幻想の揺籠
きょんきょん
―邂逅―
「今頃世間はクリスマスイブなんすよね」
海洋学者である沖浦を乗せた有人潜水調査船『しおさい』は、聖夜のイルミネーション煌めく地上と隔絶された水深六五〇〇メートル付近を潜航している。
地球上に生命が誕生した起源と、進化の謎を解明するために小笠原海溝で一週間に及ぶ現地調査にあたっていたのだが、これと言って目新しい発見がないまま最終日を迎えていた。
海洋学者とは因果な職業なもので、海洋の九十八パーセントを占める深海の世界を知ろうとすればするほどに、陸地に残してきた家族との物理的な距離はもちろん、心までもが遠く離れてしまう。
現に恩師にあたる教授などは、定年退職後に長年連れ添った奥さんから、あっさりと三行半を突きつけられ熟年離婚の憂き目にあっている。
沖浦自身も決して他人事だとは思えず、結婚十年目を迎える
「クリスマスだろうがなんだろうが、関係なく働いているやつはごまんといる」
木下の上司にあたる操縦士の内藤は、つまらなそうに鼻を鳴らして部下の愚痴を一蹴した。内藤と親子ほど年の離れた木下の仕事に対する価値観は、隔世の感を禁じ得ない。
自分が新人の頃は、年の離れた先輩に声をかけることなど
「一つ聞きたいですけど、何度も深海に潜ってこられた沖浦さんでも、陽の光も届かない深海に潜るのは怖いものですか?」
「馬鹿か。海洋学者が潜水の度にいちいち怖がってたら仕事にならないだろ」
質問に対する答えを一瞬考えている間に、内藤が口を挟む。
「それはそうですけど……例えばですよ? アフリカ象が乗ってもびくともしない
「だから、その〝のっぴきならない事態〟が起こらないために、地上で何千何万もシュミレーションを繰り返して設計してるんだろうが」
二人のやり取りに、案外お似合いの組み合わせかもなと、つい頬を緩ませていると立て続けに否定された木下は、子どものように口を尖らせてぶつくさ文句を口にしていた。
まだ経験浅い操縦士の素人じみた心配も、実のところ沖浦もわからなくはなかった。水圧というのは十メートルごとに一気圧増加するため、水深六五〇〇メートル付近では六五〇気圧にも達する。指先ほどの面積に六五〇キロもの負荷がかかるといえばわかりやすいだろうか。
とはいえコックピットはチタン合金製の耐圧殻で守られているため、不測の事態が起こる心配はまず考えられない。強いて問題点を挙げるとすれば、設計の都合上、大の大人が三人搭乗するだけで圧迫感を感じるコックピットの狭さが、ネックと言えばネックになる。
閉鎖空間に長時間閉じ込められると、人間は強いストレスを感じる。そのうえ光の届かない深淵に降下していく感覚は、口で上手く表現することがなかなか難しい。
ムキになり始めた木下が、なおも内藤に食い下がる。
「だから例えばの話ですって。現実的には起こり得ないことは重々承知の上で、それでも僕達の命綱である耐圧殻に、マニュアルではどうにもならない不測の事態が起きたとしてですよ。その場に沖浦さんがいたらどう対処しますか?」
「……そうだな。マニュアルでどうにもならん緊急事態か」
考えうる限りの最悪な想定を思い浮かべる。自ずと応えは導き出された。そもそも、このような仕事を生業にしてる時点で覚悟はしているのだが。
「出来得る限りの手を突くして、それでも対処不能だと判断したら、そのときは添乗員に出来ることなんて一つしかないだろうな」
「なんですか? その一つって」
「――せめて、苦しまずに
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