第22話 ふたりに垂れ込める暗雲

 カン、カン、と、わずかにもるような金属音が、連続して響いている。朝堂ちょうどうの前の広大なひろばでは、近衛きんえい士卒しそつたちの訓練が行われているようだった。


 兵卒が打ち合う中に、武術の鍛錬たんれんのためだろう、朗輝ろうきの姿も交じっている。汗を光らせ、真剣な表情で、朗輝はいま剣を振るっていた。


 その姿を、皇宮に仕える年若い女官たちが、やや離れたところから密かに覗き見て、なにやらささやきあっている様子だ。頬を染め、時折、黄色い声すら聞こえてきた。


 少女たちにとって、おおやけに現れたばかりの若き皇子は、きっといま一番の憧れの的であるに違いない。


 そんな人が一時でも自分と見合いの席についてくれた。わずかばかり極上の夢を見させてもらったということだ、それだけでも身に余る幸いだったと思っておかなければ、と、紅月こうげつは手の中の書状――高圭嘉から預かった、宴への招待状――を見下ろしながら思った。


 いま、紅月もまた、訓練の行われている場所からすこし距離のある位置から、剣の練習に励む朗輝の姿を見詰めていた。


 今朝の朝議の折に、父・英俊えいしゅんから朗輝に、紅月が面会を求めている旨が伝えられているはずだ。昼下がりに皇宮へ赴いた紅月は、英俊の勤める礼部れいぶ官衙かんがに立ち寄り、先に父とは対面してきていた。


 その際に、朗輝はいまは朝堂院で近衛の若者たちと剣の訓練中のはずだと教えられ、ここまでやってきたのだ。お訪ねしても大丈夫なように手筈は整えてある、と、英俊からはそうも言われていた。


 果たして、朝堂院に朗輝はいた。


 が、ちょうど仕合しあいの途中で、相手はまだ紅月のことに気がついてはいなかった。


 このまま気づかずに立ち去ってくれたならば、と、手に持った書状に視線を落としながら、そんなことを思う。自分で決めて信書てがみを届けに来ておいて、手渡さずに済むことを、どこかで願ってしまっていたらしい。


 莫迦ばかみたいだ、と、自嘲する。気分はひどく重たかった。


 紅月が、そ、と、溜め息を漏らした刹那だ。


 カァン、と、ひとつ大きな音が響いて目を上げると、ちょうど、朗輝の持つ剣が相手にね飛ばされたところだった。


 鍛え上げた近衛の士卒に対し、まだまだ身体が伸びきる途上にある朗輝は、やはりどうしたって細い。目方めかたが足りない分だけ、剣撃が軽いのだろう。仕方がない結果とはいえ、朗輝はいかにも口惜くちおしそうな表情を浮かべていた。


 石畳の地面に転がった己の剣を取りに行く顔が、どこかねたようなそれである。それが年相応の少年らしくて、かえって紅月には微笑ましかった。


 朗輝が兵卒たちと言葉を交わしながら笑い合うのが聞こえている。その溌剌はつらつとした、朗らかな笑顔に、紅月が無意識に口許をゆるめた。


 そのとき、ふと、朗輝の顔がこちらを向いた。


「紅月どの!」


 彼は嬉しそうな声で呼ぶと、なんのてらいもなく紅月に向かって手を上げてみせる。紅月が拱手の礼を持って応じる間にも、軽やかな足取りで、こちらへと駆けてきていた。


皇太孫こうたいそん殿下にご挨拶を」


「堅苦しい礼なんていいよ。それより、いまの見てたの? 恰好かっこう悪いな。どうせなら、勝つところを見てほしかった」


 ちら、と、くちびるを尖らせてみせるけれども、すぐにまた、彼は明るい笑顔に戻った。


礼部れいぶ侍郎じろうどのから聴いてる。会いたいって、何か僕に用でもあった? いや、用なんてなくても会いたいって思ってくれるなら、そのほうが、嬉しかったりするんだけど」


 はにかむような表情を見せる相手に、紅月はすこしだけうつむいた。


 朗輝がこんなふうに言ってくれるのは、紅月の気を引こうとしての、すべては演技なのだ。


 いまも、ということは、まだ彼は、家とこう家の関係を疑っているのだろうか。それとも、己の帯びる密命にとって、まだ紅月は有用だと判断しているのだろうか。


 そんなふうに考えると、昨日までは鼓動を高鳴らせていた相手の甘やかなささやきも、いまはこちらの胸を切なくさせるばかりだった。


 一迅の風が、さぁあぁん、と、石畳を吹き渡っていく。


 朗輝の髪が揺れ、紅月のそれも風になぶられた。


「紅月どの……?」


 かすかにうつむいたままで答えない紅月をいぶかって、朗輝がこちらを上目に覗き込む仕草を見せた。


 自分でもぎょし切れない想いに囚われて、きっといま、みっともない表情をしてしまっている。それをどうしても見られたくなくて、紅月は朗輝から顔を背けた。


 けれどもそれで、相手はますますこちらの態度を不審に思ったようだった。


「どうか、した?」


 眉をひそめ、やや低めた声で訊ねてくる。


「これ、を……殿下に、お届けに」


 紅月は意を決して、預かった書状を朗輝に手渡した。


 朗輝は一瞬、ぱちくりと目をみはった。


 信書てがみの中にしたためられているのが紅月の用件であるならば、いま目の前にいるのだ、直接に言えばいいことである。だから書状は紅月からのものではあり得ない、と、朗輝は瞬時にそう悟ったようだ。


 怪訝そうに紅月が差し出した信書てがみを見下ろすと、差し出し主を確認した。


 その途端、相手の表情が、みるみるけわしいものになる。


「なに、これ……?」


 寄せられた眉根には、明らかに不快がにじんでいた。


「なぜあなたが高家から僕への書状を預かってくるんだ」


 低い声は、どこか詰問の響きを帯びている。紅月を真っ直ぐに見上げる朗輝の黒いひとみは、間違いなく、紅月を非難していた。

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