第31話 思わぬ助け

 どれほど時間が経ったことだろう。


 壁にもたれ、うずくまるように座っていた紅月こうげつは、ふと、顔を上げる。窓の外から、なにか音が聴こえたような気がしたからだ。


 気を引かれて見上げると、細い窓のむこうの月は、またすこし南天に近付いて、いまやだいぶんと高い位置まで昇ってきていた。


 まだ琴笛の音や人々が会話する声が遠いさざめきのように聴こえていたが、それでも、そろそろ祝宴もお開きになる頃合いだろうか。誰かがくらの近くを通りかかりでもしたのかもしれない、と、注意深く耳を澄ませたときだった。


「紅月どの……」


 低くひそめた声が、それでも、間違いなく紅月のを呼んだ。


「っ、殿下……!」


 紅月は弾かれたように立ち上がると、天窓のほうへと駆け寄った。


皇太孫こうたいそん殿下……朗輝ろうきさま」


「ああ、やっぱり、紅月どの……どうしてこんなところに? いや、そんなことはどうだっていいな。すぐに扉のほうへ回るから、待っていて」


 言うが早いか、朗輝はすぐにくらの表のほうへとやってきたらしい。ガチャガチャ、と、金属のこすれる音がするのは、彼が、鎖とそれにかけられたじょうとを無理に引っぱるからだろう。


 紅月も入り口のほうへと駆け寄って、戸のすぐ向こうに来てくれている朗輝に呼びかけた。


「殿下……どうして」


 どうして朗輝がここにいるのだろう。どうして紅月がくらの中に捕らわれているとわかったのだろう。


 彼が自分を救いに現れてくれた安堵と嬉しさとで泣きそうになりながら、紅月は思わず、向こう側にいる朗輝とをいま無情に隔てている戸板にすがっていた。


こう圭嘉けいかが途中でしばらく席を外していたのが気になって……あいつが戻った後に、かわやへ行くと嘘を言って、府邸やしき内を探ってたんだ。そしたら、庫の天窓の下に算木さんぎが落ちてるのを見つけて……あなたかもしれない、と」


 そう言われ、紅月はわずかに息を呑んだ。


「気づいて、おられたのですか……?」


 朗輝に、己が算術を好むことを、はっきりと言ったことはない。もちろん、肌身離さず持っている算盤さんばん算木さんぎだって、相手に見せたりはしていなかった。


 変わり者だと思われてしまうのをうれえて、むしろ隠そうとはしても、口には出来ないままでいたのだ。


 それでも、あるいはこちらの――おそらく一般の令嬢と比べればいかにも奇異だったろう――言動のためなのか、朗輝は、紅月が算術を好んでいることに気がついていたらしい。そうとはつゆ知らなかった紅月は、驚きに言葉を失った。


「気付いたというか……ほんとうは、最初から知ってたんだけど。でも、あなたは隠したがってるふうだったから、黙ってたんだ。ごめん」


「……ご存知だった?」


 紅月は事態がよく呑み込めず、鸚鵡おうむ返しに問うた。


「うん。知ってた」


 朗輝はてらいなく頷いたが、それでも、まだにわかには信じられない。


「知って、いた……でも、どうして」


 それで紅月は、相手に訊ねるともなく独りちるように、呆然とそう呟いている。


 朗輝は最初から紅月が算術を好むことを知っていたというのか。だが、考えてみれば、そうであったとしてもちっとも不思議ではなかった。


 なにしろ彼は皇太孫、この国の最高権威であり権力者でもある皇帝の、孫、なのである。その気になりさえすれば、きっと、たいていのことならば調べがついてしまうのに違いなかった。


 けれども、ならばなぜ、朗輝はそんな変わり者とわかっている紅月との見合いなどをわざわざ望み、あまつさえ、皇族の求婚の証ともされる月相げっそうしつまで――正式にではないにせよ――贈ってくれたのだろうか。


 いったい、どうして。


 どうして、朗輝は紅月を選んだのだろうか。


 だが朗輝はすぐには紅月の問いに答えようとはしなかった。


「話は後だよ。――とにかく、いまはあなたをここから出さなければ……いっそ、高圭嘉を問い詰めるか」


「っ、なりません」


 紅月は慌てて朗輝を止めた。


「いけません。それでは殿下の御身にも危険が及ぶやも……」


「でも、じょうの鍵はないし、鎖もほどけない。このままでは、あなたを助けられない」


「わたしのことは結構です。それよりも、殿下……これを」


 紅月はふところから、先程見つけた、数の合わない記載のあった帳簿を取り出した。ぐ、と、庫の戸を押し、わずかの隙間をつくると、そこから冊子を外の朗輝へと差し出す。


「これ、は……?」


「すべてではありませんが、庫にあった古い帳簿類を調べました。これは計算が合わない箇所のあるものです。租賦そぜいの流れの件で高家をお調べの殿下の、お役に立つかと」


「……知ってたの?」


 今度そう言って息を呑んだのは朗輝のほうだった。


 紅月は、はい、と、ちいさく頷いた。


「父から、聞いて……」


「お父上――礼部れいぶ侍郎じろうどのは、それを誰から……って、ひとりしかいないな。陛下だよね」


 朗輝は、ふ、と、ちいさく呆れたような嘆息を漏らした。


「ったく、お祖父じいさまも人が悪いな。僕には密命だとか言っておいて……でも、そうか。それなら少なくとも、陛下の蘇家へのお疑いはすでに晴れたってことだね。ひとまず、一歩前進かな」


「殿下……?」


「こっちのはなし。――そしてこれは……決定打に、なるかもしれない」


 ありがとう、と、朗輝は言った。


「ますますあなたを早く助け出さなきゃ」


 戸を閉じている鎖と錠とを強い眸で見るらしい相手に、紅月は、ふるふる、と、かぶりを振った。


「いいえ、殿下。これだけお持ちになって、一刻も早く、高府をお離れください。殿下おひとりでしたら、御身に危険はないはず……わたしのことには、気づかなかった振りをして」


 どうか、と、紅月は懇願する。


 朗輝が息を呑み、言葉を失った。

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