第14話 いやな記憶

 馬車の車輪がごろごろ音を立てて回るのにあわせて、相変わらず、車駕しゃがは小刻みに揺れていた。


 だから時折、紅月こうげつの身体は朗輝ろうきの肩にふれてしまう。先程までよりももっともっとそれが気恥ずかしくなった気がして、紅月は、ますます身体を固くしてちいさくなった。


 が、その間、朗輝は黙ったままで、じっと車駕の床を見詰めている。何かを考え込むふうだった。


「――あのさ……どうかした?」


 やがて、ふと顔を上げると、相手は言った。


「え?」


 何を問われたのかがわからなくて、紅月は目をしばたたく。


「何があったの?」


 あらためてこちらへ顔を向けた相手に重ねて訊ねられたが、紅月にはやっぱり、朗輝の質問の意図がわからなかった。


「どういう、ことですか?」


 おずおずと問いを返すと、相手は眉を下げて、わずかに苦笑するような表情を見せた。


「ごめん、急に。なんていうか……この前も思ったけど、いまのあなたが、なにか、我慢してるというか、押さえてるというか、そんな感じがしてしまったものだから」


 そう言ってから、僕の勘違いならいいんだけど、と、朗輝は肩をすくめた。


「僕が初めて見たときのあなたは、もっと、こう……うまくいえないんだけど、堂々としてたっていうか、自由っていうのかな、自分自身を謳歌おうかしてる感じがしたんだ。でも、いまのあなたは、すこし……息苦しそう。僕のせい? 僕はあなたに、我慢をさせている?」


 最後の問いは、困ったような、それでいてどこかかなしげな響きを帯びていた。


 思いもかけぬ相手の言葉に、紅月は息を呑んだ。


「ち、ちがいます!」


 そんなことはない、と、即座にかぶりを振る。


「殿下のせいでは、ありません……それは、ちがいます」


「そっか」


 朗輝はほっと息を漏らしたけれども、すぐに憂わしげな視線を再び紅月に向けた。


「でもやっぱり、いまのあなたが、あなた自身を押さえ込んでいるっていうのは……あたってた?」


 投げられた問いに、今度、紅月は黙り込んだ。


 たしかに、そうなのかもしれない、と、思う。


 けれども、会うのがまだたったの二度目でしかない朗輝にそうとわかってしまうほどに、紅月の振る舞いは不自然なのだろうか。


 そんなことを思いながら眉根を寄せ、今日も密かに忍ばせている算盤さんばんを、斉腰おびの上から撫でるようにした。


 紅月は算術が好きだ。


 けれども、いつの頃からか、それを人前では隠さねばならないと思うようになっていた。


 我が房間へやにいる時こそ、あるいは、父の前でこそ、それなりに好きに振る舞ってはいる。けれども、一歩外へ出れば、人前に立てば、どうしても自然体ではいられなかった。


 女子おなごでありながら算術を好むなど、普通ではない。かつては思いもしなかったそんなことも、長じるにつれ、理解わかってしまった。


 だから、心の赴くまま、気儘きままに振る舞うことは、いまとなってはとても出来ない。


 けれども――……以前の自分は、こうではなかったのだろうか。


 そうだったかもしれない。思い出せない。


 そのかわりに思い出したのは、かつての許婚いいなずけに投げつけられた言葉だった。


 ――我がこう家は気味の悪い妖女ようじょを嫁に迎えるつもりなどない。


 ――おまえとの婚約は白紙だ。私はおまえのようなものをめとる気はない。


 耳の奥に響いた幻の声に、紅月はぎゅっと目をつむった。臓腑ぞうふが冷える。吐き気がする。


「……ごめんなさい」


 不意に、あたたかなてのひらが頬に触れて、紅月は閉じていたまぶたを持ち上げた。


 見ると、間近から、朗輝が心配そうにこちらを覗き込んでいる。


「ごめんなさい。いやなことを、思い出させてしまったみたいだ。ひどい、顔色……ほんと、ごめん。不用意なことを言ってしまった。ゆるして」


「あ……へいき、です。ちょっと、昔のことを……許婚のことを、思い出してしまって」 


「たしか、高家の……こう戸部こぶ尚書しょうしょの、御子息だったよね? あなたが成人する前から、両家の間では縁談が進められていたっていうけど」


 朗輝が言うのに、紅月は驚きながらも、ちいさくうなずく。相手が、もう十年近くも前の紅月の縁談のことを把握していたのは意外だった。


 が、当時それなりに話題にもなっていたことだ。知られていても、おかしくはないのかもしれない。


「わたしが……要らぬことを言ったのが、遠因だったのです。だから、それからは……発言には気をつけようと、思ってはいるのですけれど。なかなか、うまくいきません。おかげで父にもしかられてばかりです」


 紅月は強いて冗談めかした笑顔をつくってみせた。


「そんなだから、二十五歳にじゅうごにもなって独り身なのだ、と。――わたしも、そう思いますけれども」


 紅月が苦笑するように言うと、朗輝は、む、と、くちびるを引き結んだ。


「僕はそうは思わない」


「え?」


 朗輝があまりにもきっぱりと言うので、紅月は驚いて目をみはった。

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