第32話 隠し事を明かす

「あなたを、置いていけだって?」


 朗輝ろうきが怒りを含んだ低い声で言った。けれども紅月は、その声の憤りの響きには気付かなかったふりをして、はい、と、もう一度はっきりと頷いて見せた。


 戸と戸の細い隙間から、朗輝のほうをうかがい見る。


 彼と話せるのは、これが最後の機会かもしれない。いまが、今生こんじょうの別れとなるかもしれない。そう思うとなんとも名残惜しく、せつなく、堪らない気分になった。


「殿下……朗輝さま。申し訳、ありませんでした」


 ふと、紅月のくちびるからは、そんな言葉がこぼれていた。


 そうしてみて、紅月は、ふと思い出す――……そういえば、ここへは、とにかく朗輝と会って彼に詫びたくて、居ても立ってもいられずに、来てしまったのだった。


 それでこんなことになるとは、つゆ、思わなかったけれども、と、紅月はちいさく苦笑する。けれども、ならばいませめて、最初の目的だけは果たしておきたいきもちになった。


 紅月は口許に自嘲めいたほの笑みを浮かべつつ、戸にへだてられながらも、朗輝を真っ直ぐに見詰めた。


「殿下はわたしに、真心をくださっていたのに……わたしは、自分が傷つきたくないばかりに、あなたさまから逃げてしまいました。そのせいで、お心をわずらわせ、あるいは、傷つけてしまいましたこと、どうぞ、ご寛恕かんじょください。――月相げっそうしつ……ありがとう、ございます。うれしかった、です」


 最後は、はにかむように紅月は言った。


 すると朗輝は、ふ、と、目を怒らせる。


「っ、それを受け取ったなら、その意味がわかってるなら、わざわざいま僕に寛恕を求める必要なんかないだろう?! 僕はあなたに怒ってなんかいないし、僕の気持ちは最初からずっと変わっていない! ――あなたと、結婚したい。あなたがいい。あなただけだ」


 せつなげに眉根を寄せて言い、朗輝は戸の隙間から帳簿冊子を差し出している紅月の手にそっと触れた。


 彼の手指は熱い。紅月を見る眸には、たしかに、大人びた情熱が宿っていた。 


 その熱に、紅月はいっそほだされてしまいたくなる。けれども、きゅ、と、くちびるを引き結んで、なんとか己を押さえ込んだ。


 目を瞑り、ひとつ息を吸って、吐く。


 瞼を持ち上げ、もう一度、真っ直ぐに朗輝を見た。


「殿下。わたしは、算術のことのほかにもうひとつ……殿下に申し上げていないことが、ありました。――わたしの、あざなのことです」


 声をふるわせながら、告げる。


 朗輝は訝しそうにこちらを見返していた。


「紅月、と……これはわたしを大切にしてくれる父が、成人の折に愛情を籠めてつけてくれたものですが、でも、ほんとうにわたしはの通りの不吉を背負っているのだと、そう言う者も、おります。そして、そう言われてしまったのは……まったくゆえのないことでも、ないのです。――わたしは月蝕に魅入られた妖女だと、不幸をもたらす存在だと……しょう国の皇族たる殿下には、そんな陰口を叩かれる者など、きっと、ふさわしくはございません」


「っ、だから? 僕にふさわしくない不吉な自分のことは、置いていけって言うつもり?」


 朗輝は眉をひそめて言った。


 紅月の意図は、まったく、朗輝の言葉の通りだ。朗輝のきもちは、うれしい。けれども現在の状況を考えれば、紅月を置いて、冊子だけ持って、朗輝はすぐにも高府を出るべきだと思っていた。


 それがきっと、引いては国のためでもある。


 けれども、朗輝はやさしい。そんな彼が心を残すことなく紅月を捨て置いていけるよう、彼のきさきに紅月は相応しくないのだ、と、こんな者に想いをかけなくてよいのだ、と、紅月はそう伝えたつもりだった。


 この場が今生の別れになるのは、すこし、さみしい。


 けれども、朗輝の役に立てたと思えたなら、たとえこののち、圭嘉に無体を働かれ、命を失うことになったとしても、紅月に後悔はなかった。


「殿下、どうか、これを持ってお行きになってください」


 紅月は繰り返した。


 けれども、反発するように、朗輝の手が紅月の指を掴んだ。


「あのさ……紅月どの」


 彼の声は、もうずっと、怒り含みに低い。


相応ふさわしくないって、なに? そう言われて僕が、はいわかりましたって、言うとでも思う? あなたを置いてひとりで去るなんて、そんなこと、すると思ってるの? ――年下だからって、莫迦ばかにしないでよね。僕が何年、あなたへの想いをこじらせてきたと思ってんだ……!」


 ようやく手が届くところまできたのに、と、朗輝は絞り出すような声でうめいた。


「する、わけがない。だいたい、陰口なんか、叩く奴らの品がないんだし、叩く奴らが圧倒的に悪いんだ。あなたのせいじゃない。あなたが気にすることなんかない。――助けるよ。僕は、あなたを。それが、最優先。あなたと一緒でなければ、僕は高府ここを離れないから……あなたも、考えて。脱出方法」


 いっそ怖いほどの気迫、強い口調で、朗輝はきっぱりという。


 けれどもすぐに、ね、紅月どの、と、一転してやわらかな声でこちらに語りかけてきた。


 戸板の隙間からわずかに覗く朗輝の口許は、紅月を安心させるかのように、そっと笑んでいる。涼やかな目許もやさしく細まって、紅月を静かに見詰めていた。


「帳簿はあなたが持っていて。あなたの手柄なんだから。後は僕が、あなたごと、それを守り抜けば済む話だ。――いい?」


 念を押されて、紅月は思わずのように、こく、と、頷いていた。


「よし……いい子」


 朗輝が口角を持ち上げる。


 それから紅月を勇気づけるように、きゅっとこちらの手指を握った。その彼の手は、相変わらず、とてもあたたかかった。泣きそうになる。


「殿下」


「ん?」


「ありがとう、ございます。来てくださって……うれしい」


 うれしい、と、紅月は素直に口にした。


 それといっしょに、ほろ、と、涙がこぼれて、頬を伝った。


「うん。――むしろ、遅くなってごめんね。だいじょうぶ。ちゃんと、助けるから……とはいえ、どうするかな。ああ! こんなことなら、錠破りの技でも磨いておくんだった」


 ぶつぶつとそんなことまで言い出す朗輝は、ほんとうに本気で、紅月と共にでなければ高府から脱出する気がないようだった。


 その様子に、ようやく、紅月のほうも覚悟を決めた。朗輝と触れあっているのとは逆のてのひらで、ぐい、と、頬の涙を拭う。


 ふたりで助かるか、ふたりで死ぬか。


 朗輝の頭にいまそのニつの選択肢しかないのなら、朗輝を救うためには、自分がなんとかこのくらを脱け出さなければならないのだ――……やるしか、ない。


 決心して、紅月は帳簿をふところにしまい直す。そして、大きく息を吸い、吐いた。

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