。
それだけで、なんだか気恥ずかしい。
(婚姻は日取りを見て、近いうちにって話だったけど……一体いつになるのかしら?)
自分に残されている時間が、どれくらいあるのかわかないアン。
ブレイブと正式に夫婦になる前までには、この想いを断ち切らなければならないとわかっている。
しかし、思わずにはいられない。
その日が来る前に、もう一度、ヴィライトに会いたい。
話がしたいと願っていた。
(さっきは、全くお話もできなかったし……)
勇者一行が王からそれぞれ褒美を授かった後、城では盛大なパーティーが行われている。
今も隣の別棟では、音楽が鳴り響き、楽しそうな笑い声がアンの耳にも届いている。
疲れたと言って自室に戻ってきたが、本当は退屈で仕方がなかっただけだ。
今日、改めて勇者のものであると宣言されてしまった王女を誰もダンスには誘わないし、そのブレイブ本人は次々とやって来る貴族たちの相手をしていて、アンに気を使うこともない。
そしてヴィライトの方も、貴族の女たちに声をかけられたりして、ダンスの相手をしている。
そんな姿をアンは見ていられず、パーティーから退席した。
(どうして、王女になんて生まれたのかしら? 私が王女じゃなくて、別の貴族の娘だったら……————)
そんな想像をすればするほど、アンの中で諦めなければならないこの感情が、ますます大きく膨らんでいく。
ヴィライトに会いたい。
今すぐ、あの大きな腕でもう一度抱きしめて欲しい。
そんな欲望ばかりが、湧いて来る。
「ヴィライト様……」
もう一度、赤い月に向かってアンは愛しいその男の名前を呼んだ。
今度は、先ほどよりもはっきりした大きな声が出てしまう。
「————はい?」
「ふぇっ?」
急に下の方から返事が返ってきて、アンはすぐに視線を月から移した。
中庭の噴水の前に、ヴィライトがこちらを見上げて立っている。
「どうかされましたか? アン王女」
(えっ!? 嘘!? いつからそこにいたの!?)
驚いて、最初は慌てていたアン。
しかし、周囲に誰もいないことを確認すると、バルコニーの手すりから身を乗り出した。
「ヴィライト様、あの……その、お話があって……そちらへ行ってもいいかしら?」
「構いませんが、まさか階段を使わず、そのまま降りる気ですか?」
「だって、面倒じゃない……遠回りになってしまうし、このまま降りた方が早いでしょう?」
(それに、普通に部屋から出たら、ドアの前で待機してる執事に見つかるわ)
「いやいや、でも、危ないですよ。お怪我でもされたらどうするんですか?」
「大丈夫よ、私、浮遊術を覚えたの」
「成功率は……?」
「うーん、5回に1回くらい? でも大丈夫。怪我をしても、回復魔法を使うから」
フローリア王国の人間は、魔力を持って生まれる。
火の魔力や水の魔力など様々あるが、フローリアの王女はそのほとんどが光の魔力————回復魔法を得意とする魔力の持ち主。
だが、浮遊術は最近習ったばかり。
浮遊術は他の魔力を持っていても使えないことはないが、風の魔力を持つ者が得意とする魔法だ。
「まぁ、見ていてください……それっ」
アンの体はふわりと浮いて、ゆっくりヴィライトの方へ飛んでゆく。
「ほら、成功した————って、あっ!」
ところが、何をどう間違ったのかアンの体は風に流されてしまう。
半分成功して、半分失敗していいる。
風船のように上へ上へと上がってしまって、アンの体はヴィライトの頭上まで飛んでしまった。
「えっ!? やだ、どうしよう……!?」
慌てるアンの体は、今度はそのまま地面に向かって急降下。
「きゃっ!!」
短く悲鳴をあげ、怖くてぎゅっと目を閉じるアン。
「アン王女!」
ヴィライトがアンを優しく受け止めた。
すっぽりと、ヴィライトの腕の中に収まったアンは、ゆっくり恐る恐る目を開ける。
ヴィライトの美しいサファイヤの双眼が目の前に。
星型の黒子も、はっきり見えるほどに近い。
(ああ……素敵……)
「だから、危ないと言ったじゃないです……か……」
心配そうに眉をひそめるヴィライトも、助けるためとはいえ愛しいアンを抱いていることに気がついて、急に顔が熱くなる。
心臓の鼓動が速く大きくなっていく。
昼間のように、耳まで赤くなっている情けない自分の顔を隠したくても、その両手でアンを抱いているのだから、隠すこともできない。
「あれ……? ヴィライト様? なんだかお顔が赤くありません? 熱でも……?」
「つ、月明かりのせいでしょう? 今夜は、特に月が赤いですから」
アンにまじまじと顔を見られて、恥ずかしさでどうにかなりそうだったヴィライト。
あまり顔を見ないようにしながら、そっと噴水の前にあるベンチの上にアンを下ろした。
「それで————えーと、俺に話というのは?」
「あぁ、そうでしたわ。あの……と、とりあえず、隣に座ってくださる?」
「は、はい……」
ヴィライトは一人分スペースを空けて、言われた通りアンの隣に座る。
(もしかしたら、これが最後かもしれない…………)
しかしアンは、その空いたスペースを埋めるようにグッとヴィライトに身を寄せ、ヴィライトの左手を両手で握る。
「アン王女……?」
アンの大胆な行動に戸惑うヴィライト。
周りに誰もいないとはいえ、一国の王女と騎士がこんなに密着していていいわけがない。
ヴィライトは、空いている右手でアンの手を離そうとしたが、その前にアンの唇が動いた。
「好きなの」
今にも消えてしまいそうな、小さな声。
それでも、ヴィライトには届いていた。
「あなたが好きなの。ヴィライト様」
その瞬間、全ての音が遮断される。
後ろにある噴水の音も、遠くの方で流れていた音楽も、パーティ会場の話し声も、まるで時間が止まったように、アンの小さな声と激しく波打つ自分の鼓動の音だけを感じる。
「アン……王女」
曇りのないまっすぐな瞳で、ヴィライトを見つめるアン。
ヴィライトはもう、これ以上耐えられなかった。
アンが自分と同じ気持ちであるとわかって、嬉しくてたまらなかった。
いつも冷静沈着で、冷血の騎士団長と呼ばれているが、愛しいアンのことに関しては冷静ではいられない。
ヴィライトの右手は手ではなく、アンの左頬に添えられる。
ゆっくりと、確実に近づく二人の距離。
触れる鼻先。
二人の唇が重なるその直前————
「————おい、ヴィライト・ジェミック卿」
声のした方と見ると、黒いローブを着た銀髪の幼女が噴水の上に立っている。
見た目はどう見ても5、6歳の幼女だが、千年の時を生きている不老不死の魔女エリクシアだ。
アンとヴィライトは反射的にベンチから立ち上がり噴水から距離を取る。
ヴィライトはアンを自分の後ろに隠し、エリクシアを警戒し、腰の短剣に手をかけた。
「取り込み中のところ悪いが、話がある。アン・ニード=フローリア、お前にもだ」
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