四章 皇太孫殿下にお別れを言いました、でも…。
第25話 憂悶に沈む
――本気にしたの?
――だって、そうでもなきゃ、どうして僕があなたなんかと?
理由がない、と、彼は冷たく言い放つ。
――あなたなんか、僕に
はは、と、
その刹那、急に足元の地面がなくなって墜落するかのごとき恐怖に襲われる。身体が瞬時、
夢か、と、思う。胸ではいやな
夢だ、と、息を吐きながら、紅月は
どうやら
身体を起こして視線を向けると、
残照だけが世界に
今宵は月が
なんという
朗輝はあんな言葉を紅月に言い放ったことはない。だから、いまの夢も、紅月が漠然と抱えている不安や恐怖がかたちを為したものに過ぎないのだろう。
けれども、と、それでも紅月は、頭の隅でどうしても嫌な想像をしてしまうのをやめられなかった。口にこそ出さなかっただけで、ほんとうは朗輝だって、心の中で、紅月を嘲笑していたのかもしれない。分不相応な期待に舞い上がりそうになっていた自分を、彼がどう見ていたのかと思うと、居た堪れないきもちになった。
ふ、と、溜め息を
もう今日は、
つらつらとそんなことを考えて、紅月は、ふと、自嘲めいた笑みを口許に浮かべた。
どうして今更こんなことを気にしてしまうのだろう。だって、朗輝はいまやもう、紅月とはなんら関係のない人になってしまったのだ。きっと彼と親しく会う機会など、二度と紅月に訪れはしないだろう――……そして、
一時、極上の夢を見せてもらっただけのことだ。
朗輝だって
あの日から、ほんとうに、
これまで、自分の
けれども、いまとなっては、どうだろう。
朗輝と皇宮で別れてからの五日間というもの、紅月は、なによりも好きなはずの算術すら手につかない有様で、日々、ぼんやりと時を暮らしていた。
お守り代わりに、密かに
「――紅月」
そのとき、不意に、扉の向こうから英俊の呼ぶ声が聴こえてきた。けれども紅月は、なんとなく
「……父上」
そこでようやく、紅月は力なく言って、相手のほうへと視線を向けた。
「父上……それ、は?」
紅月は父の手にあるものに、ふ、と、胸ふたがれる想いがした。賞菊を口実に初めて顔を合わせた次の日、朗輝は紅月に手ずから
「皇太孫殿下が、いま、門前にお越しになってな。――これを、お前にと」
言いながら英俊は、紅月の手に、朗輝からだという
「高家の宴席に招かれて出向いていかれる、その途中に、
「殿下が……」
ぽつ、と、紅月は呟いた。
きっと朗輝は、五日前、くちづけを受けた紅月が泣いたことを気に病んでいるのに違いない。いきなりの接吻で紅月を傷つけたと思っているかもしれない。
だが紅月はあのとき、なにも、朗輝にくちづけられたのが
厭だったのではない。
厭などではなかった。
そうではないのに、泣いてしまった。どうしてか、胸が苦しくて、たまらなかったのだ。自分が
もう、傷つく前に、逃げてしまいたかった。
たぶん、そういうことだったのだ。朗輝のせいではない。紅月のほうの問題だ。
それなのに、彼に気を遣わせてしまった。
「……もうしわけ、ありません」
聴かせたいひとには届くはずもない謝罪を、それでも、紅月はちいさくくちびるにのぼらせていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます