第2話

「ッへくしゅ!」


 盛大なくしゃみをした菫は、鼻を啜って肩から掛けられた毛布をかけ直した。

 ここは菫たちが落ちた川から近い警察署。幸いけが人も死人もいなかったが、一応事故としては扱われるらしい。免停でも食らったらどうしよう。ついてない。

 ため息をついた菫は、再びくしゃみをした。


 春とはいえ、川は冷たいし全身びしょ濡れになれば寒くもなる。もう一度鼻を啜った菫は、目の前に置かれた湯気の立つ湯呑に手を伸ばした。

 触れた途端手のひらに伝わる温かい感覚。じんわりと氷を溶かしていくようなその湯呑を手で堪能していれば、ガチャリと扉が開いた。

 顔を向ければ、入ってきたのは一人のベテラン風な刑事と先ほどの整った顔をした男。


「大変お待たせいたしました」


 申し訳なさそうにそう言った男は、菫と同じようにまだ濡れたままだった。一応びしょ濡れではないものの、服や髪の毛は肌に張り付いている。だというのに、タオルをかけていなかった。


「真島菫くん、だったかな」


 男に気を取られていれば、刑事に話しかけられる。少しだけしがれたような低い声に、思わず身を固くさせる。そんな菫に気付いた男が、柔らかく微笑んだ。


「そんなに身構えなくても大丈夫ですよ。今回の件で、真島さまが責任を問われることはありません」


「あぁ。事情は水木みずきくんから聴いた」


 水木と呼ばれた男の言葉に、刑事が頷く。

 話を聞けば事故が起こったあの場所は横断歩道でもないし、飛び出した人が故意に行った事として見てくれるらしい。それでも過失がゼロになるわけではないはずなのに、お咎めも免停も何もないという。

 さらに飛び出したのは水木の連れだったらしく、今は別の部屋にいるのだとか。


「こんなに引き留めてすまないね。春とはいえ寒かっただろう」


「いや……」


「水木くんも。風邪ひかないようにな」


「はい。ありがとうございました、塚地つかじさん」


 塚地さん、と呼ばれた刑事は手を挙げて部屋から出ていく。頭を下げてそれを見送った水木が振り返る。

 全体的に色素が薄く、クリーム色の髪は濡れていてぺたりとおでこに張り付いている。スリーピーススーツを身に着けた体は細く、少しでも力を入れたら折れてしまいそう。そんな体に、菫は守られたのかと今一度認識した。


「体調に変化はございませんか?」


 自分よりも濡れている人間に言われても、なんて思いながら菫は頷く。

 川から引き上げられてすぐ保護され、温かい部屋で毛布にくるまれてお茶まで出してもらったのだ。好待遇過ぎて、体調を崩す隙も無い。


「よかった。下に車を回してくれているようです。行きましょうか」


 毛布はそのままかぶっていて大丈夫です、という水木の声につられ菫は部屋からでた。

 清潔感のある廊下を、水木の後を追って歩く。意外と人のいないそこは静かで、全身を濡らした男が二人歩いていても気になる視線はない。そのことに安心して、菫は一つため息を零す。

 だがふと一つ、気になることが。


「俺のバイクは……」


「破損していたようなので、勝手ですが修理に出させていただきました。もちろん、費用はこちらで負担します」


「……そこまでしなくていいのに」


 当たり前だとでもいうような水木に、菫は居心地の悪さを感じた。

 確かにバイクが破損していれば菫自身で修理に出したかもしれない。だがそれはバイクの持ち主だから。水木がそこまでする理由が、菫には思い当たらなかった。


「そうはいきません。僕の不注意で真島さまを巻き込んでしまったのです。本来であれば出さなくていい資金です。それを出させるわけにはいきませんので」


 だが振り返った水木は頑なに否定する。少しだけ眉をしかめた水木に、菫はそれ以上何も言えなかった。

 着ているものといい、口調といい、水木はどこかの金持ちの跡取り息子なのかもしれない。刑事である塚地とも面識がありそうだったし、もしかしたら親が警視庁に居たりするのかもしれない。としたら、水木も刑事の一人かも。

 だが刑事にしては貴族味が強く、さらに年齢が幼く見える。どちらかと言えば小説に出てくる探偵の方がしっくりくる。高校生探偵って、本当にいたのか。


「あ! 水木さん! こちらです!」


 裏口のようなところから外に出れば、一台の車が止まっていた。そこに立っていたまだ若い刑事がぶんぶんと手を振っていた。

 先ほどの塚地とは比にならないくらい元気がいい。身長が高いはずなのに、威圧感は感じられなかった。


「お手数をお掛けして申し訳ございません、尾見おみさん」


「いえいえお構いなく! 水木さんのためでしたらなんでもしますよ!」


 そのままの元気で車の扉を開けた尾見は、まるで大型犬のようだった。ないはずのシッポがぶんぶん揺れているのが見える。

 どうぞ、と促された水木に従って、菫は毛布にくるまったまま車に乗りこんだ。濡れてしまうかもしれない、という気遣いはシートに敷かれたブルーシートをみて散布。背もたれにまでかけられたそれを見て心置きなく背中を預けた。


「真島くんの荷物は後ろにあるので! お帰りの際お忘れなく!」


 尾見の言葉に後ろを見れば、確かに菫のリュックがそこにあった。バイクの椅子の中に入れておいたおかげで、水浸しにならなくて済んだのが幸いだ。買い直しとかになったらまためんどくさい。


「お先どちらの家までお送りいたしましょうか!」


「真島さまで……」


「いや、あんたでいいよ」


 運転席に乗り込んだ尾見に応えようとした水木の声を遮る。隣に座った水木はまだ全身ずぶ濡れ。菫は毛布などで温まっているが、水木はその素振りは一切なかった。警視庁についてすぐ、あの塚地と共に行動していたから。


「俺よりもあんたの方が風邪引きそうだ」


「ですが、」


「では水木さんを先にお送りしますね!」


 尾見の宣言と共に、車が動き出す。鼻歌交じりに運転をする尾見に、何か言いたそうだった水木は力なく下がった。

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