第12話 馬車の中の戯れ

 しょう国の皇都こうと盈祥えいしょうまちを取り囲む城壁じょうへきを出て、しばらく南へ行ったところには、泗水しすいという大河が流れている。


 その河に、かなり大型の船も停泊できるようなみなとがあるが、これが隆昌りゅうしょうと呼ばれる、皇都から最も近いとまりだった。


 隆昌は、南部や沿岸地域などから、海上をて河を遡上そじょうする形で、日々、多くの荷が運び込まれている場所だ。朗輝ろうきは今日、そのみなとの様子を見に行きたいらしかった。



 馬車の中で、紅月こうげつはいま、朗輝の隣に並んで座っている。


 まだここは皇都の中、まちを南北に貫く大通りの石畳いしだたみの上を、城門へ向けて進んでいる途中だった。


 車輪がごろごろと重たい音を立てながら回り、車駕しゃがはそれに合わせてわずかに揺れる。先日、皇宮へ向かうためにひとりで乗っているときにはちっとも気にならなかったその揺れが、けれども、今日はなんとも気にかかってしまっていた。


 理由はわかっている。


 車駕が揺れる度に身体がかしぎ、そのせいで、時に、朗輝の肩に触れてしまいそうになるからだ。


 そんなふうになる度に、紅月ははっと息をんで、身を固くすることを繰り返していた。


「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」


 ちいさくなって身をこわばらせている紅月に、隣にいる朗輝が苦笑した。


 こちらを覗き込むようにした黒い眸が、すぅっと細められる。まだ少年らしいまろみをわずかに残した頬に浮かぶやわらかな笑みを前に、紅月は、ですが、と、躊躇ためらいがちに言った。


「身体がぶつかって、殿下にご迷惑をおかけしそうで」


 きゅうっと肩をすぼめて、恥じ入るようにうつむき、はたはた、と、二度ほど瞬く。


 おずおずと口にした言葉に、けれども朗輝は、きょん、と、不思議そうにした。


「別に僕は迷惑だなんて思わないけど。――でも、あなたが身体が触れるのを不快に思うのなら、僕も気をつけるから言って?」


「ふ、不快だなんて……!」


 とんでもない、と、紅月は首を振った。


「そう? なら、よかった」


 朗輝が息をついたそのとき、不意に、馬車が停まった。


 急なことに、紅月の身体は前のめりに倒れそうになる。


「紅月どのっ」


 即座に、朗輝はこちらの肩を抱いて紅月を支えてくれた。


「城門かな。――平気?」


 どうやらいつの間にか、馬車は皇都を囲む城壁のところまで来ていたらしい。そこからしばし、ごくゆっくりと進むのは、そこだけ道幅が狭くなった門の下をくぐるためなのに違いなかった。


 この門の向こうは、もう、皇都の外だ。


 なんとなくそんなことを考えたとき、紅月はふと、いま自分が相手の胸に手をつく恰好かっこうになって、ほとんど相手にまれるような体勢になっていることに気がついた。


「あっ」


 はっとして、まずは慌てて手を離す。


 こちらの反応に気付いた朗輝がすっと腕をほどいてくれたので、紅月は気まずく目を伏せつつ、体勢を立て直した。


「す、すみません。失礼を」


「ん。さっきも言ったけど、僕は平気だよ。――城門を抜けたら道がもうすこし悪くなるかもしれないから、気をつけて。昨日の雨で、まだぬかるんでいるだろうし」


 そうこちらを気遣い、相手はちらりと紅月に視線をくれた。


「なんならいっそのこと、ずっと僕にもたれかかってくれててもいいよ? 湊に着くまであなたを抱きしめていられるのだったら、僕にとっては、役得だ」


 冗談めかして言って口の端を持ち上げ、軽く両腕を開いてみせる。


「ほら、おいで」


 いっそ愛らしい仕草で小首を傾げて、朗輝はこちらを促した。


「と、とんでもないっ……そんなこと、でき、ません」


 できるわけがない、と、紅月は頬を染めてかぶりを振った。


「ちえっ、ざんねん。――でも、それってもしかして……僕がの身体がまだ小さくて、頼るに値しないってこと?」


 遠慮する紅月を前に、朗輝はつまらなさそうに舌打ちしてみせ、ちいさくくちびるを尖らせる。


 ただ、その目は笑っていて、だからもちろん、相手が本気でそんなことを言っているわけではないことは紅月にもすぐにわかった。


 それでも慌てて首を左右に振り、朗輝の言葉を否定する。


「そういことでは、なくて、ですね」


 そんなれ馴れしい態度を、皇太孫殿下を相手にとることなどできるはずがない、と、そういうことだ。紅月が困ったように眉を寄せると、朗輝はこらえかねたように、ふっ、と、笑み声をもらした。


「うん、わかってるよ。冗談。――でも……あなたは、困り顔も可愛いね」


「で、殿下……!」


 それこそご冗談を、と、紅月はちいさく朗輝をなじった。


 まったく、年上を良いようにからかわないでほしい、と、思う。


 頬を染め、朗輝の視線から逃げるみたいに、紅月はまたうつむいてしまった。が、朗輝は目を細めてそんな紅月を見つめるばかりで、こちらの口にした文句に対しては、素知らぬ振りを貫いていた。


「そ、そういえば」


 沈黙が居たたまれなくなって、紅月は話題を変えた。


「湊へお越しになりたいとは……船で荷が入る様子をご覧になるために、でしょうか?」


 朗輝にそんなことを訊ねてみる。


 皇都の南に位置する隆昌りゅうしょうとまりには、大小さまざまの船が入ってくる。


 そういえばいまはちょうど各地で集められた租賦そぜいが都へと運ばれる時期だから、あるいは、朗輝が見たいと思っているのはその船なのかもしれなかった。


「うん、そう。お祖父じいさま……っと、陛下に、言われて」


 祖父と呼んでしまったあとで、しまったという顔を見せ、朗輝は慌てて言い直した。


 それを聴いた紅月は、ふと、ああそうか、と、思う。


 紅月にとって、しょう国の国主である皇帝は、雲の上のような人だった。けれども朗輝にとって、皇帝という人は――当たり前といえば当たり前なのだが――血のつながった祖父でもあるのだ。


 それなのにわざわざ陛下と言い直したのは、成人して、朝廷ちょうの一角を占める者となったという自覚が、朗輝にそうさせるのかもしれなかった。


 先程まで見せていたくつろいだ雰囲気はなりを潜め、彼はすこしだけ大人びた表情を見せた。


昨日きのう今日あたりで、江棟こうとうから租賦そぜいを運んでくる船が四隻入る予定だと聴いてる。税収は国を動かす基盤だから、我が目で見て、確かめてこいと」


 そう、朗輝は祖父・皇帝から告げられているらしかった。


 だが、そんなふうに口にされた朗輝の言葉に、かすかに、紅月は妙な引っかかりを覚えた。


「……四、隻?」


 相手の言葉を聞き咎めて、つい、声を上げている。


「どうかした?」


「いえ……なにも」


 言葉をにごすが、気が付くといつもの癖で、無意識に顎に手を当てて思案してしまっている。


「どうしたの?」


 朗輝がいぶかって、改めて、今度はやや声を低めて訊ねてきた。


 こちらの様子から何かを感じ取ったのか、相手の黒眸こくぼうには、強い、真摯しんしな光が宿っている。


 そんなふうに真っ直ぐに見据えられたのでは、紅月のほうも、なんでもないのだ、と、重ねて曖昧あいまい誤魔化ごまかしてしまうことが躊躇ためらわれてしまった。


「その……多い、気がして」


 躊躇ちゅうちょしつつも、結局は、そう口にしている。


「多い? 四隻が?」


「はい」


 うなずくと、どういうこと、と、朗輝はこちらに説明を求めた。


 紅月は、けれどそこで、二の足を踏む。このまま口にして良いものかどうか、ひどく迷った。


 否、迷うまでもなく――たとえば、父・英俊えいしゅんなどに言わせるならば――まったく言うべきではないたぐいのことであろう。


 家ではいいが余所よそではつつしんでおくように、と、そう溜め息をつかれるようなことだと判断が働くから、朗輝を前に、紅月は思わず口もった。


「紅月どの。――思うことがあるなら、教えてほしい」


 を呼ばれ、真っ直ぐに見つめられる。


 それでもまだ、すぐには、口を開けない。


「おねがいだから」


 重ねて請われて、そこでようやく、紅月はひとつ深く息を吸って、はいた。

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