第27話 月相櫛にこめられた思い

 朗輝ろうきが実際、紅月こうげつのことを、婚姻の相手として考えているのかどうかはわからない。けれども、彼がありのままの紅月を受け入れようとしてくれた、その態度にだけは、すくなくとも嘘はなかったのではないだろうか。紅月は、そう思う。


 そして、先程見たおぞましい夢を思い出した。その夢の中で、朗輝が紅月に放った言葉を思い出した。


 十歳も年上で生意気な口をきく不吉な人間だ、と、彼は言った。だが、そんなこと、現実うつつの朗輝は言うはずもない。こんなふうな、心の籠った丁寧な書簡てがみを寄越す人が、言う、わけもなかった。


 ならば、むしろおぞましいのは、夢とはいえそんなありえない彼の姿を想像してしまった自分のほうなのではないか。


 それは、自分の中の恐怖に負けて、無闇と朗輝をおとしめたのと同義ではないのだろうか。


 紅月泣きながらは、己自身の弱さに打ちのめされて、眉根を寄せてくちびるを噛む。


 あやまりたい、と、ふいに思った。


 一方的に逃げ出すようなことをしたことを、無性に、朗輝に詫びたくなっていた。


 ふと胸ふたがれる心地がして、紅月は朗輝が返してくれた手巾しゅきんを手に取った。


 すると、なにか、きぬのものとは明らかにちがう、かたい感触が指先にふれた。


「な、に……?」


 丁寧に折り畳まれた手巾の中に、何か別のものが包まれているようだ。紅月は手巾をひらいた――……中から出てきたのは、柘植つげの櫛だ。


 それは白木で出来た見事なもので、三日月から、上弦の偃月えんげつ、満月までのみつる月を経て、下弦、二十六日の暁月ぎょうげつに至るまでのかける月へと、月の満ち欠けの様が、繊細に、精緻せいちに、うつくしく浮き彫りされている。


「これ、は……」


 紅月は櫛を手に取り、呆然とそれを眺めた。それまで黙って紅月の様子を見守っていた父の英俊えいしゅんが、かたわらで、はっとしたように息を呑む。


月相げっそうしつ


「月相、櫛……?」


「皇族男子が求婚の際に相手に贈る、伝統の道具だ」


 続いた英俊の言葉に、え、と、紅月は目をまたたいた。


 儀式典礼をつかさど礼部れいぶの人間だけあって、父は儀礼関係のことには誰よりも詳しい。また、しょう国は月仙女・姮娥こうがまつる国であり、たしかに、月相月の満ち欠けは、この国の皇族が象徴的に用いる意匠でもあった。


 だが、いま英俊は、求婚と言っただろうか。


「殿下が、わたし、に……?」


「いや……いや。正式の求婚には、皇帝陛下の許可が要る。陛下からの聖旨をたまわるかたちになるはずだ」


 つまり、皇帝からの勅使を経ずして朗輝が自らが届けたこれは、礼法にのっとった、本式の求婚とはちがうということだ。


「とはいえ……しかしな」


 ぶつぶつと呟く英俊も、いったいこれをどう理解していいのか、迷うふうだった。


 けれども、と、紅月は思う。うるんだままのひとみで、てのひらに載せた月相櫛を見下ろした。


 たしかに、手続きを踏んだ、正式のものではない。それは、わかっている。けれども、と、両のてのひらで櫛をたいせつに包み込むようにしてから、紅月はそれを胸に押し当てた。


「……それでも、太孫殿下はこれで……お前へのお気持ちを、お示しになりたかったのかもしれない」


 紅月の想いを代弁したのは、傍らの英俊だった。


「ありがたいことではないか」


 父は俯いて黙り込んでいる紅月の頭をそっと撫でた。紅月は胸に戴いた櫛をますますいだくようにして、きゅう、と、せつなく眉根を寄せた。


 息が詰まる。


 苦しい。言葉が出てこない。


 かわりにまた、ほろ、と、涙がこぼれた。申し訳なさからだ。


 紅月との結婚を、朗輝は本気で考えてくれていたのかもしれない。それなのに紅月は、自分が傷付きたくないがために、朗輝を信じようとしなかった。


 彼の言葉を、態度を、真っ直ぐな眼差しを、やさしい微笑みを、あたたかな手を、自分で勝手に、つくられたものだなどとと思ってしまった。疑ってしまった。信じなかった。


 り固まって、話をしようともしなかった。


 なんて、ずるいのだろう。朗輝は最初から紅月を受けとめようとしてくれていたのに、相手と真摯しんしに向かいあうことから、紅月は逃げてしまった。


「殿下……朗輝さま」


 謝りたい。とにかく、詫びたい。


 朗輝が真っ直ぐに謝罪を伝えてくれたように、紅月もまた、彼に会って、真正面から自分の言葉で伝えたかった。


 間に合うだろうか。


 いまならばまだ、かろうじて、彼との縁はつながっているだろうか。


 会いたい。


 いますぐ会って、話をしたい。


 朗輝がどう思おうと構わない。たとえ怒らせるとしても、たとえ嫌われるとしても、それでも、隠そうとしていたことをぜんぶさらけ出して、疑ったこと、逃げようとしたこと、自分の弱さのすべてを、彼に謝りたかった。


 紅月は立ち上がった。


 父が怪訝な顔をする。


「殿下に……お会いして参ります」


 紅月は英俊にそう言った。英俊は目を瞠る。


「しかし、紅月。殿下は乗騎であられたし、もう」


 もううに高家に着いているかもしれない、と、父はそう言うのだろう。それは紅月にも重々わかっていた。


 それでなくとも、高家の宴席へ赴く途中の朗輝が蘇家に立ち寄ってから、随分と時が立ってしまっていた。追いつけない公算のほうが高い。理解はしていたが、それでも、もう居ても立ってもいられなかった。


 いま行かなければ、きっと、ずっと後悔する。


 紅月は朗輝が贈ってくれた櫛をきゅっと握り、ひとつ、息を吐く。


「宴席は、どれだけ長くとも、深更にまでは及ばないでしょうから……殿下がもし、もう高家に入られた後だったら、門前で、お待ちしようと思います」


 高家から朗輝が出てくるのを待つつもりだ、と、そう告げて、櫛を懐へ大事に仕舞うと、紅月は毅然きぜんとして房間へやを出た。

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