第26話 朗輝からの書信

 朗輝ろうきはいったいどんな想いでこれを、と、そう思いつつ、紅月こうげつは、父から受け取ったはこふたをそっと取る。


 そして目にした筺の中味に、ふいに、泣き笑うように眉を寄せていた。


「殿下は、ほんとうに……おやさしい」


 二段になっている筺の、その上段には、以前贈ってくれたのと同じような、とりどりの華をかたどったうつくしい見目の菓子が整然と並べて詰められている。これもまた朗輝が手ずからつくってくれたものなのに違いなかった。勿体なく、有り難い、心尽くしの贈り物だ。


 紅月は菓子をひとつ持ち上げる。そのまま口許へ運ぶと、ひとくち、食べてみた。小麦をいてね、成形して丁寧に細工を施してから焼き上げた皮は、さくりとした食感だ。中のあんには、木の実を砕いて蜜で煮たものが入っていて、口中には上品な甘さが広がった。


「……おいしい」


 ふわ、と、自然に頬がほころぶ。


 それと同時に、なぜか、涙がこぼれてきそうだった。


 紅月はそれを誤魔化ごまかすように、後は無言で菓子を食べ切る。それでも目許にじんわりと滲んでしまった滴をそでぬぐってから、筺の下段へと目を向けた。


 そこには、きれいに折り畳まれた手巾しゅきんと、それに添えるようにして一葉の信書てがみが収められている。


「あのときの、手巾……」


 紅月は独りちた。


 その手巾は、一緒に湊へ出かけた日、どろねから紅月をかばったせいで汚れてしまった朗輝の頬をぬぐうのに使ったものだ。洗って返す、と、その日、朗輝が強引に持ち帰っていたものだった。泥の衣魚しみはきれいに落とされ、もとのとおり、白い布地に波紋や格子、菱紋などの刺繍が鮮やかである。


「わざわざ、お返しくださったのですね」


 それとも彼は、もうなんの後腐れがないよう、これをきっぱりとした手切れのしるしのつもりで送りつけてきたのだろうか。そうかもしれない、と、まだ自嘲が浮かぶのを止められないままで、紅月は朗輝からの信書てがみをそっと手に取った。


 ほのかな紅色の薄様紙から、きしめられた香が匂い立つ。なにが書かれているのだろう、と、それを読むのはすこしこわくて、けれども見ないわけにもいかなかった。


 紅月は意を決して、きちんと折り畳まれた薄様をはらりとひらく。信書には、朗輝のものらしい手跡で、ひとつひとつ、几帳面に文字がしたためられていた。


 ――先日は申し訳なかった。


 最初は堅い文面での詫びの言葉だ。


 ――刹那の腹立ちから働いた己の狼藉ろうぜきを、いま、心から悔いている。許されなくとも仕方がないが、せめてもの謝罪の意を込めて菓子を贈る。


 朗輝はそうつづっていた。ところどころで墨が掠れ、あるいはにじむのは、これを書き記した際の彼の心の揺れのあらわれだろうか。書卓につき、筆を執る朗輝の姿が――見たこともないくせに、ありありと――紅月の脳裡には浮かんできた。


 書信てがみは決して、適当にしたためられたものではないように思われた。時をかけ、心を籠めて、朗輝は誠実にこれを書いてくれたのではないだろうか。根拠などない。けれども直感的に紅月はそんなふうに感じた。


 そこから文面は更に、預かったままになっていた手巾を返す旨について触れていた。


 波紋や格子紋、様々なかたちの組み合わせがうつくしい、と、朗輝は紅月の施した刺繍の図案をめてくれている。もらった香り袋の月や花鳥の刺繍もうつくしかったが、こちらもまた、丁寧に施された文様をみれば、ひと針ひと針をあなたがたのしみながら刺したのが伝わってくる、と、そんな文言が添えられていた。


 ――不快だなんて思わない。


 ふいに、朗輝が先日、馬車の中で言ってくれた言葉が耳によみがえってきた。


 紅月がさかしらな口をきいたとき、けれども、彼はただ笑ってそれを受け止めた。思えば賞菊に招かれた際もそうだ。こちらが奇異な発言をしても、朗輝はそれに眉をひそめたりはしなかった。


 ――自分を押さえないでいい。あなたを開いて、あなたはあなたらしくいればいい。僕はあなたを否定しない。


 次々と耳の奥にこだまする言葉に、ああ、と、紅月はうめいた。こちらをじっと見詰める、朗輝の真摯で真っ直ぐな眼差しを思い出した。


 朗輝は皇帝の密命を帯びているという。租賦そぜいの不正な流れを明らかにせよ、と、そう命じられて、だから、現当主が戸部こぶ尚書ちょうかんであるこう家の内情を、彼は探りたかったはずだ。


 紅月に近づいたのは、かつて昵懇じっこんといわれた家と高家の関係を洗い出したかったからなのかもしれない。あるいは、高家嫡男の許婚いいなずけだった過去のある紅月から、すこしでも情報を引き出そうと企んだのかもしれない。


 けれども、ほんとうに、それだけだっただろうか。


 朗輝のあの真っ直ぐな眼差しが、あの言葉が、そのうちに秘めていた誠実さ、真摯さは、すべて嘘偽りだったろうか――……そんな、わけがない。


 否、紅月はなお、朗輝が自分に近づいた目的だって、ほんとうははっきり確かめてはいないのだ。すべては紅月の勝手な推測、憶測に過ぎなかった。


 それにもかかわらず、そんな曖昧で不確かなものをもとにして、一方的に、朗輝を信じられなくなっていた。


 ――どうして、わたしだったのですか。


 ――ひみつ。


 ――どうして、わたしなんかを。


 ――教えてあげない。なんか、なんて言っているうちは。


 朗輝が見せた、年相応の少年らしい悪戯いたずらっぽい笑顔を思い出す。けれども、軽口にまぎらわせたその裏に、あのときの朗輝は、どこか切なげでさびしげな色をもにじませていたような気がした。


「殿下、あなたは……」


 紅月は呟いた。知らず、ほろ、と、頬を涙が伝っていた。

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