第10話 次はあるか

「で。どうだったのだ?」


 行きと同じく皇家の仕立ててくれた馬車で自宅であるへと送り届けられた紅月こうげつに、開口一番、父の英俊えいしゅんはそう訊ねた。夕刻のことである。


「あまり長時間になって、あなたを疲れさせても申し訳ないから……今日はここまでにしようか。僕としては、まだまだ名残惜しいんだけど」


 そんなふうに朗輝ろうきが言ったのは、日が西へと傾きかけた頃のことだった。


「ほんとうはあなたの府邸やしきまで送りたいんだけど」


 そう溜め息をつきつつ、相手は皇宮の端にある南門のところまで紅月に付き添ってくれた。ほんとうに、最後の最後まで、紅月に最大限の気遣いを以て接してくれたと思う。


 だからこそ、そんな朗輝に、別れ際、どうしても抑えきれずに紅月が訊ねてしまった。


「殿下は、その……どうして、わたしを?」


 なぜ此度こたびの見合いの相手が、よりにもよって、ずいぶん年齢が上の紅月だったのだろうか。


 おずおずとしてみた質問に、朗輝は、こと、と、小首をかたげた。


「それは、僕がいつあなたを見初みそめたかっていう質問?」


「っ、み、そめた……?」


 思ってもみなかったその言い方に、紅月は慌てふためく。


「だって、そういうことでしょう?」


 目を白黒させるこちらを前に、けれども朗輝は屈託くったくなく言って肩をすくめた。


「そうだね。教えてもいいんだけど……今日のところは、秘密に、しようかな」


「え?」


「だって、そうしておいたら、今度会うまでの間に、あなた、すこしでも僕のことを考えてくれるかなって……傍にいない時間も、あなたの心のなかに僕がいるんだったら嬉しいから。――だから、秘密」


 十六歳の皇太孫こうたいそん殿下は、ゆるく笑んだくちびるの前に人さし指をそっと立てて、目を細めた。


 その刹那、ふいに相手の表情がひどく大人びたそれに見えて、紅月ははっとしてしまった。


 薄暮はくぼ残照ざんしょうの中で微笑む相手は、少年から青年への過渡期かときにあるもの特有の、甘いかげのようなものをまとっている。


 相手の黒眸こくぼうに真っ直ぐに見つめられて、胸がきゅうっとなって、だから紅月は、結局、そのまま逃げるように馬車に乗り込むんでしまった。


「気をつけてね。また今度会える日を楽しみにしてる」


 朗輝は最後に車駕しゃがの小窓を開けて、紅月にそう声をかけた。


 その後すぐに馬車は動き出したが、そこから蘇府に着くまでの間、頬どころか耳まで熱いわ、心臓はばくばくと煩いわで、本当にたいへんだった。思わずずっと隠し持っていた算盤さんばん算木さんぎとを取り出して、己を落ち着かせようと、胸に押し当ててしまったほどだった。


「なんというか……わたし、死んでしまうかと思いました」


 朗輝との初の逢瀬はどうだったのだ、と、そんな父の問いに、紅月は今日のあれこれを思い出しながら、そんなふうに答えた。


 朗輝と過ごした時間は、おそらく、二時辰じしん――およそ四時間ほど――ばかりだったと思う。が、紅月はその間、ずっと調子を狂わされっぱなしだった気がする。


「なんと……皇太孫殿下はそんなにも気難しい方だったのか?」


 死などという物騒ぶっそうな語を使った娘に対し、英俊がうれわしげに問いを重ねる。


 なにしろ相手は直系皇族なのだ。粗相そそうがあったり機嫌を損ねたりすれば、実際、首が飛んでもおかしくはないのだった。


 だが、もちろん、紅月は父が案ずるような意味で言ったのではない。


「殿下は、その……ほがらかで溌溂はつらつとして、ご聡明で、度量も大きくていらっしゃるようにお見受けしました。それに、とても……おやさしかった、です」


 言われた言葉の数々、相手が自分に接するときの態度などを思い起こしつつ、気恥ずかしさに目を伏せるようにして言う。


 すると、そんな紅月を見た英俊は一瞬驚いたように目をみはり、それから、うんうんとひとりうなずきながら、どこか嬉しそうに笑った。


「ほう、ほう。心配していたが、なかなか順調に過ごしたようではないか。――それで、紅月。次の機会はありそうなのか?」


 今日は見合いだったとはいえ、まだ縁談は内々のものでしかない。なにしろ、事は皇太孫殿下の婚姻なのである。皇家の家長である皇帝の名のもとに蘇家へと婚姻が申し込まれて、そこで初めて、それは正式な段階へと入るのだ。


 つまり、それまでなら、いつ何時、白紙に戻ってもおかしくはないというわけである。


 次か、と、紅月は思った。


「大きな問題があったとは思いませんが、次があるかは……控え目に言って、未知数でしょうね」


 朗輝は終始、にこやかに、丁寧に、こちらに接してくれた。最後見送ってくれたときには、また今度、と、そうも口にしてくれていた。


 けれども、それらがあくまでも臣下の顔を立てての表面上の態度ではなかったと、どうして言い切れるだろうか。


 むしろ、まだ少年ながらも様々なことをおもんぱかれる優しさと賢さをそなえた人だからこそ、彼は最初から最後まで、紅月を傷つけないように振る舞ってくれていただけのことなのかもしれない。


 もしもそうなのだとしたら、次の機会があるかどうかは、微妙だと言わざるを得ないだろう。


 期待なんかしないほうがいい。


 否、してはいけないのだ、と、紅月は自分に言い聞かせるように、心中に独りちた。


「ただ、殿下は……わたしのことを、今日以前から、ご存知だったような口振りでした。どうしてでしょうか?」


 紅月が英俊を見ると、父は不思議そうに首を傾げた。


「さて。成人の儀の折にでも、お前のことを見かけられたのだろうか」


 それくらいしか考えられないのではないのか、と、英俊は言う。


 確かに、紅月と朗輝の接点がその日以外に想定しにくいというのは、間違いないことだった。が、それはそれで、まだ釈然しゃくぜんとしない部分が残る。


「ですが、あの儀式の時にわたしがいたのは、末席も末席です。ふつう、距離が遠くなれば、ある物体の視野に占める幅、つまり視角は狭くなりますから、要するにわたしからは殿下が豆粒のようにしか見えませんでしたし、殿下からも、わたしはそのようにしか見えなかったと思われるのですが……それでどうやって、殿下がわたしを見初みそ……っと、わたしを、お知りになることが出来たのでしょうか?」


「みそ?」


「っ、なんでも、ありません……!」


「まあいいが。――それはまあ、お前が気付かないうちに、あちらがお前を御覧になっていたのだろう。皇宮内においては、皇族方のほうが、我々よりはるかに行動の自由が利くのだし」


「たしかに、それはそうですけれども……」


 朗輝の成人の儀の折の、いったいいつ、紅月は見られていたのだろうか。秘密だ、と、今日の別れ際に朗輝は言っていたが、そのときの自分は、いったい、おかしなことをしていなかっただろうか。


 紅月は、そ、と、嘆息する。


「とりあえず、父上。明日にはあちらから断りの信書てがみが届くかもしれませんが、どうか、お気をお落としならないでくださいね」


 それもまたこの話がもたらされた最初の段階から相当に確からしい、想定の範囲内の出来事なのだから、と、紅月は破談になった際の父の落胆を思いやって、あらかじめ予防線を張っておいた。


 しかし、である。


 案に反して、紅月が予想したような内容のふみが、蘇府に届くことはなかった。


 そのかわり、次の日のひる過ぎに届けられたのは、朗輝の手製のものらしい菓子が詰められた、うつくしい細工のあるはこである。


 それと共に、次に会った時には食べてみた感想が欲しい、と、そんなことが書かれた信書てがみだった。もちろん、朗輝から紅月に宛ててのもので、どうやら相手の直筆らしい。


 そして、そのふみにはまた、四日後にみなとまで視察に出掛けるからその際には付き合ってほしいといったことまで、書き添えられていたのである。


 すなわち、次の逢瀬の約束だ。


「あの、父上……ほんとうに、これは何かの罠か、陰謀たくらみではないのでしょうか?」


 こんな己の縁談であるにも関わらず、あまりにも事が順調に運び過ぎていやしないだろうか。


 そのことに紅月が、かえって一抹いちまつの不安を覚えて英俊に問うと、父もまた、うむ、と、うなった。


「いやいや……莫迦ばかを言うな、紅月」


 気を取り直したように、英俊は紅月をしかった。


「あちらがわざわざ手作りの礼物おくりものをくださったのだ。とりあえずお前も、刺繍ししゅうの香り袋か何か、殿下に御礼としてお渡しできるものを用意しなさい」


 そう、命じられる。


「はあ……」


 紅月は曖昧あいまいにうなずいた。


 釈然としないものはあるが、とりあえず、いまは英俊の言うことに従っておこう。


 幸い、刺繍はわりと好きなので――手順通りに刺していくことで図案が再現されるのが、手順に則った操作によって解を得る算術と通じる気がするからだが――苦にならないし、むしろどちらかといえば得意なほうかもしれない。


「わかりました、父上」


 紅月はあらためて、父の言葉に素直な返事を返す。


 本当は、格子や菱紋ひしもん、波状紋などを組み合わせた図柄のほうが好みではあったが、そこは我慢して、おとなしく花鳥の刺繍を入れた香り袋を、朗輝への贈り物としてうことにした。

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