第17話 かつての許婚との遭遇
「久し振りだな、
男はどこか含みのある、ねっとりとした口調で言った。その声に、紅月はますますきつく眉を
「それにしても、おまえ……こんなところで、何をしてるんだ? ああ、そうだ。私はあれから結婚して、妻との間には、いまは
男は紅月の様子などお構いなしに、一方的につらつらと言葉を重ねる。そのまま、こちらへ近づいてこようとした。
逃げ出したい。
それなのに、身体が冷たくかたまって、うまく動いてくれない。
紅月は無意識に、きつくてのひらを握りしめていた。
そんな紅月と男との間に、けれども、
朗輝は軽く腕を上げて、紅月を己の背後に隠すようにしてくれる。だから、いま、その
まだ伸びきる途上にあるそれは、決して、おおきな背中とは称せないものだった。それなのに、そのときの紅月には、瞬時にこちらの異変を見て取って、相手からこちらを守る
「――……あなた、誰?」
朗輝は警戒心も
「
青年が朗輝の問いに答えるより先に、けれども、朗輝の背中に小声で教えたのは紅月だ。青年の返事を待っていて、向こうが何を告げてくるのかがわからないのが怖かった。
「わたしの……
そう続けて付け足すと、朗輝は軽く目を
紅月の実家である
母は紅月が幼い頃に亡くなってはいたものの、両家の良好な関係はそれで途切れるということもなかった。それで、紅月が十六歳を迎えて成人するのに合わせるように、圭嘉との間の縁談が取り持たれたわけである。
しかし、ふたりの
両家とも、当主は
ために、紅月が、己のかつての許婚である高圭嘉と会うのは、破談以来、いまが初めてのことである。
とはいえ、自分との婚約破棄のあと、さして間をおかずに青年が別の相手と結婚したことを、紅月は知っていた。なにぶん力ある名家の子息だ。紅月との関係が白紙に戻ったところで、次の相手には事欠かなかったことだろう。
それに、と、紅月は思う。
当時、高家が――高圭嘉が――出所となって流れた、紅月に関する風聞は、あの破談を、紅月のほうに
こちらとは、大違いだ。
紅月がいまなお嫁いでいないことくらい、圭嘉は十分に知っているはずっだった。だから、最後の問いは、多分に
それほどに、相手は紅月を
――おまえのようなものを
――薄気味の悪い、
破談を言い渡されたとき、圭嘉に向けられた冷たい眼差しをまた思い出す。それからしばらくの間、自分のまわりで飛び交った噂話や陰口が耳に甦ってくる。
きゅう、と、胸が締め付けられるように痛んで、紅月は眉を
まだ幼かった自分が抱いた淡い恋。それが破れた傷は、時と共に、やがて癒えたように思う。
けれども、そのとき、自らを頭ごなしに否定された切なさや悲しさは、紅月の根幹を
だからこそ、薄情だった元許婚を前に、紅月はいまも恨み言のひとつ、文句のひとつも、言ってやれない。
本来なら、その薄情を真正面から
紅月は、
だが、ふと、代わって圭嘉を責めてくれた者がある。いま紅月を守るように圭嘉との間に立ってくれている
「人に泥を跳ねておいて、その態度とは……ずいぶん失礼ではないか?」
少年は一回り以上は年上であろう圭嘉を前に、
紅月と会話するときとはまるでちがう、硬質な声、形式ばった固い口調である。けれどもそれは、おそらく
しかし、自分より随分下の少年に睨めつけるように見据えられ、圭嘉は
「なんだ、おまえは?」
低い声で言う相手は、どうやら、いま紅月を庇うように立つ人物が皇太孫だとはわかっていないらしい。
だが、それも仕方のないことだ。
朗輝は成人してまだ間もなく、
圭嘉のほうも、
さらに、紅月のもとへもたらされた朗輝との縁談も、まだ内々のものでしかない。それを知る者は限られていた。
そうなれば、いま紅月の傍に
そんな相手が自分に偉そうな口をきくのは、さぞ、不快だろう。
だが、事実はそうではない。
ここにいるのは皇帝の孫、皇太子の嫡長子であり、すでに皇太孫と尊ばれてさえいる少年だ。
「私は、
朗輝は真っ直ぐに相手を見返しつつ、きっぱりと己の
その瞬間、圭嘉がさっと顔色を失う。
官吏ならば――たとえ顔までは見知らずとも――さすがに皇太孫の姓字を知らないわけもないだろう。圭嘉は朗輝の身分を悟り、ようやく己が皇族に対してとんでもない
相手は、もはや紅月のことに構う余裕などなさそうに、取り乱した様子をみせる。
「も、申し訳ありません、皇太孫殿下……その、先程のは、決して故意ではなく、単なる事故でございます。こちらの不注意は幾重にもお詫び申し上げますゆえ、どうかご
しどろもどろに言い募った。
「許し難い」
朗輝は不愉快そうに、冷たい口調で言い放つ。
その重い声に、圭嘉は息を呑み、ますます顔色を失くしていた。
「よ、汚してしまったお着物は、もちろん、高家が弁償を……」
そう慌てて言い足したが、朗輝は更に顔を
「言っておくが、私に泥をかけたことが許せぬというのではない。そうではなく……私が許せぬと申すのは、そなたが彼女を暗に
朗輝は低く
「殿下……お静まりを」
蒼い
すると、紅月を背に守って、圭嘉との間に立つ恰好の朗輝が、ちら、と、紅月を振り向いた。
「あなたは……こんな男を、庇うの? もしかして、まだ、この男のことを忘れられないってこと……?」
それまでの気迫はどこへやら、そのときばかりは、朗輝はどこかたのみない声で不安そうに言った。
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