二章 皇太孫殿下とのおでかけで、元許婚とはちあわせてしまいました。

第11話 二度目の逢瀬は雰囲気度外視にて

 それから四日後の朝である。


昨夜ゆうべの雨のために道はまだ濡れてはいたが、秋空は晴れて、澄み渡っていた。


 だが、それよりも澄んでまぶしいのは、皇太孫こうたいそん朗輝ろうきが、その端正な顔に浮かべて見せる明るい笑顔である。


 いま蘇府そふの前には、先日の賞菊しょうぎくへの招きの際と同じように、皇家の馬車がやってきていた。


 ただ、そのときと決定的に違うのは、今日は皇太孫である朗輝自身が車駕しゃがの中の人となって、ここまでやってきているということだ。


 とはいえ、騎馬で付き従う衛士えいしは左右にひとりずつと、皇太孫の一行としては、決して多いとはいえなかった。これは、お忍びであるがゆえに、えて目立たないように、と、そういうことなのだろうか。


 到着した馬車を、紅月こうげつは父と共に門前で出迎えた。


 車中から姿を見せた朗輝は、紅月の姿を視線にとめた瞬間、ふ、と、うれしそうに目を細めて笑った。軽やかに馬車から地面へと降り立つと、紅月の正面に立って、こちらを見上げる。


「おはようございます、紅月どの。雨、上がってよかったね」


 そう言いながら、わずかに天のほうへと視線をやった。


「綺麗な青空だ。――でも、あなたのほうが綺麗かな」


 にこりと笑いながら、さらりと付け足された言葉に、紅月は面食らった。


 この少年は何を言っているのだろう、と、一瞬ぽかんとして目をみはり、それから、あわあわとして、しまいにはうつむいてしまった。


「あ、ありがとう、ございます」


 言われ慣れないめ言葉に恥じ入りながら、なんとか小声でそう応じるのが精一杯だ。気付かれないようにこっそりと、ちいさな嘆息をらしてさえいた。


 いったい朗輝は、いまの言葉を、本気で言っているのだろうか。それとも、単に紅月をからかっているだけなのだろうか。


 相手の真意がまるで読めずに、紅月は戸惑うばかりだった。


 けれども、へんに期待してはだめだ、と、己に言い聞かせもする。


 きっと後者、つまりはからかわれているか、あるいは朗輝は紅月に対してだけでなくて、誰にもこうなのかもしれない。紅月は、気を抜くと不用意に浮き立ち、舞い上がってしまいそうになる己の心を、努めて抑え込んだ。


 胸に手を当てて、ひとつ、深呼吸をする。


「――皇太孫殿下に、ご挨拶を」


 改めて、父と共に、相手に向かって拱手きょうしゅの礼をした。


「ああ、どうか楽に。礼部れいぶ侍郎じろうどのも」


 朗輝は紅月と、それから英俊えいしゅんとに向かってゆったりと笑んで、なんらこだわりなくそう言った。口許に浮かぶ笑みは、実に屈託のないものだ。


 偉ぶるところがないといえば、今日もまた、朗輝は先日と同様に長袍ちょうほう姿だった。


 長袍とはそも、士卒しそつや使用人の常服である。武門の家柄の者ならば平素から好んでこれをまとうこともあったが、文人や、あるいは皇族の普段着は、深衣しんいと呼ばれる、そですそも長くたっぷりと布を使うような着物であることが多かった。


 まち歩きのために敢えてこうした恰好を選んだのだろうかとも思ったが、それにしては、皇宮での賞菊に招かれた時にも、朗輝は長袍を着ていたのだ。


 そのことを考え合わせると、この気安い恰好かっこうは、彼の、飾らず、気取らない性格の表れなのかもしれなかった。


 ただし、布地はやはり上等のそれだし、仕立ても見事なものではある。


「紅月どの、先日は楽しい時間をありがとうございました。それと、今日も僕のままに付き合ってくれて、うれしい」


 澄んだ黒眸こくぼうがやや上目遣いに――これは紅月と朗輝の身長差の関係だが――こちらを見る。朗輝にのぞき込むように顔を見上げられて、紅月は思わずたじろいだ。


 ほんとうに、これから朗輝との二度目の逢瀬がはじまるというのか。


 改めて、信じられない気分になった。


「ね、贈った菓子は、食べてくれた?」


 現実味のなさに、つい、ぼうっとしていると、朗輝が待ちきれないというふうに訊ねてくる。


「……っ、は、はい! もちろん……」


 紅月は慌てて応じた。


「とても、おいしかったです。見た目もうつくしくて、甘さが上品で、皮はさくさくとしているのに、口にふくむとほろりと融けてしまうような食感がおもしろくて。いくつでも食べたくなってしまって、困りました」


 素直に感想を述べると、それを聴いた朗輝が、ほ、と、息をついた。


「ああ、よかった。あのあとであわてて作ったし、うまく出来ているか、あなたに気に入ってもらえるかって、ちょっと、不安だったから」


 そう言ってから、にこ、と、笑う。


 色素の薄い細い髪が、陽光を含んであたたかく輝いた。


 相手が紅月の反応を気にしていたということが、紅月をなんとなくくすぐったい気持ちにさせる。


「おいしかったです……ほんとうに」


 気がつくと、わずかにうつむいて、自分の中に生じた甘い感情のままに、こちらも、ほう、と、吐息していた。


「っ、あの……これ」


 自分の嘆息の甘さに驚いて、だからそれを誤魔化ごまかすかのように、紅月は慌ててふところを探った。


 取り出したのは、父に命じられ、手ずから刺繍ししゅうほどこした香り袋である。それを、恥じらうようにうつむきつつも、朗輝のほうへとそっと差し出した。


 図案は、花鳥に、しょう国にとって吉祥きっしょうの象徴である月を合わせたものである。


「僕に?」


 相手は思ってもみなかったというふうに目をぱちくりさせた。


「その、こんなものでは、御礼とも申せませんが」


「もしかして、あなたが作ってくれたの? 僕のために?」


「はい……つたな細工さいくではありますが、受け取っていただければ幸いです」


 言いながら、紅月はますます恥ずかしくなってきていた。朗輝がてのひらの上にった香り袋を、しばらく無言でまじまじと見下ろしているからだ。


 父に言われるがままに刺繍をしてはみたが、そういえば、相手は皇太孫、直系皇族なのである。普段から上等の細工物に囲まれて暮らすのだろう人の目には、いま、紅月が差し出した素人の手製の香り袋がどう見えているだろうか。


 いかにも見窄みすぼらしく映るのではないだろうか。もしかしたら、書画でも器物でも、何かしら一流の者の手になるものを贈ったほうが返礼としては正しかったのではないのか。


 だんだんと、そんなふうに思えてくる。


 朗輝はまだ、紅月の作った香り袋を手に、じっとそれを見つめて黙り込んでいた。


 きっと反応に困っているのだ、と、そう思えば、ますます居た堪れない気持ちになった。


「あの、要らなければ……」


 気にせず捨ててくださって結構ですから、と、そう口にしかけたときである。朗輝が不意に、ぱっと顔を上げた。


「っ、ありがとう……!」


 彼は陽光みたいに輝く笑顔を見せる。


「すごく、うれしい……! ずっと、大事にするから」


 そう言って、いかにも大切そうに両手でそれを包み込みながら、微笑わらう。いったん胸に押しいただくようにしてから、朗輝はそれをふところへと仕舞い込んだ。


「あの、殿下……ご無理なさらなくても、気に入らなければ、捨ててくださいね」


「何の話? 僕は無理なんかしてないし、あなたがくれたものを捨てるわけがない」


「でも……」


「でも?」


「いえ……なんでも、ありません」


 紅月が結局口籠もると、朗輝は不思議そうに目をまたたいた。


 けれどもすぐに、思い切ったようにこちらに手を伸べてくる。


「行こうか。――今日はみなとへ行ってみたいんだ。ちっとも雰囲気のない逢瀬で、あなたには申し訳ないんだけど」


 そう言って肩をすくめるようにし、苦笑する。


「いえ、そんな」


 紅月はちいさく首を振った。


「お仕事ですか?」


 訊ねると、半分は、と、朗輝は答える。


「成人したばかりだから、まだいろいろ勉強中で……その一環ってところかな。僕はまち歩きにも慣れてないし、いろいろ教えてもらえると助かる」


「それは、私でご期待にえますかどうか」


「あれは何、これは何って、うるさく訊いたらごめんね。鬱陶うっとうしかったら、そう言ってくれていいから」


「と、とんでもありません。わかる限りはお答えいたしますから、ご遠慮いただかなくて、大丈夫です」


「ありがとう。助かる。――それでは、蘇礼部侍郎どの。ご令嬢をお借りいたしますね」


 すこしだけ大人びた改まった口調で英俊に告げながら、朗輝は紅月を馬車へといざなった。


 最初はどこか呆気あっけにとられたふうに、だが、次第にぶくみにこちらの遣り取りを見守っていた様子だった父は、朗輝の言葉に、なぜかさらに笑みを深める。


不束ふつつかな娘ですが、多少なりともお役に立つようでしたら、どうぞお気兼きがねなく使ってやっていただければと存じます、殿下」


 腰を折って礼の恰好を取る。


「お前は殿下に粗相そそうのないように」


 紅月にはそう言って、英俊はこちらを送り出した。

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