第30話 あやしい帳簿

 圭嘉けいかが去った後、しばらくして、紅月はゆっくりと身を起こした。


 乱暴に扱われたせいかあちこちが痛んだが、どこか骨が折れたり、致命傷的な怪我を負ったりはしていないようだ。しかも、錠をかけた堅牢なくらから逃げ出せるはずがないとでも思ったのか、圭嘉は紅月を縛り上げることをしなかった。身体は、自由に動かすことができる。


 起き上がった紅月は、まずはくらの入り口のほうへと歩み寄った。板戸を、ぐ、と、思い切り力を籠めて押してみたが、それはわずかに動くだけ、隙間程度にしか開かない。


 そしてやはり、把手とってには鎖が巻かれ、じょうがかけられているのが窺われた。


 ガチャガチャと音を立て、何度か押したり引いたりしてみたが、もちろんのこと、簡単には外れるわけもなかった。錠も、鎖も、びくともしない。


 力尽くで戸を開けて脱出するのは、どうも、不可能そうだ。


 ならば、と、紅月は今度は庫の奥を振り返った。


 ここから逃げ出すことは出来そうもない。けれども、おとなしく膝を抱えていても仕方がない。それならば、圭嘉の目がなくなったのを幸いと、いまここで自分に出来ることをしようと思った。


「帳簿が、あるかも……」


 紅月はつぶやくと、庫の奥の架台たなのほうへ歩み寄った。


 名家の庫だから、それなりの広さはある。とはいえ、ひと目で見渡せないほどではなかった。


 ここへ押し込められるその瞬間に、紅月は、庫の奥に、巻帙かんちつや冊子が積まれた書架しょかのような場所があることを見て取っていた。


 高家ほどの家なら、家財等を管理するための帳簿はあってしかるべきだ。近々の時期のものは正房おもやなり東西の廂房はなれやなりに置かれているかもしれないが、あるいは以前のものならば、このくらに移されている可能性もある。


 表に出せない不正な収支ばかりを記録した、所謂いわゆる裏帳簿などは、さすがに見つかりはしないかもしれない。それでも、いくつかの記録を照らし合わせてみていけば、計算が合わないところが発見できないとも限らなかった。


 わずかでも誤魔化ごまかしの痕跡を見つけられれば、と、紅月は思う。そして、それをなんとかして朗輝の手に預けることができれば、と、視線を鋭くする。


 うまくけば、朗輝が密命されているという、租賦そぜいの不正な流れを追う調査のための、重要な証拠になるかもしれなかった。


 書架に近付いた紅月は、そこから冊子を抜き取っては、数葉を手早くめくって中味に見当をつける。そんなことを幾度か繰り返して、やがて、帳簿と思わしき冊子の束を見つけ出した。


 それらを抱えて床に下ろすと、今度は、いつも斉腰おびの中に忍ばせている算盤さんばんの布を取り出して広げる。腰のふくろからは算木さんぎを出して、ふう、と、深呼吸をひとつ、おもむろに帳簿をひらいた。


 幸い、奥の壁には天窓が切られており、そこから月明かりが射している。そして、今宵は明るい満月夜だ。


 紅月は床に這いつくばるようにして、帳簿と首っ引きになりつつ、次々に赤と黒の算木を動かしはじめた。一葉、また一葉と、冊子をめくりながら、計算を進めていく。一冊、また一冊と、帳簿はみるみるうちに積み上がっていった。


「あった……」


 やがて、紅月はちいさく声をあげた。


 計算が合わないところがある。念のため算木を置き直して最初から術法をやり直しても、やはり、数がずれていた。


 それを確かめて、紅月は細長い帳簿冊子をふところに忍ばせた。きっとこんなふうに数があわない箇所は、この部分だけではないだろう。だが、ひとつあれば、とっかかりの証拠としては十分だ。


 後はこの冊子をどうやって外へ出すかである。


 紅月は明かり取りのための天窓を見上げた。架台たなを使えば窓に手は届きそうだが、細長く切られたそこから脱出することは、まずもって不可能なように思われた。


 あるいは、冊子だけならば外へ落とせなくもないだろうが、無造作に落としておいて、高家の使用人にでも拾われたのでは意味がない。確実に朗輝の手に渡すためには、どうすればよいだろうか。


 まるで方法を思いつかない。


 そうこうするうちに宴が終われば、圭嘉が再びここへ戻ってきてしまうかもしれなかった。じりじり、と、あせりが募る。


 紅月は自分を落ち着けようと、いつものように、算盤と算木に手を伸ばした。それにふれて、深呼吸をする。


「そう、だ……父上」


 英俊は紅月が高府へと出掛けたことを知っている。宴が終わり朗輝が出てくるのを待つ、と、そう言い置いてきていたから、すぐさま異変には気付くまいが、それでも、夜更けを過ぎても紅月が帰宅しなければ、あるいは、不審に思った英俊が高府ここを訪ねてきてくれるかもしれなかった。


 そう思った瞬間、紅月は架台に足をかけた。


 慎重に上り、天窓に手をかける。そこに嵌はまっているのは透かし彫りのある板だ。その隙間から、手に持った算木さんぎをいくつか、ぱらぱら、と、向こう側の地面へと落とした。


 もしも英俊がこれを見つけてくれたなら、紅月がこのくらの中に閉じ込められていることを悟ってくれるはずだ。府邸やしきの奥にある庫のところまで父が足を踏み入れようとするかどうか、高家の人間がそれを許すかどうか、可能性は限りなく低かったが、それでも、もはや一縷いちるの望みにかけるしか、ない。


 父が来てくれるのが早いか、それとも、圭嘉が紅月を責め立てにやってくるのが早いか。


 もはや紅月に出来ることは、月仙女の加護を祈ることだけだった。架台たなから降りると、紅月は天窓の向こうの満月を仰いだ。

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